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<   2010年 02月 ( 13 )   > この月の画像一覧

海外club

海外クラブ

 

イングランド

アンバークラウンFC 76-8079ECL優勝、80ベスト8

セルバーリー(04年に昇格後、一気に強豪へ)

ハバールヒューズFC

キンバリースター・ユナイテッド(屈指の名門)

ハッパースルーFC 79-90(中堅→強豪82年準優勝83ECL出場。→中堅)

ハーマンレーカーズ

テルファーFC(強豪)

アルベール(強豪)

リーベンパール(名門)

ベイゲート・リール

バーハンダFC

ケールスワードFC

FCカクラス・シティ

エディクソン・トルータス(古豪、中堅。近年は9604ECC準優勝)

ホワイトキャッスル(00年代前半2部)

マイルビーチ(05年に2部)

トッタム・アイスパーズ

ブルック・ダンズ(2部)

サウザン・ユーティリス(2部)

ヘイント・ジェファーソンズ(2部)

スミス・カプルチーズ(2部)

ノース・カイルティング(3部)

ウィークルカイルFC3部)

 

スペイン

ベルセーナ(常勝軍団)

レード・アルミーロ 80-88(強豪。83 84年リーグ優勝、ECL優勝、86ECL準優勝)アトレチコ・リバリア 68-82(強豪。76年リーグ優勝)

ベルガボラ

アルトウェーボ 79

オレスナ(中堅)

ヨルベロア

コルドバ

トルド・アトレチコFC

クールマルス

アルフェルト・マディアール

ペルキント 83(下位)

ライモンテ(2部)

デッカリ(2部)

アントレミーゴ(2部)

セスーナ(2部)

アルコン(00年代初頭2部、04年に昇格後は1部中位上位を維持)

ウチリコーティFC(セミプロ)

 

イタリア

ポクリティス(上位)

ベナーロ 84-8783ECL出場。現在も強豪)

ウダイセクタCC90年代後半に強豪。現在は財政破綻による降格を経て中堅)

チッコリーネ 80-82

バジリオンネ 81

カンポーズ

CASAローマ

SSCパドヴァ

トリエステ・デFC

ハミケーレFC

ナポリFC

セロゼーナ

フィジリオCCBの強豪)

ソノミコーリ(B

シリーニア

ダーイオテーレ(C1B

チッコリーネ(B

キオリーニャ(00年代初頭C1

CCカタルツィア(C2

 

ドイツ

ダッハウ・シュベリーセスガー 73強豪

マンハイム・ゼキューラー 76-78中堅

オッフェン・ブルーガFC 79-82リーグ上位強豪

ハルシールAFC

サインツ・ベルリン

ベルリン・ハウザンハイムFC

ダウケン・グランデッヒ 75-76リーグ下位

ハインベルグ・ネッヘン 80-81

シュテーク・ザルテヘイン 82-83

グラツム・シュベントバッハ(00年代はエレベータークラブ、弱小)

ケイルハリエFC90年代後半2部)

SCシュベットブルグ

ヨーイェル・セミグラッハ

ベルリン・アテークカッツ(85年にセミプロで創立。現在はプロ化し2部)

FCザーウカイツァル

シュテッカーFC

シュトゥットガルト・ブナキジウム

VfBヴォルムス

 

フランス

メルニーヨルテ 80

ミルセボン

エールイール

エラセナ

ヴォーエ

セルーゼ

サンテシュミーラー

スキップ・アルニク

パリ・ルーベルタン(古豪、04年に2部降格も現在は1部上位)

カジョーFC(下位)

ルエン(下位) 84-86

FCモンテサンテル(古豪)

ショートルFC90年代2部)

グルベーニュ 87-882部)

ユーベルポッケ(2部)

 

オランダ

フェーレンヤン 72-75(強豪)

ユーティック・アクセルシュール(強豪)

オーレンヴァルデ(強豪)

ヘッテルセDVC

NAVオデマタイン

エクシュルファンサール(下位)

DECジュールメント(下位)

BCKアテークカート 69-712部)

セルファイン・フェルカーク(2部)

レックスアーゼン(2部→1部→2部→3部)

 

ロシア

ゲセル・マリン(強豪)

ペゼル・ベルガナード 82-8581ECC優勝)

 

ポルトガル

リスボン・エーレミーレFC 71-75(強豪)

デミーオミーオ 中堅 86-90

フィルッカ

サッカローネ

フィラメント・エスコーラ 69-732部)

レアシーア 91-922部)

ポルト・コルティック・エミールジュール(3部)

 

スイス

FCスヴェルコフ

FCフェールスブルグ

 

スコットランド

ハイハーミアFC

セント・カイル

マーカンソー(3部)

 

ウェールズ

クイナーズ・ベルトマンFC(強豪)

 

スウェーデン

ハルカストFC 82-84

ポールセンキFC

 

ユーゴスラビア(現在は消滅)

ヤヴェル・ドモイツォイFK(名門)

 

セルビア・モンテネグロ(現在は消滅)

ブヴェットFK

 

セルビア

ゴニール・カプレコ

 

ポーランド

シュキポルドニツクSK

リムーデ・クロセフ(強豪)

 

ノルウェー

オネールFC

ホルンピーカーズ

 

ギリシャ

ステアナコスATK 85-86

タニクパイルス

AZKベルキオン

セリコナイアスFC

カッサニロキ

 

ブルガリア

カテラスラFC(強豪)

 

ラトビア

ユニーズ・キラスティア(強豪)

ボル・ミセント

 

アイルランド

ボウストカンFC

 

トルコ

ティカルルFC

センルースールFC

シュクタス(上位)

 

ブラジル

サントミオFC(全国1部の名門)

FCヴェーゲルサント(全国1部の名門)

FCポルティージョ(全国1部)

センカナインホール(全国1部)

シカタFC(全国2部)

リンデーラ・ポストミーナ(全国2部)

タナカFC(全国2部)

デジャ・クリエトFC(全国2部)

ヴァレーン・アトレチコ(全国3部)

ビルベルト・サントス(全国4部)

アトレチコ・アッテーリア(ミネイロ州1部)

アトレチコ・エルジーニョ(ミネイロ州1部)

ベザルゴBCC(ベザリーゴ州1部)

サボラFC(エルバイーア州3部、育成目的)

 

アルゼンチン

ストイーチコ・パレーツ

セルフィーニャ

チーバ・ガーリバFC

ブエノスアイレスSC2部)

フレミオFC2部)

 

コロンビア

デポルテス・ト・ナガリート

デポルティーボ・ハキントコス

 

パラグアイ

エル・コペルニシオス

 

ペルー

リヴァン・テレカンテFC

 

アメリカ

ウィーラーSC 83

 

メキシコ

マレイヨ 89

アノーキ・スキットリトSC

カンティゴレス(強豪)

アントレー(中堅)

 

グアテマラ

グアテマラ・レニーニャFC

 

日本

ジェフユナイテッド市原

名古屋グランパスエイト

清水エスパルス

館山ブルーマリンズ(07J209年昇格)

 

韓国

珍塔ベアーズ

ソウル・シーガルズ

 

イラン

テヘラン・アジェイドFC

 

UAE

アル・ハイーダ

ラウディア

 

カタール

アル・ミダデルキSC05ACLベスト8

 

クウェート

ファジ・イリヤ

サンニ・アルベオ

 

ベトナム

ヒャンルー・チムチャン 89-91

 

チュニジア

フェルチュ1907(強豪。05CAFCLベスト4

 

エジプト

サインツ(強豪)

 

ガーナ

ハインツFC

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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by remarkabler | 2010-02-17 03:27

19782

フィリップ・オリベルト Philipe Olivelt MF 23歳 1955年、サシャーユ西部の工業都市ハインリ生まれ。12歳で地元フェルナンドスの下部組織に入団。その後72年に2部エルナントへ移籍すると、73年には早くもトップチームデビューを飾った。その試合で初得点を記録し、彗星の如く現れた若手として注目を集めた。 しかし、その後ケガなどで悩み、スランプに陥る。この間はひたすら肉体強化を目指してトレーニングを続け、優れたボディバランスと強靭な肉体を手に入れた。 すると75年、数少ない出場機会で結果を出して初のレギュラーに抜擢。183cmと大柄な体格と肉体強化の成果により、空中戦などでは絶対的な強さを発揮した。パス技術は超一流では無かったが、ボール奪取能力と守備陣統率は高いレベルにあった。 この年は、2部所属ながらも代表に初選出。だが、当時のボランチには絶対的存在のアルマンダがいたため定位置を奪うことはできなかった。それでも代表戦には選出され続け、アルマンダが大ケガで負傷離脱した際はその穴を感じさせない働きで、代表での不動のボランチとなった。78年WFCでも4-2-3-1のシステムで右のボランチとして活躍した。 そして、80年にドイツのハインベルグ・ネッヘンへ、82年には、スウェーデンの強豪ハルカストFCへ移籍した。スウェーデンリーグへの移籍は、サシャーユ初であった。ここでは屈強な肉体を評価されてCBとしてもプレイした。 代表へは78年WFC後も選出され、82年大会へ向けたチームの主力だった。しかし、予選敗退を喫してサシャーユの3大会連続、自身の2大会連続出場はならなかった。 85年になると、ギリシャのステアナコスATKへ、当時のギリシャリーグ最高額で移籍。しかし、直後に負ったケガの影響で満足なプレイは出来ず、ベンチを温める日々が続いた。また、肉体改造に関わるドーピング疑惑が持ち上がり、一年間の出場停止仮処分を受けてしまう。本人は無実を主張したものの、当時の科学技術の精度では真偽の判定が非常に困難で、現在も有罪は確定していない。しかし、仮処分を重く見たギリシャリーグや代表チームが出場機会を与えることは無くなり、86年に催された引退試合を最後に引退した。 引退後は勉強を重ね弁護士資格を取得、スポーツ選手に関わるドーピング問題に尽力している。06年には国際スポーツ選手裁判弁護会を設立し、会長職である。 フェルナンドス 67-71 0試合0得点 エルナント 72-79 152試合5得点 ハインベルグ・ネッヘン 80-81 53試合7得点 ハルカストFC 82-84 98試合6得点 ステアナコスATK 85-86 3試合0得点 代表 51試合6得点 通算 357試合24得点 セマルコス・ヴァラーニ Semarcos Varrani DF 29歳 1949年、サシャーユの首都サシェリア生まれ。少年時代から恵まれた体格を生かし、サッカーではあらゆるポジションでプレイしたという。高校卒業後の68年、プロテストを受けて当時2部のハワードヘリーFCへDFとして入団した。この時の身長は191cmである。 入団当初はプロの厳しさについていけずに出場機会が限られ、翌年は同じく2部のプルードへ移籍。その年からは徐々にトップチームでの出場が増えていった。長身に似合わないかなりの俊足が持ち味で、空中戦と競り合いには安定感があった。 71年になると、チームでレギュラーCBに定着。この活躍が1部のクラブであるアントレフェールトの監督の目に留まり、若手CBの補強のために73年に移籍を果たした。移籍後すぐにレギュラーの座を奪うと、3バックと4バックの切り替えなどの戦術にも柔軟に対応。戦術面の事情から途中出場することになっても試合にスムーズに入り込める戦術理解能力なども高く評価された。当時のアントレフェールトは優れたDFが多く守備重視だったが、その中でも早くから自らの地位を築いた。 代表への初選出は77年。当時のCBはトリオレスとセンソンが絶対的レギュラーだったものの、バックアッパーとして大きな信頼を置かれた。78年WFCへ向けた予選にも5試合、本大会でも1試合に出場を果たしている。前評判は低かったが、高いレベルでこなした。 82年WFC予選では主力だったが、DF陣の高齢化の影響などで敗退後に召集は無かった。 大会後は、経験と実力のあるCBのバックアッパーを探していたサシャーユFCへ移籍。控え選手として三年間在籍した後、82年からはドイツのシュテーク・ザルテヘインへ移籍。84年にはフランスのルエンでプレイした。最後まで現役にこだわり、ルエンを退団した87年にはフランス2部のグルベーニュへ入団、89年にメキシコのマレイヨで現役を引退した。 引退後はルエンでGMを務め、優れたスカウティング能力で多くの若手選手を発掘した。その後はメキシコ時代の人脈を生かした中南米選手の代理人形を開始。現在はサシャーユを拠点に様々なスポーツ選手の代理人業を担っている。 ハワードリーFC 68 2試合 プルード 69-72 62試合2得点 アントレフェールト 73-78 177試合2得点 サシャーユFC 79-81 44試合1得点 シュテーク・ザルテヘイン 82-83 21試合1得点 ルエン 84-86 13試合 グルベーニュ 87-88 13試合2得点 マレイヨ 89 7試合0得点 サシャーユ代表 28試合 通算 367試合8得点 ショーナ・ミラエ Shona Mirae DF 32歳 1946年、サシャーユのポルコ生まれ。少年時代から闘志溢れるDFとして知られ、65年に2部のポンレッチェとプロ契約した。ボランチやCBとして徐々に出場機会を得て行き、68年には史上初の2部全勝優勝を果たす原動力となった。 代表としては、67年に2部クラブから唯一代表入り(出場は無し)。将来を嘱望されたものの、悪質なファールを犯してしまうなど伸び悩み、その後は長らく召集されなかった。 ポンレッチェで優勝して69年に1部へ昇格すると、チームは多くの選手を獲得。その影響でレギュラーでは無くなったが、守備的ポジションはすべてこなせる器用さが重用された。 そんな中、72年に出場機会を求めアントレフェールトへ、一年後にはエルナントへ移籍した。しかしレギュラー定着はならず、74年は2部のウォーリバヤンでプレイしている。 そうした時、75年に移籍したメハカーリョでオイヤン監督と出会う。モチベーターや選手育成に定評のあるオイヤンの指導によって自信を取り戻すと、この年はチームの危機を救う数々の活躍を見せて復活を果たした。激しい気迫で相手に向かい、しつこく追い回す守備は相手を手こずらせた。ケガを滅多にしないことも強みで、長期離脱は一度も無かった。 その後はレギュラーの地位を確立し、77年からはキャプテンを任されている。 長らく代表とは縁が無かったが、78年WFCへ向けた最終予選で守備のバックアッパーが駒不足になり、77年末に急きょ選出された。コンビネーションで不安が多く、ぶっつけ本番とも言える状況だった。だが大きなミスも無く、大会後の80年まで選出されている。 クラブでは、79年にワラルースへ、80年には2部のジュロ・イヴァータへ、81年からは3部に相当する全国1部リーグのハリート・エマーソンズでプレイし、82年に現役引退した。 現在は故郷のポルコでレストランを経営している。 ポンレッチェ 65-71 65試合7得点 アントレフェールト 72 4試合 エルナント 73 7試合 ウォーリバヤン 74 28試合7得点 メハカーリョ 75-78 88試合2得点 ワラルース 79 14試合1得点 ジュロ・イヴァータ 80 10試合 ハリート・エマーソンズ 81-82 27試合5得点 代表 15試合 通算 243試合26得点 ヴァンディ・ヴォドン Vanddy Vodone FW 31歳 1947年、サシャーユのカルデミラ生まれ。11歳で地元のカルデミラ・フミーラFCへ入団すると、攻撃力が注目されて17歳でトップチームデビュー。FWとしては1トップ向きではなく、選手同士の連携や泥臭く得点を狙うプレイを見せたが結果は出ず、66年に2部から昇格するヘルマーへ移籍。「天才」と呼ばれ将来が期待されたが、ケガをしがちであり、レギュラー定着はならなかった。 69年、オランダ2部のBCKアテークカートへ移籍。がむしゃらなボール奪取力が見込まれて主にCMFとして起用された。数度のケガも克服しMFとして一定の評価を得ると、FW起用を熱望。72年にオランダ1部の強豪フェーレンヤンへ移籍し、3トップでプレイした。その後、75年は前年に負った初代表戦でのケガが影響し、開幕当初は出遅れた。だが、復帰後は14試合で11得点と大活躍。これで世界的な注目を浴び、76年にイングランドの強豪テルファーFCへ移籍した。77年は主にウイングとして出場し、27試合で10得点を記録。「この年は自身初めてケガ無く過ごし、充実したシーズンだった」と語っている。 だが、海外でレギュラーを獲得していたが、当初は代表に選出されなかった。当時のシステムは1トップであり出場機会が限られたこと、中盤に多くの選手が固まっていたこと、ケガをしがちなことなどから評価は低かったからである。74年になって初召集されたが、このときに試合中にケガをし、1試合のみの出場でWFCメンバーの選考から外れている。 しかし、77年のクラブでの活躍が見込まれ、この年から代表へも再び召集。控えながらも、点の欲しい後半やパワープレイなどで積極的に起用されて結果を残した。78年WFCのメンバーにもスーパーサブとして選出された。初選出から6試合でのWFCメンバー選出はサシャーユ史上最速(当時)である。 その後はケガで出場機会が減り、79年に1部昇格したBCKアテークカートへ移籍。しかしケガを再び負って戦力外となり、80年は全国1部リーグ(3部相当)まで降格したカルデミラへ復帰。ケガから復帰後は81年の2部昇格に貢献し、この年限りで引退を表明した。その後は株で資金を成し、04年にカルデミラを買収。強化に着手した。 カルデミラ・フミーラFC 58-65 6試合0得点 ヘルマー 65-68 23試合2得点 BCKアテークカート 69-71 56試合8得点 フェーレンヤン 72-75 56試合19得点 テルファーFC 76-78 52試合14得点 BCKアテークカート 79 4試合0得点 カルデミラ・フミーラFC 80-81 14試合7得点 代表 14試合4得点 通算 225試合54得点 ロベルト・ウォール Robert Whole DF 21歳 1957年、サシャーユのポカン生まれ。少年時代から地元のアマチュアクラブでサッカーを始め、10歳の時にスペインリーグの強豪アレトニコ・リバリアのテストに合格した。その後、11歳でアレトニコの下部組織へ入団している。 スペインでは鋭い読みとスピードが評価され、DFとしての基礎を叩き込まれた。下部組織では主にSBとしてプレイし、76年にレギュラーSBの代役としてトップチームへ昇格した。 彗星の如く現れたウォールは、アレトニコの攻撃スタイル(サイドからの徹底した攻撃)に縦へのスピードと前へ置くトラップ技術などが見事に適合。76年はシーズン途中からレギュラーの座を勝ち取り24試合に出場、5得点を挙げ5年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。 この活躍を受け、77年から代表にも選出された。WFCを翌年に控えてチームの基盤は出来上がっていたものの、SBの控えとして積極的に招集されている。代表デビューは77年の親善試合だったスペイン戦で、見事なミドルシュートを決めている。 78年WFCのメンバーにも順当に選出され、直前にケガを負ったものの2試合に出場した。 その後、クラブでレギュラーとして活躍し、79年には再びリーグ優勝を経験。サシャーユを代表するSBとして、「代表のSBは10年安泰」とまで言われた。だが、連戦の疲れか80年ごろから精彩を欠き、次第にレギュラーの座から遠ざかっていく。 そして83年にはついに放出という形で同リーグ下位のペルキントへ移籍。やや復活の兆しを見せたものの、翌年にはサシャーユのバンザウェイへ移籍している。バンザウェイでは、スピードの衰えを補うためにワンタッチでのボール捌きを生かしてボランチやトップ下でのプレイも身に着け、重用された。87年と89年にはECL予備選、本戦にも出場した。 代表では78年以降は常時招集されていた。だが、起用法で迷走を続けたパレッチ監督は80年に更迭。後任のアルモンネ監督からは、自身の不調もあって召集されなかった。82年WBC後も召集されず、86年のWFC予選に向け85年に復帰したが、予選敗退を喫している。その後、90年WFCの予選を突破。本大会には控えのボランチとして選出された。 92年に現役引退後はバンザウェイのコーチに就任。95年に退任後は解説者、実業家として活動していたが、00年にバンザウェイの経営委員入り。財政危機にあったクラブを立て直し、リーグ屈指の集客と黒字経営を誇る盤石体制へ変貌させた。 アレトニコ・リバリア 68-82 167試合17得点 ペルキント 83 14試合1得点 バンザウェイ・ヘンデリッターズ 84-92 215試合32得点 代表 57試合6得点 通算 453試合56得点 カレオ・フラッペ Careo Frappe GK 26歳 1952年、サシャーユのトリーニョ生まれ。幼いころから地元のトリーニョCDでプレイし、67年に正式に下部組織へ入団。当時はFWとしてプレイしていた。だが、同期入団のポダーが結果を出し続け、FWとしては伸び悩んでいた。 その後、驚異的なジャンプ力が高く評価され、69年にGKへ転向。当時の身長は179cmと小柄だったものの、下部組織の正GKとしてユースカップ準優勝などを経験した。 71年、身長が181cmまで伸びたころ、鉄壁の守備と恐れられたトップチームへ昇格。ウィークリー・カップなどの少ない出場機会で着実に結果を出し続け、高いレベルの守備システムを会得。しかし正GKは遠く、リーグ中位クラブの第2GKとして辛抱の時期が続いた。 そして74年、185cmになった身長に加えてジャンプ力と瞬発力に磨きをかけた。新加入の元フランス代表GKカシューが不調に陥り、レギュラーに抜擢されると好プレイを連発。74年WFC後には代表にも初選出された。 その後はクラブで驚異的な成績を残し続け、上位進出に貢献。76年には8試合連続無失点を記録。ECLでもグループリーグ無失点の好成績を残した。 代表では75年に正GKへ大抜擢。経験不足との声もあったが、不動の守護神として活躍した。守備の選手が確定しない中でもサシャーユのゴールマウスを守り続けた。78年WFCの予選は右足首の骨折で出場できなかったが、本大会では復活して3位入賞に貢献した。 その後も正GKとして81、85年のヨーロッパ選手権などに出場し、86年に代表を引退。 フラッペはそのジャンプ力と瞬発力が最大の武器で、相手のパスに果敢に飛び出した。最後までそのスタイルは変えずケガは多かったが、大ケガは77年の骨折だけであった。 クラブとしては、79年にスペインのアルトウェーボへ移籍。翌年は同リーグの強豪レード・アルミーロFCへ移籍。ECL常連クラブの正GKとして、83年はリーグ優勝、84年はリーグとECLの二冠、86年はECL準優勝などの結果を残した。 89年はトリーニョへ復帰し、90年にリーグ優勝したが現役を引退した。91年からはGKコーチに就任し、94年には監督解任により暫定監督も務めた。現在もトリーニョでGKコーチを務め続けており、堅守のトリーニョを完成させた立役者である。だが、契約も09年末で終了することが明かされ、今後の去就が注目されている。 トリーニョCD 67-78 156試合 アルトウェーボ 79 41試合 レード・アルミーロFC 80-88 284試合 トリーニョCD 89 70試合 代表 108試合 通算 659試合 セマルコス・サシャエル Semarcos Sashael MF 23歳 1955年、サシャーユの首都であるサシェリア生まれ。サシャエルの名は古代においてサシャーユ領主だったためとされる。 13歳でサシャーユ本島とは離れたメルキア島の名門学校に進学し、地元のプロクラブであるメルキアFC(5部相当の地域2部リーグ)に入団。16歳の時には14試合に出場し5得点を挙げた。この年クラブは地域リーグ1部(4部相当)へ昇格し、一躍注目を浴びた。 その後、74年に学校卒業後は両親の反対を押し切ってサシェリアFCとプロ契約。サシェリアFCは古豪として知られたが、当時は1部と2部を行き来するなど下位に低迷していた。しかし、73年はマイケル・ゼファン監督の指揮で国王杯準優勝を経験。74年には退任したゼファン監督自らが、サシャエル獲得を熱望したという。サシェリアFCでは2年目から出場機会を増やし、75年には17試合に出場するなど、試合での経験を積んだ。 持ち味は独特のリズムを持ったドリブル。ボールを取られないバランスのとり方が絶妙で、FWと中盤のほとんどのポジションをこなせるセンスや、運動量が重用された。シュートセンスも優れ、ループシュートは達人級と評され、意表をついたプレイが多かった。 75年、20歳にしてゼファン監督の率いる代表に初選出。出場機会の少ない中で結果を出し、78年WFCメンバーに選出された。82年、86年のWFC予選などには選出されていない。 その後、再び下位に低迷したチームは10代の若手選手の積極的な育成へ着手。監督の方針もあって途中出場が多くなり、中堅選手としての居場所を求めて79年にリードンへ、83年にはワラルースへ移籍した。ワラルースではトップ下でレギュラーとして活躍し、83年の4位躍進へ貢献した。この年は自身初のベスト11にも選出されている。 84年、イングランド2部のヘイント・ジェファーソンズへ移籍。2年間プレイしたが、1部昇格は果たせず帰国。ワラルースへ復帰したが、足首を痛め87年に引退した。 その後はテニス界に進出し、テニス大会のプロモーション等を経験。しかし負債を抱えた後、一切手を引いている。94年にワラルースのメインスポンサーであるクツフルツ自動車へ入社。現在はアジア担当のディーラーとして活動している。 メルキアFC サシェリアFC リードン ワラルース ヘイント・ジェファーソンズ ワラルース 代表 通算 サシャーユ代表歴代監督 アーマル・ディレイクト Armal Direycte 1908−11 サシャーユ出身。サシャーユ代表の初代監督であり、当時存在したコルト代表との統合を行った人物でもある。詳細な経歴は不明だが、プロ化以前のクラブチームで選手兼監督を経て、00年代初頭に選手を引退。07年に初開催された国王杯で優勝したアントコールFCを率いた実績を買われ代表監督に就任したという。同クラブの選手を中心とした編成で08年ロンドン五輪に出場したが、8ヶ国中7位に終わっている。 翌年の国王杯初開催はこの惨敗の反省の上になされたと言われ、ある意味プロ化に影響を与えた人物である。 採用フォーメーションは当時の主流であった2−3−5であった。 フレデリック・ハーバートン Frederick Harbarton 1911−17 イギリス出身。当時世界最強とされたイギリス代表に長らく関わり、08年ロンドン五輪で優勝した同チームにも帯同していた。イギリス国内で監督を務めた後、就任。 就任直後から協会と話し合いを続け、年内にリーグ戦を開始させた。イギリス式の練習法や戦術を植え付けたとされ、2−3−5のフォーメーションで多くの国際試合に参加した。6年間に渡る長期体制の中でサシャーユサッカーのレベルは飛躍的に上昇し、国際的な水準に引き上げた功績は名高い。 12年のストックホルム五輪では12ヶ国中5位と、着実にレベルアップを果たしている。 ヨーゼフ・コンシリア Joseph Koncila 1918 オーストリア出身。詳細は不明だが、オーストリアで監督業に携わっていたとされ、当時としては破格の大金で一年間だけ指揮を執った。 戦術は2−3−5を用いていたが、選手交代や疲労の蓄積などの知識は低く、事実上の解任で代表監督から去ったという。 ミラー・シューダ Miller Shuda 1919−22 サシャーユ出身。イギリス留学を経てプロサッカー選手となり、引退後に監督業を開始。サシェリアFCを率いた経験もあり期待されたが、一身上の都合により3年間で退任した。 戦術は2−4−4を好んでいたが、結果は芳しくなかった。 20年に開催されたアントワープ五輪に出場したものの、15ヶ国中12位と篩わなかった。 カーター・フォーナー Carter Forner 1922−24 イギリス出身。イギリス国内の名門クラブで監督やコーチを務めた経験があり、前年まではアントコールFCの指揮を執っていた。 緻密な戦略を武器に、アントコールFCの選手を中心とした代表で結果を出したが、選出の偏りを指摘されたことで協会と衝突、世論も巻き込んだ議論となった末に辞任した。 2−3−5だけでなく実験的なフォーメーションも用い、24年のパリ五輪では一回戦から出場、最終的に6位に入っている。 セイマン・ダンゲル Saiman Dangerl 1924−30 サシャーユ出身。25年にヨーロッパクラブカップで準優勝したアントコールFCを率いていた知将。2−3−5を基本としながらも若手選手やベテランを巧みに采配し、30年の第一回WFC出場へ向けて強化を進めた。 28年に行われたアムステルダム五輪は4位と史上最高成績を残し、WFCでの活躍が期待されたものの、政治的・資金的問題から断念することとなり、30年に辞任している。 サクール・イシュジマ Sakurle Ishujimer 1930−32 サシャーユ出身。現役時代はオーストリアのクラブでプレイしたといい、攻撃的なサッカーを好んだ。 3−2−5のフォーメーションを基本とし、「サシャーユ史上最も面白いサッカー」とも呼ばれている。 キャテルン・ハインゼ Caterun Hainze 1932—39 56—58 サシャーユ出身。イギリス留学などを経てサッカーを学び、1932年に代表監督へ就任。緻密な戦術と豊富なタレントを武器に34年WFCでは準優勝に導いた。 その後、56年に17年ぶりに結成されたサシャーユ代表監督に復帰。戦時中はイギリスで生活しており、そこで学んだ近代サッカー理論を代表に植え付けた。だが、戦後直後の復興期において充実した戦力は得られず、またサッカー協会の資金不足もあって強化は進まず、58年WFC出場はならなかった。 用いた戦術としては、30年代は3−2−5、50年代は4−2−4と時代に沿ったオーソドックスなスタイルだった。 フレデリック・カマン Flederickk Camene 1959-62 70-74 イタリア出身。62年に28年ぶりのWFC出場を果たした時の代表監督でもある。この時期イタリアサッカー協会との連携を強め、その一環として就任した。現役時代はDFで、引退後はイタリア国内で、主に2部クラブの指揮を執っていた。なお、67年から2年間はブルガリアで代表監督を務めている。 就任当初からFWはゴメス・ビショッパという1人で得点できる選手がおり、前線は自由さを重視する分イタリア伝統のカテナチオを念頭に置いた守備に力を入れた。3-4-1-2のシステムで、中盤でのプレスは徹底して激しく指導。60年ヨーロッパネイションズカップは予選ラウンドで大敗して敗退したが、WFC予選をヨーロッパ予選参加国中最少失点で勝ち抜き、28年ぶりとなるWFC出場を果たした。だが予選終盤になって顕著になった守備偏重やビショッパの不調もあり、グループリーグ敗退を喫した。 2度目の就任となった70年からは、堅守からテクニックを生かした速攻を指向。4-5-1を採用し、時には5バックとなった。高い技術を持つ選手が多く、体格を生かした相手には脆さを見せたが、技術でカバーした。72年ヨーロッパ選手権は予選敗退したが、74年WFCでは洗練された攻撃を披露。イタリアに敗れ予選リーグで敗退したが「予選リーグで最高に美しい敗退国」と呼ばれた。 サシャーユでの実績によって本国で再評価され、77年からはイタリアの強豪ウダイセクタの監督に就任している。 リックメル・チークル Rickmele Cheecle 1962-64 サシャーユ出身。イタリアで戦術を学び、カマンの下で代表コーチを務めていた。退任に伴い内部昇格し、堅守路線を受け継いだ3-5-2で戦った。しかし体の強さを重視するサッカーに合うだけの肉体を持った選手が集まらず、空中分解。途中からテクニック路線へ変更したが、戦術を徹底しきれず連敗を重ねた。チーム状態が崩壊した結果、64年ヨーロッパネイションズカップは不参加となり、辞任した。 ケイト・メリエス Kaito Merriese 1964-70 サシャーユ出身。戦時中にオランダへ渡り、オランダでサッカーを学んだ。オランダリーグ2部で選手としてプレイした後24歳で監督へ転身。トータルフットボールの前身となるサッカーを身近に体感した経験を買われた。 技術と戦術理解度の高い選手に恵まれ、4-3-3を採用しながら支配率を重視したサッカーを指向した。68年ヨーロッパ選手権ではグループリーグ予選を初めて突破。しかし肉弾戦を得意とする相手に脆さを見せ1回戦で敗退。70年のWFC予選敗退でも敗退を喫した。結果は伴わなかったが、フィジカルサッカーからの脱却とサシャーユサッカーの方向性を定めた監督である。 マイケル・ゼファン Michael Zefan 1974-78 サシャーユ出身。オランダで監督業を学び、3大会連続のWFC出場を目指すため就任した。 就任前は国内クラブを率いており、当時の国内リーグの主流だったイタリア式堅守戦術を一新した。システマチックでチーム全体の連動性を重視した戦術を徹底。しかし選手個人の発想力までは制限せず、特に攻撃面では多くのタレントを抱えて観客を魅了した。守備もメンバーの固定が遅れたもののコンパクトに整え、「万能サッカー」と評されるチームを作り上げた。高い技術を持った中盤の選手によるパス回しと、最終ラインからの速攻、素早いパスによるダイレクトなプレイと波状攻撃は、サシャーユサッカー界に大きな影響を与え、現在でも「完成型」の一つとして目標と伝統となっている。76年ヨーロッパ選手権をベスト8に達して迎えた78年のWFCでは、戦後のサシャーユサッカー復興を印象付ける3位入賞を果たした。20代前半の選手が多く起用された。 モル・パレッチ Mol Paretti 1978-80 サシャーユ出身。72年にECL準優勝のタリヌペイを指揮した監督だった。78年のWFCで3位に入賞した時の若手選手の成長に期待し、メンバーを固定した連携の徹底を行った。しかし、若手に期待しすぎるあまりベテラン戦力の発掘に遅れ、先発選手と控え選手の連携面で大きな差を生むこととなった。主に4-1-4-1を採用したが、システムのバリエーションは少なかった。それでも80年ヨーロッパ選手権は本戦出場を決めている。予選敗退結局連携面の不安は解消せず、直後、ケガ人の発生などもあって82年WFCの3次予選の途中、2連敗して更迭された。 フェルナンド・アルモンネ Fernando Allemonne 1980-82 サシャーユ出身。予選途中で更迭されたパレッチの後任として、急きょ就任。現役時代はイタリアでプレイし、就任直前までサシャーユサッカー協会で国際交流委員を務めていた。強豪での監督経験が無く実力が不安視されたが、絶望的と言われたWFC3次予選を突破して一躍喝采を浴びた。しかし78年WFCの主力DFを中心とした守備陣の平均年齢は高く、また前任からの問題である連携を解消できないまま最終予選で敗退した。 当時国内、代表ともに主流から外れつつあったイタリア式の堅守をベースとした3バック3ボランチを基本に戦ったが、攻撃面の迫力に欠けた。 クリスティアン・ボンメボラ Christian Bonmebole 1982-86 サシャーユ出身。74年にサシャーユFCを率い、ECL準優勝を果たした監督。限られた戦力でチームを立て直す手腕で知られ、スペインのクラブから引き抜かれた。 前任が構築した守備的戦術・選手選考を一掃するために一年間を要している。最も国内で浸透していた4-4-2を用い、中央からシンプルに前線へ運ぶカウンター攻撃を目指した。新戦力の発掘にも熱心で、多くの若手選手も発掘している。84年ヨーロッパ選手権は予選で敗退したが、最後までイングランドと1位を争った。しかし選手の相次ぐケガや、最後まで核となる選手を見つけられなかったことで、WFCは最終予選でまさかの敗退となった。 だが、ボンメボラの目指した中盤での安定したパス回しによるポゼッション重視や、速攻をベースとしたダイレクトサッカーは、今日におけるサシャーユの伝統である。 ゴンザレス・クルカック Gonzalez Cullcack 1986-90 スペイン出身。国際的な評価は皆無だったが、サシャーユリーグ2部のクラブを数年で1部の強豪に育てた手腕が評価された。サッカー協会の資金不足により大物監督を呼べなかった影響もある。 就任後は、3-3-3-1のシステムを使用。ポジションチェンジを繰り返しながらの波状攻撃で、柔軟性に富んだ布陣を持っていた。88年のヨーロッパ選手権は予選で敗退したが、 サシャーユFCが達成したECLでの好成績も後押ししてWFC予選を突破。豊かな戦力を駆使して2大会ぶりの本大会出場を果たし、ベスト8の好成績を残した。 ペレース・グランドニア Perez Grandnia 1990-92 スペイン出身。現役引退後はスペインの強豪レード・アルミーロFCなどで監督を務めた。同クラブの80年代の黄金期の土台を作ったと評される名監督だった。 就任当時は中盤にタレントが揃い、それを生かすために4-1-4-1を採用。3バックから4バックへの移行に苦しんだが結果は出していた。しかし、92年に病気のため退任。 カール・シュルーマ Karl Shuruma 1992-95 サシャーユ出身。88年のECL優勝を達成した、ベル・キオラ率いるサシャーユFCでヘッド・コーチを務めていた。前任の退任によって急きょ就任した。 4-2-3-1的な4-2-1-3を基本とし、下がり気味のウイングの運動量を必要とする攻撃サッカーを標榜した。時にはFWを5人出場させるこの采配が決まり、92年のヨーロッパ選手権は本戦出場。WFC予選はプレーオフで出場を狙ったが、敗退した。 世論は続投に批判的だったものの、短い期間で結果(ヨーロッパ選手権ベスト16)を残した実績が評価されてWFC後も続投。その後は起用法などで選手との間に軋轢を生み、95年に解任された。 トルナルド・ゼッキ Tolenardo Zekki 1995-98 サシャーユ出身。シュルーマ監督の解任に伴い就任した。弟は78年WFCメンバーのアルチェロ・ゼッキ。イングランドやドイツのクラブで監督を務め、94年にはECCで優勝した実績を評価された。不和が囁かれたチームを「仲間」の名称で呼び、崩壊を食い止めた。だが、戦術を浸透しきれなかった96年ヨーロッパ選手権は予選で敗退している。 システムは4-3-3や4-2-3-1を使い分けたが得点力不足に悩まされ、手堅い戦術に終始した。前時代的なイングランドサッカーの信奉者であり、そうした批判も多かった。 主力選手にケガが相次ぐ不運や、所属クラブで出場機会の得られない選手が多かった。ベストコンディションにほど遠い場合はセットプレイの精度を上げてやり繰りしたが、96年ヨーロッパ選手権は予選で敗退、WFC最終予選でも3度の零封を喫して敗退した。 ベル・キオラ Bell Quiora 1998-2000 サシャーユ出身。かつてサシャーユFCを復活させた手腕を見込まれて就任。若手育成に評価のある監督だが、当初から健康面で不安があって2年契約となった。 就任前の数年間はチームの平均年齢が上がり、ベテラン陣のケガが多発。そこで積極的に新戦力を発掘し、時には2部のクラブからも招集した。その結果、若さの溢れたアグレッシブな姿勢が出来上がった。 1トップ気味の4-3-3のシステムを使用し、スピード感溢れる攻撃サッカーを標榜した。柔軟な戦術変更や選手交代が持ち味で、00年のヨーロッパ選手権は戦後最高のベスト4に導いた。この試合を最後に、契約通り退任。 ステファン・ヤロックシュガー Stephan Jarockshuger 2000-02 ドイツ出身。当初は88年にECLで優勝したサシャーユFCのスタッフを中心に人選したが、土壇場でヤロックシュガーが抜擢された。サシャーユサッカーには馴染みが薄く、初のドイツ人監督という人選は不評を買った。経歴としては、ドイツのクラブで長年に渡り監督を務め、97年には地方クラブを率いてECLで数々の番狂わせを演じている。 就任当初は自身も経験の少ない3バックを基本にし、3-4-1-2を採用。しかし選手からの戸惑いが相次ぎ、4-3-3へ変更している。システムで混乱を引き起こしたものの、人心掌握術に長け団結力を生んだ。キオラ前監督の流れを受け継ぎつつも1対1の守備を徹底するなど超守備戦術で独自色を強め、02年WFCの予選を突破した。本大会は堅守で期待されたが、ケガとチーム内不和でグループリーグ敗退を喫した。 ロベルト・ミラーズ Robert Millers 2002-06 サシャーユ出身。往年の名選手ケラー・ミラーズの息子。監督としてはトルコやスペイン、東欧で経験を積み、92年はサシャーユFCで監督を務めた。96年からはU-18、20、23世代のサシャーユ代表監督を務めた。 基本システムは4-2-3-1で、4-3-3や4-1-4-1なども併用する。サイド攻撃のためボールを散らす中盤の底を重要視し、ハミック・レンジョンらを発掘した。サシャーユだけでなくヨーロッパにおいても若手の知将として知られ、戦況を瞬時に理解し、選手交代で劇的に流れを変える手腕の評価は高かった。サシャーユサッカーの伝統だったダイレクトプレイの多い速攻に、遅効のアクセントを効果的に取り入れた。 04年のヨーロッパ選手権は予選敗退を喫したが、06年のWFC予選を突破。カシオ・カリアンらのタレントを擁し期待され、ベスト16に進出した。 アワーシュー・ガルソン Awarshew Gareson 2006- サシャーユ出身。23歳からスペインやオランダで監督業を学び、94年からU-17、20サシャーユ代表監督などを経験。99年からは日本のクラブで監督を務め、次期日本代表監督の期待が高かった。00年からエルナント監督に就任し、ユース強化委員長も兼任。リーグ2連覇を達成。ECCベスト8など、国際経験も豊かだった。 ボランチを2人置き、低い位置からのボール保持を重要視するサシャーユの特徴を徹底して指導。選手には更なる技術と運動量を求め、独特の練習方法などで注目を集めた。攻撃パターンを多様化し、伝統の速攻をベースとしたポゼッションサッカーに磨きをかけた。08年のヨーロッパ選手権は強豪を倒して本戦出場。若手選手を積極的に起用している。 しかし10年WFCは最終予選、プレーオフで敗退した。だが、協会は12年まで契約を延長。 ワールドカップ成績 ○=出場 ●=予選敗退 △=不参加 ×=棄権 30 △不参加 34 ○準優勝 38 △不参加 50 △不参加 54 ×棄権 58 ●ヨーロッパ予選敗退 62 ○予選ラウンド敗退 66 ●ヨーロッパ予選敗退 70 ●ヨーロッパ予選敗退 74 ○グループリーグ敗退 78 ○3位 82 ●ヨーロッパ予選敗退 86 ●ヨーロッパ予選敗退 90 ○ベスト8 94 ●ヨーロッパ予選敗退 98 ●ヨーロッパ予選敗退 02 ○グループリーグ敗退 06 ○ベスト16 10 ●ヨーロッパ予選敗退 出場 7回 準優勝 1回 3位 1回 ベスト8 1回 ベスト16 1回 ヨーロッパ選手権(ヨーロッパネイションズカップ)成績 ○=出場 ●=予選敗退 △=不参加 ×=棄権 60 ●ヨーロッパ予選敗退 64 △不参加 68 ○予選ラウンド敗退 72 ●ヨーロッパ予選敗退 76 ○グループリーグ敗退(ベスト8) 80 ○グループリーグ敗退(ベスト8) 84 ●ヨーロッパ予選敗退 88 ●ヨーロッパ予選敗退 92 ○グループリーグ敗退(ベスト8) 96 ●ヨーロッパ予選敗退 00 ○ベスト4 04 ●ヨーロッパ予選敗退 08 ○グループリーグ敗退 12 初期においては「ドリームチーム」と自画自賛するサッカーを展開し、サッカー後進国でありながらも初出場の34年大会で準優勝を達成した。その後戦争などの影響で不参加を続けたが、58年から再び復帰を果たしている。 62年に28年ぶりの本大会出場を決めると国民は熱狂的盛り上がりを見せた。 その後はコンスタントに出場を続け、特に70年代は豊富なタレントを抱えてW杯の常連となり、78年大会では3位に入賞している。 一転80年代は2大会連続で出場を逃して低迷したものの、国内リーグの復興と共に力をつけて90年以降は再びヨーロッパサッカー界の表舞台に登場した。 縦へ早い緻密なパスサッカーは伝統とされ、現在の代表チームでも継承されている。高い技術のある選手を揃え、パスワークと縦へ早いダイレクトプレイによる速攻を得意とする。 ワラルース・コルティックス アンバリン・フェルナンドス VARDフローアローズ サンイト・レジーナ FCケラノ エルミア・ハルエチコ チェストンファン コルティック・ハインリ カーロン・アンダレード ルルージュFC ジュロ・イヴァータ ハワードへリーFC アキーノCD ウォーリバヤン FCヘルマー メリテヤFC アリタス・ルーマ・ケロクロ CDセミナール ブルード サシャーユサッカー ベスト11 監督 マイケル・ゼファン 1978年のWFC3位に導いた名監督 GK ジュニオ・セーラ 第一線で活躍し続ける現代表の守護神。06年WFC出場。 カレオ・フラッペ 78年WFCの正GK。80年代も活躍し、ECL優勝などを経験。 ミチェーレ・シウダン 戦後のサシャーユサッカーを支えたGK。79年ECL優勝。 DF セイメス・トリオレス 70年代はECL活躍。小柄ながらスピードやジャンプ力に優れた。 マイケル・センソン 体格を生かした攻撃に優れ、代表通算25得点。 イハラ・アキダツマ 90年代を代表するDF。198cmの長身で鉄壁を誇った。 アルチェロ・ゼッキ 70-80年代、サイドバックとして攻守で活躍。 カレマン・ハリードベリゼ 左サイドバックとして活躍。 MF ケラー・ミラーズ ケイナンティ・アルマンダ マイケル・バイナー スコラ・ヤンクテール セイメス・イカンソン ジョシュ・リッカーマン ケイティ・イカンソン ジェルキ・ポルリア クリスティアーノ・ディジェーゴ FW ゴミス・ビショッパ オズワルド・タリードナストベリゼ カーラ・ポルター アイシンド・ジェッファー アリアス・ハポネス ハミック・レンジョン
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by remarkabler | 2010-02-17 03:24

19781

1978年WFC3位メンバー 監督 マイケル・ゼファン GK カレオ・フラッペ 26歳 カシオ・カンノ 24歳 ミチェーレ・シウダン 36歳 DF セイメス・トリオレス 30歳 マイケル・センソン 28歳 アルチェロ・ゼッキ 28歳 セマルコス・ヴァラーニ 29歳 ロベルト・ウォール 21歳 ゴメス・バフラテット 28歳 ショーナ・ミラエ 32歳 MF マイケル・バイナー 32歳 スコラ・ヤンクテール 22歳 セイメス・イカンソン 23歳 レオナルド・ベーカー 27歳 フィリップ・オリベルト 23歳 カロナライナ・ポルター 26歳 セマルコス・サシャエル ジョシュ・リッカーマン 31歳 FW クリスティアン・ポダー 23歳 ダビド・ヴァネイサ 25歳 ヴァンディ・ヴォドン 31歳 オズワルド・タリードナストベリゼ 25歳 マルコス・オルセ 28歳 1978年WFC3位メンバー ポジション 名前 所属 監督 Michael Zefan GK カレオ・フラッペ カシオ・カンノ Michaele Ciudane DF セイメス・トリオレス マイケル・センソン アルチェロ・ゼッキ セマルコス・ヴァラーニ ロベルト・ウォール ゴメス・バフラテット ショーナ・ミラエ MF マイケル・バイナー スコラ・ヤンクテール セイメス・イカンソン レオナルド・ベーカー フィリップ・オリベルト カロナライナ・ポルター セマルコス・サシャエル ジョシュ・リッカーマン FW Christian Poder ダビド・ヴァネイサ ヴァンディ・ヴォドン オズワルド・タリードナストベリゼ マルコス・オルセ 4-1-3-2 4-2-3-1 マイケル・ゼファン Michael Zefan 1936年、サシャーユのトリーニョ生まれ。物心ついた少年時代は国内リーグが中断中であり、海外で活躍するサシャーユ人選手を見てサッカー選手を志したという。戦前のトリーニョ・コルケロを前身とするアマチュアクラブ、トリーニョCDに入団し、技術を磨いた。 51年、リーグの再開と同時にトリーニョCDはリーグへ参入。そのままDFとして、15歳でプロ入りした。 下部組織から54年にトップチームへ昇格したものの、生来小柄だったことやケガがちなこともあり、すぐに定位置確保は至らなかった。試合出場も少なく、55年にはプロの傍らでトリーニョ大学(体育生理学)へ進学している。 55年、イタリア人のファビオ・アルニコベーニが監督に就任。縦へのスピードを活かすべく、終了間際に投入されるトップ下へコンバートされた。これにより56年に4得点、57年は6得点と結果を残している(57年はリーグ優勝)。このことについて「DFとして終わりかけていた自分を、戦術とシステムで蘇らせてくれた」と語っている。 だが、58年に左足を骨折し、59年は腰痛を発症。復帰を目指したものの、61年に現役を引退した。 引退後は、アルニコベーニに憧れて指導者を目指し始める。61年に大学院へ進学して体育生理学と語学を学ぶと、62年からはトリーニョでフィジカル・コーチの経験を積んだ。 64年、退任するアルニコベーニと共に、オランダの名門フェーレンヤンへ所属。ここで監督を目指すようになり、近代サッカーの基礎を学んだ。65年はスペインのアルトウェーボへ出向き、二年間に渡ってアシスタントコーチ研修を受講。 67年にオランダへ戻ると、オランダ2部のレックスアーゼンを率い、68年には1部昇格を達成した。69年は1部で4位に食い込み、シーズン終了後に辞任している。 70年にサシャーユへ帰国すると、当時下位に低迷していたサシェリアFCの監督へ就任する。ここでは独自の理論でチームを構築、73年には国王杯準優勝に導いた。サシェリア監督はこの年で辞任。 74年、WFC後に代表監督へ就任した。一貫してこだわり続ける「最終ラインからの押上げ」「高い位置からのプレス」「ボランチの守備力」「流動的なポジション」「徹底したサイド攻撃」などを駆使し、「史上最高のひとつ」とまで称される「万能サッカー」を体現し、78年WFCでサシャーユ史上最高の3位入賞を果たした。この大会の代表チームは、準決勝での誤審がなければ決勝進出も可能だったと言われている(オフサイドで2得点取り消し)。 78年で代表監督を退任すると、フランスのメルニーヨルテ監督へ就任。しかし79年に解任されている。その後一年間の休業を経て、81年からはポルトガルやフランスのクラブを率いた。特に83年にフランスのエールイールでECLを制し、84年はイングランドのハッパースルーFCでECLを監督として連覇という偉業を達成した。 クリスティアン・ポダー Christian Poder FW 23歳 1955年、サシャーユの港町であるクロテア生まれ。62年に28年ぶりのWFCへ出場を果たしたサシャーユ代表に憧れ、地元のアマチュアクラブでサッカーを始める。 67年、テクニックの高さを見込まれサシャーユFCの下部組織へ入団。下部組織で順調に力を付けFWとして実績を残し続けた。74年にはトップチームで初出場し、この年はスーパーサブとして7得点を挙げるなど活躍。しかし、それ以降は控えとしてくすぶり続ける。 76年には開幕戦の先発を任されたが、結果が出せず再びベンチへ。これを機に、翌年はツーリオ・サルディへ移籍。FW不足に苦しむクラブで重用され、77年は9得点、78年には21得点を挙げてWFC代表メンバーに滑り込んだ。 77年に代表初選出後は結果を出し続け、78年WFC代表として2試合目のペルー戦に先発出場。サシャーユFC時代は息が合わなかったイカンソンとのコンビは抜群の輝きを見せ、2得点を挙げた。その後、準々決勝でも先発し、決勝では後半から出場を果たしている。 大会後、サシャーユFCへ復帰。代表で培ったコンビネーションを発揮し、80年には23得点で得点王に輝いた。俊足や体格に恵まれた訳ではなかったが、ワンタッチやヘディングでの得点、マークを外す動き出しに優れ、2トップの一角やSMFとして活躍した。 しかし、当時の攻高守低状態だったリーグでの得点感覚が代表試合になると発揮できず、その後の2大会連続WFC予選敗退の戦犯の一人となった。 そうした批判を避けるように、86年に代表引退を宣言してポルトガルのデミーオミーオへ移籍。世界的に見れば決して強豪とは言えないこのクラブでは結果を出し続け、88年EURO杯3回戦出場や、90年ポルトガル国内杯準優勝に貢献した。 91年にはポルトガルリーグで2部降格の危機にあったレアシーアへ移籍。2年間に渡って在籍し、レギュラーとして1部残留に尽力する働きを見せた。 93年になると、日本のJリーグ開幕に合わせて名古屋グランパスエイトへ移籍。一年間FWやMFとしてプレイした後、現役引退した。 引退後は解説者などを経て、現在は家業(文具店)を継ぐ傍ら、サシャーユ地域リーグ1部のカゼオール・ジブリでコーチ兼GMを務めている。 サシャーユFC 67-76 34試合9得点 ツーリオ・サルディ 77-78 54試合30得点 サシャーユFC 79-86 207試合103得点 デミーオミーオ 87-90 86試合28得点 レアシーア 91-92 39試合13得点 名古屋グランパスエイト 93 17試合4得点 サシャーユ代表 57試合17得点 通算494試合204得点 ミチェーレ・シウダン Michaele Ciudane GK 36歳 1942年、ドイツのブルーグバウデンでサシャーユ軍人ヘルメの父の息子として生まれた。戦局の悪化でドイツや東欧諸国を転々とする幼少時代を過ごしたという。46年にサシャーユ国内のゲリラが全面的に降伏して「完全なる終戦」を迎えたが、父親の戦争犯罪疑惑で入国できない日々が続いた。 50年、疑惑は晴れて入国すると、サッカーを始める。高校を卒業後、61年にエスペリオのテストを受け合格し、入団。196cmの長身を見込まれ、GKとしていきなりトップチームデビュー。コースの読みや動きだしに優れ、64年にはリーグ戦7試合連続無失点を記録し優勝、「サシャーユの石砦」と呼ばれた。 GKの人材不足はサシャーユサッカーにとって戦後の大きな問題点だったため、代表デビューは22歳の64年。初の出場となったソ連戦では5失点してしばらく選出されない時期があったものの、66年に代表復帰し、67年からは正GKに定着。70年以降はキャプテンを務めあげ、同年のWFC予選ではスペイン、ポーランド、ドイツという「死のグループ」でも最終戦まで本戦出場の可能性を残す大健闘を見せた。この大会では、グループリーグ敗退チームの中から唯一、ベストプレイヤーズチームに選出された(第三GK)。 74年WFC大会でも正GKだったが、78年大会では新鋭フラッペがレギュラーとなり、第三GKとして選出。大会直前のチームの内紛を治めるなど、プレイ以外の貢献も目立った。 クラブでは72年にエミールジュールへ移籍。74年からはサシェリアFCでプレイした。そして76年、経験と実績を買われ、イングランドのアンバークラウンFCへ移籍。ここではGKコーチも務めながら守護神として活躍し、79年のECL優勝に貢献した。ちなみに、アンバークラウンにおいて外国人として初めて正GKとなった人物でもある。 なお、79年リーグ戦でPKを決め、イングランドで唯一得点したサシャーユ人GKである。 サシャーユサッカー復興期を支え、実績を残した名GKである。ケガの影響で80年に現役引退後は、エスペリオやサシャーユFCでGKコーチを務め、90年にトルコのシュクタスの監督に就任(~92、91年リーグ連覇)。99年にはサシャーユU-23代表監督、00年からはアンバークラウンの監督としてECCベスト4、06年にはトーゴ代表を率いてWFCへ出場するなど、ヨーロッパでも知られる「偉大な監督」である。 ただし近年は3−5−2システムに固執するあまり結果が出せず、半ば引退し解説業が多い。 エスペリオ 61-71 347試合 エミールジュール 72-73 60試合 サシェリアFC 74-75 80試合 アンバークラウンFC 76-80 134試合1得点 代表 127試合 通算 750試合 ダビド・ヴァネイサ David Vanaiz FW 25歳 1953年、サシャーユのポカン生まれ。12歳でトレンド・ファンの下部組織へ入団すると、ストライカーとしての才能が開花。果敢なドリブルが持ち味で、Bチームでは出場のたびに結果を残すものの、素行の悪さが原因でレギュラー定着はならなかった。このときの記録としては、72年に26試合出場31得点(Bチーム)などがある。 74年、新監督マシュー・レッチの下で精神的に成長し、レギュラーに定着。チームは14位に沈んだものの、チームトップの7得点と気を吐いた。75年には14得点を挙げ、一躍若手の点取り屋として注目を浴びた。その後、76年に若い才能に目を付けたセリエAのカンポーズへ移籍。当時は珍しい試合中ずっとサイドに大きく開いたポジションでプレイ。クロス精度に難があったものの、果敢なドリブル技術と無尽蔵のスタミナが評価された。 この年から代表にも選出され、代表では中央でボールをキープするなど幅広いプレイを得意とした。 78年のWFCに向けては、予選から参加。77年末のケガで試合から遠のいたが、本大会メンバーに選出。本番ではグループリーグ第1戦のパラグアイ戦にサイドのMFとして先発すると、第2戦のデンマーク戦では後半にFWとして出場。この試合で再びケガを負い、以降この大会での出番は無かったが、持味を発揮して「サイド攻撃」を体現した。SBからSMF、WG、CFと多くのポジションをこなせることもあり、多くの監督に重用された。 その後、WFCでのケガが長引いてクラブでは調子を落とした。完全復調後も、奔放な性格が災いして監督と確執を生み、カンポーズでの出場機会は減少。82年にロシアリーグのペゼル・ベルガナードへ移籍した。この年のECC(ヨーロッパチャレンジカップ:各リーグからの任意参加クラブによる総当たりカップ戦)を制したロシアの名門であったが、ここでは数年前を思わせる動きのキレを見せ、また、CFとして中央からドリブルして点を決めるスタイルも復活した。 その後、33歳でトレンド・ファンへ復帰。87年は離婚問題に絡む弁護士暴力事件で半年間の出場停止処分を受けるなどしたが、88年に現役を引退。 現役引退後もプライベートの問題で世間を度々騒がせ、現在はテレビタレントである。 代表としては、80年代以降に7試合に召集されたものの、WFCといった主要大会メンバーには縁が無くなった。最後の出場は85年の親善試合だった韓国戦である。 トレンド・ファン 65-75 47試合24得点 カンポーズ 76-81 101試合21得点 ペゼル・ベルガナード 82-85 87試合37得点 トレンド・ファン 86-88 28試合6得点 サシャーユ代表 27試合4得点 通算 263試合93得点 マルコス・オルセ Marcos Olse FW 28歳 1950年、サシャーユ北部のバケラス生まれ。サッカーを始めた当初はMFだったが、背の高さからポストプレイを望まれ、19歳でのプロ入りと同時にFWへ転向した。きっかけは、地元に新設される新クラブ(ヘンデリッカーズ)の選手不足で、全国的知名度は無かった。 プロ入り一年目は24試合に出場したものの、無得点と期待に応えられずにチームも創立一年目は最下位に沈んだ。翌年もレギュラーとして多く先発を果たしたものの、体の細さが影響して結果は出せず、チームもこの年から始まった入れ替え制の影響で2部降格となっている。72年シーズン途中に同じく2部のクラブへ移籍。74年には3部相当の全国1部リーグへも移籍している。この時まで身長は伸び続けており、191cmになっていた。 ヘンデリッカーズへ復帰した76年、長身ながらもポストプレイではなく、下がり目で自分が生きるプレイを身に着けて得点を量産。27試合で11得点と、チームの1部昇格へ大きく貢献した。足元の技術が高く、長身ゆえのスピード不足を補うプレイを見せた。 77年も中心選手として結果を残し、1部で8得点を決め、残留を果たしている。 この年、故障などで長身選手のコマ不足に陥った代表にも初選出。代表では慣れないポストプレイを要求され、また、下位クラブの選手として当初の評価は低かった。しかし、ポストプレイも無難にこなし、印象的な場面で活躍している。負ければ予選敗退の78年WFC最終予選デンマーク戦(77年)では、2得点を挙げる(2-1)など活躍は「記憶」に残った。 78年のWFCでは、先発FW陣の好調もあり準決勝で初出場(後半から出場)となったが、ここでも貴重なゴールを挙げている。以降出場はなかったが、国際的な評価を上げた。 大会後、80年にイタリア2部のチッコリーネへ移籍。当初は即戦力としてレギュラーが確約されていたが、ケガの影響などもあってレギュラー定着には至らず、83年にアメリカのウィーラーSCへ移籍となった。ケガにはその後も悩まされ、84年にヘンデリッカーズへ復帰、翌85年に現役引退を発表した。現在はアメリカでサッカースクールを開いている。 代表としては82年WFCの予選に召集されていたが、不調の影響でその後は遠ざかった。 ヘンデリッカーズ 69-72 69試合5得点 ウォーリバヤン 72-73 22試合4得点 ナイエル・バヌージャ 74-75 23試合6得点 ヘンデリッカーズ 76-79 110試合38得点 チッコリーネ 80-82 23試合4得点 ウィーラーSC 83 21試合5得点 ヘンデリッカーズ 84-85 2試合0得点 サシャーユ代表 27試合6得点 通算 293試合65得点 オズワルド・タリードナストベリゼ Oswald Talidnastbellize FW 25歳 1953年、スペインのバルセロナ生まれ。父親が貿易商の関係で、スペインで育った。13歳でスペインリーグの名門ベルナシオFCのユース組織へ入団している。 16歳の時にサシャーユへ帰国すると、ベンチャコ・エルミオレの下部組織へ入団。当時はMFであったが、テクニックの高さと加速力で得点を量産した。当時のクラブ最年少記録となる17歳でトップチームへ昇格すると、FWとして27試合出場7得点と活躍し「黄金少年」と呼ばれた。FW転向は、「得点を挙げる快感に目覚めたから」と語っている。 この70年、メリエス代表監督の大抜擢でA代表デビューも果たしている(対ポルトガル戦)。70年WFC予選にも出場し最終予選で3得点を挙げたが、本戦出場はならなかった。。 その後、73年にはドイツの名門ダッハウ・シュベリーセスガーへ一年間の移籍。翌年に国内復帰すると27得点で得点王に輝き優勝、サシャーユを代表するストライカーとなった。 76年にドイツのマンハイム・ゼキューラーへ移籍後は、レギュラーとして実績を残している。77年には得点ランキング2位(22得点)に食い込むなど、世界的な評価も高かった。79年に強豪オッフェン・ブルーガFCへ移籍後も、常にレギュラーとしてプレイした。 代表としては70、74、78年と3大会連続でWFCメンバーに選出され、エースとして活躍。特に3位入賞を果たした78年大会は中心選手として5得点。代表通算50得点は歴代3位である。国内では海外挑戦のパイオニアとして、国外ではサシャーユを代表するストライカーとして知られた。人望も厚く、チームをまとめる統率力は天性のものと言われる。 82年WFC予選でも選出されていたが、ケガや不調で次第に遠ざかった。 82年は前半戦でケガを負い、中断期間にタリヌペイへ移籍。しかし以前のような運動量は見られず、テクニックだけでは全盛期の輝きはならなかった。出場機会は激減し、85年に現役を引退。86年の引退試合は78年WFCのメンバーや世界的スター選手らが集まった。 引退後は解説者を務め、01年にサシャーユサッカー協会常任理事に就任。06年からはサッカー協会会長に就任し、2018、22年W杯招致を進めている。 ベルナシオFC 66-68 0試合0得点 ベンチャコ・エルミオレ 68-72 114試合36得点 ダッハウ・シュベリーセスガー 73 11試合2得点 ベンチャコ・エルミオレ 74-75 58試合48得点 マンハイム・ゼキューラー 76-78 85試合69得点 オッフェン・ブルーガFC 79-82 91試合33得点 タリヌペイ 82-85 59試合12得点 サシャーユ代表 138試合50得点 通算556試合250得点 カシオ・カンノ Kacio Kanno GK 24歳 1954年.サシャーユ西部のアリタ生まれ。サッカーの特に盛んなこの地方で早くから競技に親しんだ。GKとして、7歳で地元のアリタ・メハカーリョの下部組織へ入団している。高校卒業後、メハカーリョでプロ入りを果たすと、182cmと決して大柄でないものの、ハイボールの目測や敏捷性が高く評価されて早くからトップチームに昇格した。 当初は控えだったものの、数少ない出場機会で結果を残して21歳で正GKに定着。下位に低迷していたチームを守備から鼓舞し、76年にはリーグ終盤戦まで優勝争いをしている。 代表歴は早く、20歳でA代表を経験 (74年のWFC予選で2試合に選出。出場は無し)。76年頃になると、正GKフラッペが大ケガで長期離脱した影響を埋める存在として、WFC予選で7試合に出場。この7試合で3失点と最終予選突破のキーマンとなった。 78年WFCではフラッペが復帰したため3位決定戦のみの出場だったものの、初のWFCメンバーに選出されてサシャーユを代表するGKとなった。 その後、79年はドイツのシュテッカーFC、80年はフランスのメルニーヨルテ、81年からはイタリアのバジリオンネへ移籍し国際経験を積むと、82年にメハカーリョへ復帰した。 海外移籍期間はクラブでの出場機会は少なかったが、この間も代表ではコンスタントに選出され、(正GKではないものの)ヨーロッパ選手権などにも出場している。86年にフラッペが代表を引退後は、正GKとして90年WFCに36歳で出場(2度目)。この大会では5試合中4試合に出場し、ベスト8進出に大きく貢献している。 そんな中、92年にクラブに20歳のジュニオ・セーラが昇格し、華々しい活躍を目の当たりにした。これに衝撃を受けて一旦引退を決意したが(実際に代表はこの年で引退している)、日本のJリーグ関係者の熱心な勧誘で、Jリーグ開幕と同時にジェフユナイテッド市原へ入団。2年間に渡って正GKを務め、94年に引退した。 引退後は01年からのサンフレッチェ広島の監督やオーストラリアのクラブチーム監督、メハカーリョのGM、IFFA技術委員などを歴任。07年にはEUFA技術委員会常任理事に就任した。その後IFFAへの出向を経て09年に離職。10年からはIFFA技術評価委員長とIFFA理事に就任し、政治力を強めている。 メハカーリョ 61-78 91試合 シュテッカーFC 79 7試合 メルニーヨルテ 80 4試合 バジリオンネ 81 21試合 メハカーリョ 82-92 247試合 ジェフユナイテッド市原 93-94 63試合 サシャーユ代表 38試合 通算 471試合 ジョシュ・リッカーマン Josh Rickerman 31歳 MF 1947年、サシャーユのサシェリア生まれ。幼少時代は国内リーグが中断しており、ラジオで聞く海外リーグに熱狂したという。その後、55年に国内リーグは再開。サシャーユFCの下部組織のレッスンに通い、プロを目指すようになった。 この頃からMF以外にも多くのポジションを経験し、19歳のときにはトップチームとプロ契約を果たしている。多くのポジションをカバーできる能力を買われ、重用された。67年には若干20歳にして31試合に出場。大物選手が海外でプレイした国内リーグ再開初期において、国内期待の若手選手として確かな活躍を見せた。なお、この年のタリヌペイのECL準優勝をきっかけに、国内外の大物選手がサシャーユリーグへ移籍するようになっていく。 代表へは、68年に初選出。海外でプレイする選手の所属クラブとの日程調整がうまくいかないときなどは、空いた重要なポジションで先発することが多かった。70年WFC予選には中心選手として7試合に出場したが、出場が懸かった最終戦はケガで欠場した。 70年を過ぎると、クラブと代表ではボランチでプレイすることが多くなっていく。187cmの長身で当たり負けしない強さや鋭い読みが発揮され、豊富なスタミナからの献身的なプレイで、しっかりとした守りを重要視する当時のサシャーユ代表のサッカーに欠かせない存在となった。この時の代表監督はフレデリック・カマンで、不動のレギュラーだった。 しかし、74年WFCで守備偏重のサッカーに陥り攻撃陣が不調に終わると、リッカーマンはカマン監督の守備サッカーの代名詞として批判されるようになる。以降、1年間に渡って召集は無かった。 そんな中、ゼファン監督は守備のベースを確立するため、75年からボランチにリッカーマンを指名。定評のある守備に加え、攻撃面でのリスクを恐れないプレイを発揮。78年WFCでは3位入賞に大きく貢献し、「MVP級の大活躍」と言われている。代表としては82年WFCの出場を逃して以来、選出されていない。 クラブでは、76年と79年にECLでベスト4、リーグ優勝5回を達成した。守備力が評価され「砦の門番」と呼ばれるなど、サシャーユサッカー史上に残る名ボランチとなった。たまに攻撃的な位置で起用されることもあり、確かな攻撃力で結果を残している。サシャーユ一筋で507試合に出場し、83年に現役を引退した。 その後はサシャーユFCのフロント入りし、アシスタントコーチ等を経験。監督にも3度(87-90、94、00-02年)就任したが、芳しい成績は残せていない。現在は同クラブの下部組織でコーチ兼スカウトとして活躍し、数々の若手を育てあげる手腕には定評がある サシャーユFC 66-83 507試合47得点 代表 68-82 171試合15得点 通算 678試合62得点 マイケル・バイナー Michael Bainer MF 32歳 1946年、サシャーユの商業都市エルミアで生まれた。少年時代の遊びはもっぱらサッカーで、65年には当時弱小だったエミールジュールの入団テストを受けてプロ入りした。 高校時代は全国的に名の知れたFWで、171cmと小柄ながらセンスが高く評価されていた。 その後は、身長の変化や高いプロの壁にぶち当たって自身のプレイスタイルに悩み、MFやDFにも挑戦。67年までの三年間で、トップチームでの出場は7試合に留まった(0得点)。 そんな中で、攻撃的な位置でのMFとしてのプレイに喜びを感じるようになった。かつての名選手ケラー・ミラーズ監督のサッカー哲学の上で、バイナーの攻撃的MFの位置は重要なポジションとなった。4-3-3のシステムで、バイナーは中盤の中央でプレイ。FW時代に見られた飛び出しと、MFとして培ったパスセンスで、ゲームメーカーとしてチームに欠かせない存在となっていく。70年には、チームでただ一人リーグ戦全試合にフル出場を果たし、23得点16アシストを記録。「サシャーユ史上最高のMF」として評価を不動のものとした。69年から背番号10を背負い、クラブの象徴的存在でもあった。クラブは着実に力をつけ、この年はリーグ戦4位、カップ戦3位となっている。 代表には70年に初選出。70年WFC予選から不動の存在となり、74年、78年大会でも活躍した。78年WFCではスペイン戦で2本のFKと絶妙のアシスト。大会合計でも3得点4アシストと、自身最高の成績を残して大会ベスト11にも選出されている。 クラブでは74年にサシャーユFCへ、76年には一年間ツーリオ・サルディでプレイし、77年にドイツのマンハイム・ゼキューラーへ移籍。81年からはイタリアのハミケーレでプレイし、背番号10を外国人として初めて着用、85年まで背負い続けた。ECLなどでサシャーユ勢との対戦が多く、名勝負を演じた。 その後も代表とクラブで重要な戦力としてプレイ。しかし83年の代表戦でアメリカと対戦し、右膝を骨折。84年まで療養を余儀なくされている。84年に本格復帰後はよりパスの精度を磨くことでプレイを続けたが、「天才」は85年に引退した。93年からエミールジュールで4年間監督を務め、後に解説者、テレビタレントに転身。感覚を重視する解説で人気を集めたが、00年からはサッカー協会顧問に就任した。03年に辞職し、アメリカへ移住。 エミールジュール 65-73 192試合52得点 サシャーユFC 74-75 77試合13得点 ツーリオ・サルディ 76 38試合8得点 マンハイム・ゼキューラー 77-80 119試合23得点 ハミケーレ 81-85 79試合31得点 代表 103試合32得点 通算 549試合137得点 レオナルド・ベーカー Leonardo Baker MF 27歳 1951年、サシャーユ南部のセセリア生まれ。少年時代は陸上選手として名が知られ、短距離走では当時のサシャーユ記録を連発した。 高校入学と同時にサッカーを始めると、快速ウイングとしてプレイするようになった。 70年、ツールへ入団。サイドから敵陣へ切り込むスタイルが評価され、三年目からレギュラーとして起用されている。サイドならどのポジションでもこなせる器用さに加え、クロスの精度も年々磨きがかかっていった。 その後、75年にジュロ・イヴァータへ移籍。代表への初召集は、ジュロ・イヴァータのリーグ優勝した76年だった。移籍後もレギュラーとしてプレイし、この年はウイングとして活躍。6得点と攻撃的才能も見せつけた。75年は3試合に召集されている。 リーグではその後も安定してレギュラーを守り続けたものの、クラブの成績は急降下。それと同時に代表とは縁が無くなった。77年に召集されたのを最後に代表へは呼ばれなかったため、78年WFCのメンバーに入った時は「サプライズ選出」と言われた。78年WFCでは出場機会は無かった。 その後、80年にジュロ・イヴァータは2部へ降格が決定。古巣ツールへ復帰した。81年は心機一転してのプレイを求められたものの、シーズン直前に靭帯を損傷する大ケガを負い、一年間のリハビリを余儀なくされている。復帰後はケガの影響を感じさせない活躍だった。 84年にエスペリオへ移籍し、85年にはトリーニョへ移籍している。サイドのスペシャリストとして長年に渡って活躍し続け、86年のシーズン途中で引退した。 引退後は解説者を務めていたが、89年にベトナムで現役復帰。当時アマチュアだったヒャンルー・チムチャンで3年間プレイしてサッカーの普及に貢献した。現在もベトナム在住。 ベトナムで結婚した妻(現在は離婚)との間に生まれた息子ハル・ベーカーは20歳のプロサッカー選手で、父親譲りのスピードを武器にするベトナムU-23代表FWである。 自身はその後、ベトナムで監督やGMを経験。現在もベトナムサッカー界で活躍している。 代表は78年WFCを最後に選出されていない。 ツール 70-74 57試合7得点 ジュロ・イヴァータ 75-80 141試合20得点 ツール 81-83 29試合2得点 エスペリオ 84 26試合1得点 トリーニョ 85-86 14試合1得点 ヒャンルー・チムチャン 89-91 24試合21得点 代表 7試合0得点 通算 298試合52得点 セイメス・トリオレス Saymas Toriolez DF 30歳 1948年、サシャーユのサシェリア生まれ。7歳にして、サシャーユFCのユース戦後第一期生へ入団し技術を磨いた。この第一期生には長身選手が少なく、178cmのトリオレスが最も身長が高かった。そのため、本人の希望であるFWではなくDFにされたと言う。 下部組織で順調に経験を積んでいったトリオレスは、17歳でトップチームへ昇格。17歳での昇格は、長年に渡ってクラブ最年少記録だった(97年に息子アイバンが14歳で更新)。 178cmとCBとしては小柄ながらもジャンプ力やヘディングに優れ、空中戦でも安定した守備を見せた。FWに負けないスピードが武器で、素早い寄せやカバーリングや確かな足元の技術は高くSBもこなせた。また、気迫の籠った大声でチームを鼓舞することから「守りの矛」と呼ばれ、並みいるライバルを押しのけて69年からレギュラーに抜擢された。ただし、SBとCBの併用で、そのスピードを生かすためにほとんどはSBで先発している。 71年にはCBに専念してリーグを最少失点で優勝し、翌年は連覇。国内を代表するDFとして名を知らしめている。74年はECL準優勝、76年にはECLベスト4に進出している。 代表への初召集は、クラブでレギュラーに定着した69年。大柄なCBが相手に置いて行かれることの多かった守備陣再編のため、初出場の親善試合ポルトガル戦で先発(CB)を任された。ここで完封勝利に貢献し、WFC直前で代表に欠かせない存在となった。70年WFCへ向けた予選では、SBとして6試合に出場している。 その後、74年、78年WFC出場にも貢献し、この2つの大会はCBとして活躍した。なお、代表131試合出場はDFとして歴代3位である(単一クラブでの500試合出場は歴代2位)。 クラブではその後、内紛や監督の連続解任などで自分たちのスタイルを失い、数年間の低迷期に陥った。同時に自身もケガやスピードの衰え、システム変更に戸惑って調子を落とし、代表チームも2大会連続でWFC出場を逃した。しかし、87年に就任したベル・キオラ監督によってサシャーユFCはシステム、世代とも一新。「サシャーユサッカー史上最強の一つ」とまで呼ばれるまでに復活。レギュラーでは無かったものの、精神的支柱として88年の国内リーグ、カップ戦、ECL優勝、89年の国内リーグ連覇とECL準優勝などを経験した。 精神的支柱として90年WFCメンバー選出が期待されたが、「自らのプレイは選ばれるべきレベルに無い」として現役から引退した。600試合以上に出場したにも関わらず、現役で一度も大ケガをしなかった。 監督やコーチには就かず、現在はサシェリア郊外で農業に勤しんでいる。 サシャーユFC 55-90 500試合11得点 代表 131試合7得点 通算 631試合18得点 マイケル・センソン Michael Sensone DF 28歳 1950年、サシャーユのポルコ生まれ。少年時代は特に目立った活躍は無く、地元のアマチュアクラブでプレイした。プロ入りする夢を持ち、高校卒業後にポルトガルリーグ2部のフィラメント・エスコーラFCへ練習生として入団。188cmの恵まれた体格を見込まれ、3年間に渡ってDFとしての基礎を叩き込まれた。三年目にはリーグ戦にも出場している。 その後、72年に正式にフィラメント・エスコーラとプロ契約。同年、チームは1部に昇格を果たした。しかし、昇格に伴いDFを多く獲得したため出場機会は減り、帰国を決意した。 74年に帰国後は、テームスへ入団。持ち味は粘り強い守備で、決して足は速くないものの、マンマークによる空中戦や読みに優れた。CBやDMFとして二年間に渡ってプレイし、代表にも選出される活躍を見せたもののチームは2部へ降格。これを機に、優勝を狙えるデミンガムへ移籍した。入団後の76年、77年と2年連続で2位になっている。 代表としては、74年は数試合のみの出場でWFCのメンバーからも漏れている。しかし、ゼファン新監督に重用され、以降、トリオレスと共にCBを務めた。78年WFCでは、全試合に出場しヘディングで得点も決めている。得点はヘディングがほとんどで、重要なシーンで決めることが多かった。FWとしてもプレイが可能で、先発した試合もある。 その後もデミンガムでレギュラーだったものの、深刻な連係不足やシステムの混乱によって得点力不足に陥り、一度も2部降格の無かった名門も81年に2部へ降格。すると、降格と同時にツールへ移籍。しかしファンの熱い要望により、83年に2部のデミンガムへ復帰した。その後は新監督によってチームは改善し、84年は1部に昇格している。 その後、36歳で引退するまでデミンガムでプレイを続けた。75年には、リーグ戦9得点とDFとして圧倒的な得点力を見せつけている。 代表ではその後、81年の環境の変化(クラブの2部降格)で体調を崩し、WFC最終予選敗退。これ以来、代表引退を表明した。DFとして代表通算25得点は歴代3位である。 引退後はイングランドで代理人業を開始した。現在はサシャーユ地域リーグ1部のテルミアのオーナーとして広報活動に力を入れる傍ら、サッカー雑誌多数に緻密な分析による戦術解説を連載。データを多用した内容は高く評価され、データを売買する副業も行う。 フィラメント・エスコーラ 69-73 27試合4得点 テームス 74-75 50試合10得点 デミンガム 76-81 157試合11得点 ツール 82 21試合1得点 デミンガム 83-86 96試合2得点 代表 74試合25得点 通算 425試合53得点 スコラ・ヤンクテール Scholar Janctale MF 26歳 1952年、サシャーユのカルデミラ生まれ。サッカーを始めたのは5歳の時で、11歳で地元のカルデミラ・フミーラFCへ入団した。このクラブはアマチュアながらも、戦前は国王杯の本戦出場経験のある古豪だった。 このクラブでサッカーの基礎を学び、18歳の時には44年ぶりに国王杯本選出場を果たした。この時は右サイドのMFとしてプレイし、そのゲームメーカーぶりが全国に知れ渡る。結局クラブは準決勝まで進み、アマチュアクラブとしては戦後初めてのベスト4となった。 この活躍を機に、71年、アントコールFCへ入団。二年目まではなかなか出場機会を得られなかったものの、73年は全試合に出場してリーグ2位に貢献。アシスト王にも輝き、その絶妙なスルーパスと正確なピンポイントクロスなどは「国内最高」とまで呼ばれた。 この年から代表に選出され、右サイドで大活躍を見せた。最終予選中に代表に加わったものの、コンビネーション抜群に相手へ合わせるパスを多用。連携が深まってくると、相手の動きだしを読んだスルーパスも使いこなし、チームに欠かせない存在となった。 しかし、パス以外のドリブルは並の選手レベルであり、運動量の低さにも難がある。そのため、守備重視のフレデリック・カマン監督の戦術は、ヤンクテール以外の選手に多くの守備的プレイを課すこととなった。その結果、74年のWFCでは内紛だけでなく守備網自体も最後まで調子が合わず、戦犯の一人となった。 その後、75年にはドイツのダウケン・グランデッヒへ移籍。高いパスセンスを見せたが、運動量の低さが露呈し、クラブでも絶対的な存在にはなれず代表からも遠ざかった。だが、徹底した運動量強化練習を行い、代表復帰した76年からは大活躍を見せている。その後、肉体強化を目的に77年、イングランドのアンバークラウンFCへ移籍し、攻撃の中心へ抜擢。78年WFCでは5本のアシストを成功させ、FKも1本を決めるなど活躍、一躍世界の注目を浴びた。その後は82、86年WFC予選にも参加したが出場を逃した。 クラブでは、アンバークラウンFCで絶大な支持を受け、サポーターからも愛された。79年にはECLで優勝、80年にはベスト8を経験した。しかし、右足の慢性的な痛み、腰痛の影響で、81年に29歳で引退している。 その後は早くから監督修行を始め、84年にアンバークラウン下部組織の監督に就任。緻密な采配で成果を挙げ90、96年にアンバークラウンFCの監督に就任した(98年リーグ優勝)。 04年からのマイルビーチ監督を経て、09年、中国代表監督に就任した。 アントコールFC 71-74 64試合9得点 ダウケン・グランデッヒ 75-76 60試合6得点 アンバークラウンFC 77-81 311試合31得点 サシャーユ代表 63試合8得点 通算 435試合54得点 カロナライナ・ポルター Caronalina Poltter MF 26歳 1952年、サシャーユのサシェリア生まれ。15歳の時、エミールジュールの下部組織へ入団。当初はDFとしてプレイしていたが、17歳の時にツーリオ・サルディ移籍後に体の強さを見込まれて、守備的MFにコンバートされた。 その後はMFとしての才能を開花させ、19歳でトップチームデビューを果たすと、今度はトップ下でのプレイも経験。この位置でのプレイで結果を残し、75年には4得点7アシストを記録している。翌年はリーグの強豪だったトリーニョへ移籍した。 76年からはゼファン監督によって代表にも選出。絶対的存在だったバイナーと同じポジションで出場機会が少ないながら、バイナー不在時にはしっかりと代役を務めあげた。また、守備的MFやDFでのプレイも可能なことから、「万能サッカー」に欠かせない存在だった。 78年WFCではバイナーの位置(4-1-3-2の3の中央)でのプレイはなかったが、多くのポジションで途中交代出場した。攻撃的布陣の4-2-1-3では抜群のキープ能力を見込まれて1の部分で出場し、3位決定戦の西ドイツ戦では強烈なミドルシュートで得点を挙げた。また、パスを散らす技術にも優れ、攻守の両面でその才能を発揮した。 その後クラブでは絶対的レギュラーとして、代表ではバイナーのバックアッパーやユーティリティープレイヤーとしてプレイした。在籍期間は長くないものの、79年のECC優勝などを誇ったトリーニョの黄金時代に欠かせない存在と言われる。 80年にはルルージュFCへ移籍し、活躍した。 代表では80年にバイナーが大ケガで離脱すると、本来のトップ下でプレイする機会を得て活躍。80年のヨーロッパ選手権では本戦出場を果たし、82年のWFC出場が期待されたがまさかの最終予選敗退。同時にバイナーが復帰し、代表での先発は再び少なくなった。 その後、86年のWFC出場へ向けた予選は主力から漏れ、代表引退を表明した。バイナーの存在で、才能の共存ができなかった例としてサシャーユサッカー史に語り継がれている。 86年は、2部のアキーノCDへ移籍。1部昇格を目指したものの、88年に現役引退した。 現在はスペインでサッカー学校を主宰する傍ら、日本の九段丘高校でも指導に当たっている。 エミールジュール 67-68 7試合0得点 ツーリオ・サルディ 69-75 48試合8得点 トリーニョ 76-80 145試合39得点 ルルージュFC 81-85 140試合32得点 アキーノCD 86-88 29試合1得点 代表 54試合15得点 通算 379試合95得点 セイメス・イカンソン Saymese Iickanson MF 23歳 国内リーグ中断時にポルトガルリーグで活躍した父を持ち、1955年にポルトガルのリスボンで生まれた。16歳の時、リスボン・エーレミーレFCの下部組織へ入団。MFとして19歳でプロ契約した。20歳の時にはリーグ戦で18試合に出場、MOMにも選出されている。 その後、75年末にサシャーユの名門・サシャーユFCの若手育成プロジェクトからオファーを受け帰国を決意。この時、ポルトガルサッカー協会からは帰化の打診もあったと言う。 サシャーユFCでは右サイドのスペシャリストとして期待され、ベテランスター選手エマーダとポジションを争った。突破力とシュート技術で次第に結果を残すと、77年にはエマーダをボランチへ押し退け、右サイドで不動のレギュラーとなった。ただし、なぜかFWポダーとの相性は悪かった。 77年、それまでの布陣のバリエーションとしての要素で代表に選出。従来の4-1-3-2から4-2-3-1変更時の交代要員としての扱いだったが、予選で活躍を見せて左サイドのレギュラーに定着。時にはSBとしてもプレイした。78年のWFCでは、サシャーユFCでは相性の悪かったポダーと抜群のコンビネーションを見せ、チームを3位に導いた。 しかし、82年と86年のWFCは、ケガの影響で最終予選に参加できずチームも敗退した。 78年WFC後はクラブでも左サイドでプレイ。緩急を付けたパスや積極的なシュート、献身的な守備などバランスのとれたMFとして、サシャーユFCの黄金期を支えた。しかし、80年代中頃からのサシャーユFCの低迷期は、ケガから復帰後したものの思い通りのプレイができず、結果も付いてこなかった。そんな中、88年はベル・キオラ監督に率いられてECL優勝。このチームのレギュラーとして大車輪の活躍で、復活を印象付けた。この頃になると中盤の底での汗かき役に徹し、ピンチの芽を摘み続けた。 代表チームでは、90年のWFCへ向けて予選に参加。本大会出場を決めたものの、若手選手との競争に敗れて本戦メンバーからは漏れている。この年で代表は引退した。 その後、サシャーユFCを象徴する存在とまで言われたが、「挑戦」のため93年に日本のJリーグ、清水エスパルスへ移籍。盟友ポダーとも対戦し94年に現役引退した。99年に二重国籍を保持するポルトガルへ移住しラジオ局経営に着手。現在は帰国しバーを経営している。 リスボン・エーレミーレFC 71-75 24試合2得点 サシャーユFC 76-92 387試合75得点 清水エスパルス 93-94 46試合16得点 代表 77試合14得点 通算 534試合107得点 アルチェロ・ゼッキ Aleuchero Zekki DF 28歳 1950年、アメリカのボストン生まれ。家族は戦時中、アメリカへ亡命していた。 サッカーを始めたのは8歳の時。サッカーの盛んでないアメリカではアマチュアクラブでプレイを続けた。11歳でサシャーユへ帰国後は、ローゼンの下部組織でプレイしている。179cmと決して大柄ではないが、的確なカバーリング能力とマンマークの強さ、攻撃面での貢献が評価されて21歳でトップチームへデビュー。ボランチとして活躍した。CBのバグマンの攻撃参加が頻繁で、そのカバーリングといったコンビネーションは抜群だった。 代表初選出は76年。当初は本職のボランチでの出場が多かったものの、ヤンクテールやイカンソンの攻撃参加時のカバーリングを期待されてSBへコンバート。当初は縦への突破が少なく批判も浴びたが、次第に攻撃参加も増えて右SBとしてレギュラーに定着した。78年WFCではDF登録され、全試合にフル出場している。 その後の代表は、WFCの予選敗退が決定した82年に引退している。 本職はMFながらもSBという新境地で活躍を果たすと、クラブでも柔軟にポジションを変えてプレイの幅が広がっていった。80年にヘラルドセンゲンへ移籍後はMFではなくDF登録され、SBだけでなくCBとしても数試合に出場している。身長は179cmとDFにしては小さかったが、高いボール奪取能力とMFとして培った足下の技術が重用された。82年には念願のリーグ優勝を経験している。 その後、83年はサシャーユ王者としてECLへ出場。グループリーグでのイタリアのベナーロ戦で守備と攻撃両面で活躍。これが注目され、84年にベナーロへ移籍した。レギュラーでの活躍が期待されたが、移籍後はケガとの闘いだった。先発出場は次第に減っていき、87年にケガを理由に引退を表明。 引退後はローゼンのフロント入りし、90年にはローゼンの下部組織の監督としてユースカップ優勝。90年代のローゼン黄金時代を担った選手の多くを育成、指導した。99年にU-18サシャーユ代表監督に就任し、01年のU-20WFCは準優勝。その後はローゼンやイタリアで監督に就任。04年にはベナーロをリーグ優勝、ECCベスト4に導くなど、結果を残し続けている。中堅チームを堅実に強化する手腕と経験が評価され、05年からはサシャーユサッカー協会のユース育成部門の顧問に就き、フル代表監督人事の際には常に話題に上る。ヨーロッパ屈指の戦術家として知られ、10年以降の代表監督就任が濃厚である。 ローゼン 61-79 234試合16得点 ヘラルドセンゲン 80-83 92試合9得点 ベナーロ 84-87 109試合7得点 代表 57試合4得点 通算 492試合36得点 ゴメス・バフラテット Gomez Bafrated DF 28歳 1950年、サシャーユ南部の漁村メリテヤ生まれ。サッカーを本格的に始めたのは中学からで、高校は地元の名門にサッカー推薦で入学するほどの実力だった。 当時のポジションは、快足を生かしたFW。高校では思ったような活躍とまではいかなかったものの、ワラルースのスカウトを受けて、69年にプロ入りした。 入団後はチーム事情もあって、サイドプレイヤーにコンバート。当初は攻撃意識が強すぎ、主にWBやSMFとして起用されていてもすぐに前線へ飛び出すことが多かった。このため、決して強豪とは言えなかったワラルースにおいても出場機会は少なく、多くの監督が起用法に頭を悩ませた。 その後、72年にかつてのイングランド名サイドプレイヤーで、ヨーロッパ屈指の知将と呼ばれるハワード・ベルキンソンが監督に電撃就任。FW然とした前線でのプレイが精彩を欠くことに悩んでいたバフラテット自身の要望もあり、ベルキンソン監督は徹底してサイドでのプレイについて伝授した。その結果、サイドはどのポジションでもこなせる高い順応性と快足を生かした縦への突破を身に付け、74年からはSMFのレギュラーで活躍した。 代表への初召集は75年。サイドで結果を出し、以降コンスタントに招集された。代表では、主に4-1-3-2の左SBとして出場し、前線への効果的な上りは大きな武器となった。 そして、78年WFCのメンバーに選出。この大会では5試合に出場した。 しかし代表への招集は79年以降無く、82年、86年大会への予選には出場していない。 78年WFCでの活躍が認められ、79年にイングランドのハッパースルーFCへ移籍。ここではWGとしても出場し、長年にわたってレギュラーとして活躍した。 ハッパースルーはイングランドの中堅で、ECLなどの大会にはなかなか出場できなかった。しかし、82年にリーグ優勝すると、83年には23年ぶりにECLへ出場。その大会でもバフラテッドはレギュラーとしてプレイし、歴史に名を残している。その後の現役生活はハッパースルーFC一筋に過ごし、サポーターからも愛される存在だった。 01年にはチーム創立100周年を記念した「ハッパースルーFC殿堂11」にも選出された。 90年に現役引退後は、ハッパースルーFCの下部組織で寮長を務めた。93年からは天性のデザインセンスを生かしてイングランド2部のデザイン担当に就任。04年からはハッパースルー(当時2部)のチーム専属デザイナーを務め、ユニフォームや1部昇格を果たした07年の記念旗を制作。現在は解説者、ライターとして活動している。 ワラルース 69-78 144試合14得点 ハッパースルーFC 79-90 327試合33得点 代表 36試合8得点 通算 507試合55得点
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by remarkabler | 2010-02-17 03:23

2009代表

監督 アワーシュー・ガルソン GK ステマンテ・プレカシュ 28 アクアニ(ESP) ガリオニアーズ・クスカリテ 26 トレンド・ファン (SYL) マルコス・ブレーマン 34 レムン(ENG) DF ルッカース・ミルデ・メルテス 30 FCアントレフェールト(SYL) イシュバン・アクソン 24 エルナントFC(SYL) オズワルド・クーダー 19 エルナントFC(SYL) マイケル・アリッキ 27 CFカンタフェ(ESP) オルササ・アリッチ CB 29 FCカクラス・シティ(ENG) リリー・ソッキ 30 サンフレッチェ広島(JPN) アイバン・トリオレス LSB 26 バンザウェイ・ヘンデリッターズ(SYL) MF クラーノ・クライス 27 セルバーリー(ENG) トルナルド・ビーシーア 21 ウダイセクタCC(ITA) ミチェーレ・エンドー 27 ローゼン・アントコールFC(SYL) イキリス・ポン 28 FCアントレフェールト(SYL) ジョナサン・アイデン・ハムト 22 サシャーユFC(SYL) へユード・チャム 23 FCトレンド・ファン (SYL) クリスティアン・ポイド 23 ハルシールAFC(GER) ハインティア・キュリス 25 トレンド・ファン(SYL) ハワード・エミン 31 サシャーユFC(SYL) FW エルミア・ユファン 28 ヘルワースFC(ENG) クリスティアン・セイン・イイー 26 ハヌート(ESP) エラディオラ・フルエータ 22 エミールジュール(SYL) カシオ・ジャーキー 31 ガルオン・ハテーウブルグ(RUS) ハワード・パルイスカ 26 FCデミンガム(SYL) ■■■■フルエータ■■イイー■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■キュリス■■■■■■■クライス■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■ポン■■エンドー■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■トリオレス■■■■■■■■クーダー■ ■■■■メルテス■■■アリッチ■■■■ ■■■■■■■プレカシュ■■■■■■■ ■■■■■■■■ユファン■■■■■■■ ■フルエータ■■■■■■■クライス■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■キュリス■■■■■■■エンドー■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 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その後、06年にエルナントへ移籍し、08年からスペインのハヌートへレンタルされている。 代表としては、アテネ五輪代表は落選したものの、06年初頭から代表へ招集。SMFとしても出場しておりゴールも決めたが、同年のWFCサシャーユ代表には選出されなかった。 その後、一時の空白を経て08年から再び招集。10年WFCへ向けた予選では主力である。 サポラFC 94−95 21試合3得点 リンデーラ・ポストミーナ 98 23試合1得点 カーロン・アンダレード 99 3試合0得点 ハリートFC 00−01 63試合 15得点 カーロン・アンダレード 02−05 77試合34得点 エルナント 06−07 51試合12得点 ハヌート 08− 63試合27得点 サシャーユ代表 17試合6得点 エルミア・ユファン Elmira Yufane FW 28歳 1981年、サシャーユの首都サシェリア生まれ。幼い頃からサッカーを始め、9歳でサシェリアFCの下部組織へ入団した。 当初は中盤の選手だったが、次第にポジションが前に移動。14歳のときにはFWとして大成が期待される存在となる。 00年には、Bチームで34試合に出場し27得点を挙げる活躍を見せ、トップチームへ昇格。それ以降、数少ないチャンスを着実に生かし、結果を残し続けた。 プレイスタイルは典型的なCFW。185cmのがっしりとした体格でのボール捌き、一瞬のスピードに優れ、ヘディングも強い。 サシェリアFCでは、02年からレギュラーの座に定着。05年には10ゴールを挙げ、中位から下位に低迷しがちだったチームをリーグ戦5位に導いた。 代表歴としては、下部組織時代の97年にU—16サシャーユ代表へ初選出。その後も各年代に代表に選ばれ続け、00年にはU—20代表として国際ユースW杯でベスト4進出の原動力となった。この大会では7試合で5得点し、トップチーム昇格の時期を早めることとなった。この活躍を受け、各国の複数のクラブから移籍の打診があった。 だが、期待された04年のアテネ五輪にはケガのため出場を断念している。 A代表へは、04年に初選出。1トップを重視する戦術において、レギュラーであるハミック・レンジョンの控えとして重用された。しかし、ケガなどの影響で06年WFC最終メンバーからは漏れている。 06年以降は、FWの軸として期待され、10年WFCへ向けた予選で活躍。現在の代表チームでは数少ないポストプレイのできる選手として期待されている。 クラブとしては、09年にイングランドのアンバークラウンFCへ移籍。ECLへ出場する名門クラブの一員としてプレイしている。 サシェリアFC 90−08 237試合75得点 アンバークラウンFC 09− 23試合6得点 サシャーユ代表 31試合15得点 クリスティアン・ボイド Christian Boido MF 23歳 1986年、サシャーユ南部の都市ルルージェ生まれ。地元のアマチュアチームでサッカーを始め、FWとして活躍した。セイリューズ高校時代には全国大会ベスト4進出に貢献した。 高校を卒業した05年、1部へ昇格が決定した地元のルルージュFCへ入団。入団と同時に、スピードのあるドリブルとキック精度を買われて攻撃的MFへコンバートされた。 その後は19歳ながらもレギュラーの座を奪い、このシーズンは27試合に出場して3ゴールを奪う活躍を見せた。 この成績を受け、この年に北京五輪出場を目指して発足したU—20代表へ選出。代表デビューとなった05年12月の対U—20韓国戦では2アシストを記録し、代表にも定着した。 こうした活躍を見せながらも、クラブは06年に最下位に沈んで降格が決定。これを機に、オランダ2部のセルファイン・フェルカークへ移籍。激しいボディコンタクトの中で身体的にも成長を果たし、2部のアシスト王、ベストイレブンに選出された。なお、チーム内の平均評点は6.31とトップを記録している。 この頃は、元々評価の高かった切れ味あるドリブルとキック精度を高め、同時に2列目、3列目からゴールを狙う動きを身につけた。守備意識が低く批判されることもあるものの、攻撃面で決定的な仕事が欲しい時など、膠着状態を打破したい場合や攻撃的な戦術で重用されている。 そうして、08年にはA代表に初選出。その後は10年WFCへ向けたヨーロッパ最終予選にも出場を果たし、中心選手として期待されている。 また、2部での活躍を受けて、ドイツの強豪ハルシールAFCへの移籍が決定した。 ルルージュFC 05—06 63試合9得点 セルファイン・フェルカーク 07—08 68試合22得点 U—22サシャーユ代表 サシャーユ代表 オルササ・アリッチ Olseassa Arich DF 29歳 1980年、サシャーユ南部のエルジュア島生まれ。幼い頃は走り高跳びの選手として活躍し、小学生の全国大会3位入賞も経験している。だが、身長が伸びず断念。 サッカーを始めたのは中学校の頃。近所に住んでいた友人の兄がプロサッカー選手になったことがきっかけだった。その後はめきめきと頭角を現し、16歳で本土の都市レイシアへ単身移住。レイシアのサッカースクールで徹底的にトレーニングを行った。 そうした努力と、走り高飛びで培ったジャンプ力やスピード、体の使い方を見込まれ、99年にDFとしてエミールジュールへ入団した。 エミールジュールでは数試合に出場を果たしたものの定位置は確保できず、01年にツールへ移籍。ここではレギュラーとして抜擢され、CBとして守備陣を統率した。 すると、03年に代表に初選出され、06年WFCへ向けた予選でレギュラーに定着。見事に予選突破を果たした。 06年のWFCでは4試合に出場。2試合で完封し、チームのベスト8進出に貢献した。 アリッチの持ち味は、身長182cmと大きくない体格を完璧にカバーする驚異的なジャンプ力。空中戦には滅法強く、また空中での体の使い方により競り合いには絶対の自信を持つ。また陸上選手時代に学んだ一瞬の反発力を生かした走り出しにより、相手選手を封じるDFとしての才能、技術に恵まれている。 時には一つ前のMFとしてもプレイし、相手の攻撃の目を摘む役割を果たす。 こうしたツールや代表での活躍を受け、07年にイングランドのケールスワードFCへ移籍。新天地でもレギュラーとしてプレイし、09年度のECCの出場権獲得に貢献したものの、ケガの影響もあって退団。09年は同じくイングランドのFCカクラス・シティへ移籍した。 06年以降も代表には選出されWFC最終予選にも出場しているが、ケガがちである。 エミールジュール 99−00 3試合 ツール 01−06 174試合9得点 ケールスワードFC 07−08 29試合 FCカクラス・シティ 09— サシャーユ代表 32試合1得点 リリー・ソッキ Lili Socki DF 30歳 1979年、サシャーユの首都サシェリア生まれ。10歳でサッカーを始めると、翌年にはサシャーユFCの下部組織へ入団を果たしている。 落ち着いた対応と前線への推進力を発揮し、当初はボランチとしてのプレイが多かった。 その後、94年にポンレッチェへ移籍。95年にはボランチとしてU—17代表に選出された。 この頃になると、無闇に送る前線へのパス等が減り、守備意識が強くなっていく。下部組織で2ボランチのコンビを組んでいたセイン・シュミウォッカーが攻撃面で威力を発揮する選手だったため、バランスを取るため必然的に守備面での仕事に回ることが多かった。 中盤と前線に多くのタレントを抱えていた当時のポンレッチェにおいてなかなかトップチームでのプレイは叶わなかったが、99年に昇格を果たす。当時のボランチにはシュミウォッカーとヘンドミンが君臨しており、出場機会も限られていた。しかし、CBの故障が相次ぎ、そこに起用されることが多くなっていく。翌年は控えCBとして11試合に出場し、01年にはレギュラーとして31試合に出場。チームに欠かせない存在となった。 CBとしては、守備面での危機察知能力と落ち着いた対応、ボランチとして培った推進力を生かしたビルドアップの面で優れたプレイを見せた。そう言った点で、攻撃に転じた際にはボランチの前後までポジションを前目に取ることがある。 A代表には、05年に初選出。当初は控えCB扱いで、06年WFCメンバーから落選。しかし、それ以降は再び選出されている。 クラブでは06年にスペインのアルフェルト・マディアールへ移籍。その後は数カ国のクラブを渡り歩き、08年からはJリーグのサンフレッチェ広島でプレイしている。 サシャーユFC ポンレッチェ アルフェルト・マディアール センルースールFC タニクパイルス サンフレッチェ広島 サシャーユ代表 クラーノ・クライス Crarno Crise MF 27歳 1982年、サシャーユのアベレマン生まれ。17歳でエルナントの下部組織へ入団し、順調に経験を積んだ。FWやDFも経験したが、最終的にはMFとしてプレイしている。 しかしながら、2000年前後のエルナントはリーグ屈指の強豪であり、19歳でトップチーム昇格後も控えとしてベンチ入すらままならない状態だった。 そんな中、21歳でイギリスの古豪セルバーリーへ移籍。当時は2部から昇格したばかりのクラブにおいて、多くのポジションをこなせる器用さが重用され、レギュラーに定着した。 すると、フラーラン監督の下でチームも次第に力を付け、04年にリーグ2位、05年はついに優勝を果たした。この間はSMFのレギュラーとして多くの試合に出場し、ゴールやアシストを量産している。 20代前半はスピードやボディバランスと言った身体能力を強引に用いたプレイスタイルを見せていたが、近年は重要なプレイを確実にこなす高度なテクニックと判断力が加わり、MFとしてゲームをコントロールする選手へと成長した。 代表歴としては、10代の頃は各年代の代表選出は無い。そのため帰化でのイングランド代表入も打診されたが、サシャーユ代表選出を信じて固辞したと言う。A代表初選出は06年で、デビュー戦となったポーランド戦ではいきなり2ゴールと結果を残している。 06年WFCメンバーからはケガで落選したが、現在の代表では攻撃を仕掛けるスイッチ的な役割を担い、不動の地位を確立している。 セルバーリーでは07年から主将を務め、08年もリーグ優勝、ECLベスト4進出などサシャーユサッカー界において最も活躍する選手の一人である。07年と08年にはエル・マデール(世界最優秀選手賞)にノミネートされ、08年にはハミルトン卿杯(サシャーユ最優秀選手賞)を初受賞した。 現在はイングランドやスペインの強豪クラブからの移籍の噂が絶えない状況である。なお、サシャーユの伝説における「中世の偉大な王」と同じ姓を持つため、「皇帝」とも呼ばれる。 ミチェーレ・エンドー Michele Endo MF 27歳 1982年、サシャーユ西部の商都オルサカ生まれ。生まれてすぐに、南部のキャベマールへ転居し、サッカーの盛んなこの街で育った。 16歳で地元のセミプロへ入団し、18歳でプロクラブのキャベマール・シオタンゼ(2部)の下部組織へ入団。FWとして強引なドリブルを見せ、多くの大会で得点王に輝いている。 その後19歳でトップチームへ昇格するが、財政難等を理由にシオタンゼは2部から5部相当への降格が決定。これに伴い、多額の移籍金を提示したローゼン・アントコールFC(01年に1部へ昇格)へ移籍した。 移籍直後はMFに転向したが、戦術上の都合や細い体躯が影響してなかなかレギュラーになれず03年から05年までCDテームスへレンタルされている。空中戦やセットプレイを重視するチーム戦術の中で身体的に成長したという。 06年に復帰すると、それまで不動のボランチだったシーマーからレギュラーを奪い、中心として活躍。CMFやDMFとしてセンターに位置し、攻撃にリズムをつける選手として重用されている。最近はサイドに配置されることもあり、新たなスタイルも開拓した。 エンドーの特徴は、高いパスセンス。スルーパスやループパスに加え、フェイントをかけてからの意表を付いたパスも得意とする。FKも正確で、テクニックに秀でた選手である。 代表歴としては、04年にはアテネ五輪へU—23サシャーユ代表の一員として帯同している(出場は1試合)。アテネ五輪後一時期調子を落としてA代表選出はならなかった。A代表デビューを果たしたのは06年で、WFC後の新体制に選出。代表では主にCMFやOMFとして出場している。 クラブでは08年に7位に食い込む原動力となり、サシャーユFCやイングランドの強豪への移籍の噂がある。 キャベマール・シオタンゼ 00—01 17試合4得点 ローゼン・アントコールFC 02 4試合0得点 CDテームス 03—05 57試合6得点 ローゼン・アントコールFC 06— 88試合12得点 サシャーユ代表 31試合9得点 アイバン・トリオレス Aivan Triolez DF 26歳 1983年、サシャーユの首都サシェリア生まれ。父親は、78年WFC3位入賞に貢献した名DFセイメス・トリオレス。父親に指導によりサッカーを始め、9歳でサシャーユFCの下部組織へ入団した。 当時は小柄な体格を生かすためSTやSMFを主に務めていたが、次第に後ろ目の位置へコンバート。14歳でトップチームへ昇格し話題になるも、ケガ等の影響で定着はならなかった。 その後99年にバンザウェイへ移籍すると、カバーリングの能力と高いクロス精度を生かすためにボランチの位置でプレイ。中盤の底からボールを散らす働きでチームに勢いをつけ、トップチームに合流した03年には新人王に輝いた。センターでプレイをしながらも左右のサイドへ流れる動きも見せ、アシストも多く記録している。 代表歴としては、U—15、16のサシャーユ代表に選出経験があり、FWとして出場している。A代表デビューは04年。当時手薄だったSBとして抜擢され、以降は代表に欠かせない存在となっている。06年WFC代表にも選出され、全5試合に出場した。CBとのコンビネーションは抜群で、タイミングのいい攻撃参加も大きな武器となっている。 07年はリーグ戦序盤の大ケガで出場機会が限られたものの、現在も代表の主力である。 クラブではその後も中心選手として君臨。CMF、DMFとして活躍し、スタミナ不足も解消された近年はシーズンを通してプレイが可能に。08年はチームを5位に躍進させる原動力となった。「バンザウェイの至宝」とも呼ばれ、人気実力ともにトップレベルの選手である。 06、08年とハミルトン卿杯(サシャーユ最優秀選手賞)にノミネートされている。 サシャーユFC 92—98 9試合 バンザウェイ・ヘンデリッターズ 99— 216試合29得点 サシャーユ代表 42試合2得点 ヘユード・チャム Heyord Cham MF 23歳 1986年、ペルー北部の商業都市セラ・テンカーナ生まれ。父親がサシャーユ人の考古学者であり、母親はペルー人である。父親の発掘作業のためペルーで幼少期を過ごしたが、8歳の時に家族でサシャーユへ移住した。 ペルー時代にサッカーを始めて南米独特のサッカーセンスを身につけており、10歳でヴェクオンの下部組織へ入団。しかし、南米風のプレイスタイルが当時のヴェクオン下部組織の選手と噛み合わず、起用法が限られていた。そんな中でボディバランスを強化することで生き残りを目指し、186cmの長身と強靭な肉体でカバーするプレイを身につけた。 その後MFとして18歳まで在籍したが、ペルーの名門クラブであるリヴァン・テレカンテFCの誘いを受けて同下部組織へ長期のレンタル移籍。ここではテクニックを磨き、トップチームでの試合にも出場している。 06年にレンタル終了後、バンザウェイへ移籍。チーム事情の中でCBやSB等も経験したが、徐々に監督の信頼を獲得。07年の開幕戦で先発すると、そのシーズンは全34試合でフル出場を果たした。 特徴は圧倒的なボディバランスでボールキープしてからのスルーパスやボール捌き。ピッチ全体を見渡す広い視野も持ち、空いたスペースを有効に活用する。また攻撃面だけでなく、中盤でボールをカットする守備的な働きも高い評価を受けている。 サシャーユとペルーの二重国籍のため、04年にU—18ペルー代表でプレイ。その後はサシャーユ代表を選択し、U—23サシャーユ代表として08年北京五輪へ出場している。 サシャーユA代表デビューは07年。中盤の底に小柄な選手の多いサシャーユにおいて貴重な存在として注目されている。 ヴェクオン リヴァン・テレカンテFC バンザウェイ サシャーユ代表 エラディオラ・フルエータ Eldiora Flluieta FW 22歳 1987年、サシャーユ北部のスースラ生まれ。8歳でエミールジュールの下部組織へ入団する等、早くから才能が期待されていた。 下部組織では当初守備的MFとしてプレイ。しかし「シュートがうますぎる」ためにFWへコンバートされたという。12歳の時にはU—12スースラ選抜として、同郷のビーシーアとFWの座を争い、圧倒的な攻撃力を武器に全国大会で優勝を果たしている。 17歳でトップチームに合流も果たし(この年は4試合0得点)、順調にステップアップしていた。 だが、直後に左脚を骨折する大ケガを負い、2年間のリハビリ生活を体験。この間にビーシーアはイタリアで大活躍を果たし、そのギャップから一時は引退も考えたという。 06年に復帰すると、試合勘を取り戻すため2部のサンイト・レジーナへレンタル移籍。38試合に出場し、11ゴールを挙げる活躍を見せた。翌年はエミールジュールの保有するポルトガルの育成クラブでプレイした。 08年にエミールジュールへ復帰後はオビニア監督に抜擢され、32試合に出場。23得点で得点ランキング3位に食い込む大活躍を見せた。09年も21得点を挙げた。 この活躍を受け、08年にA代表デビュー。同時にU—23代表にも招集され、FWの軸としてプレイしている。A代表のエースとして期待されており、世界的な注目も集めている。 プレイスタイルは万能型。178cmと決して大柄ではないが、瞬発力を生かして距離を取り、体の使い方で相手を制する。高いシュートテクニックを誇り、咄嗟の判断力やラインを読んでの飛び出しも持ち味で、様々な戦術に対応できる。ドリブルも得意なためSMFとしてサイドから切れ込むことも多い。 09年はハミルトン卿杯(サシャーユ最優秀選手賞)を受賞した。 エミールジュール 95−05 4試合0得点 サンイト・レジーナ 06 38試合11得点 ポルト・コルティック・エミールジュール 07 35試合18得点 エミールジュール 08— 69試合50得点 サシャーユ代表 14試合9得点 イキリス・ポン Ikyrice Pone MF 28歳 1981年、サシャーユのトリーニョ生まれ。90年WFCに出場したサシャーユ代表を見て、サッカー選手を志したという。13歳でトリーニョの下部組織へ入団し、FWとしてプレイしている。しかし17歳で退団し、高校サッカーでプレイ。全国選手権出場を果たしている。 高校卒業後、リードンへ入団。ポストプレイを期待されたものの、下部組織でも満足いく結果は出せなかった。結局トップチームでの出場は2試合1得点に留まり、01年限りで戦力外通告を受けた。 退団後はサシャーユ中央大学へ進学し、弁護士を目指して社会法律学を専攻。一時はサッカーを引退する決意だったが、大学サッカー部監督の熱心な誘いで入部、再開した。 大学サッカーではFWやMF、DFもこなすユーティリティープレイヤーとして活躍。特に守備面では、元々FWだった経験を生かしての危機察知能力に優れていた。大学4年時には全国大学サッカー選手権に出場。ベスト4進出に貢献した。 次第にプロ再挑戦を目指すようになり、卒業後はアントレフェールトへ入団した。なお、弁護士資格は取得している(国内・海外両種)。 アントレフェールトではCMFとして初年から多く起用され、シーズン後半はヘルナンデスからレギュラーを奪取する活躍を見せている。 プレイスタイルの特徴は、無尽蔵のスタミナを生かしたハードワーク。また危機察知能力を生かした守備面での貢献だけでなく、攻撃時のオーバーラップ等切り替えの早さで中盤を取り仕切る。特にボール奪取能力はサシャーユ屈指のもので、激しいプレイを得意とする。攻撃時の思い切りの良いミドルシュートや大胆なポジショニングはアクセントとして心強い。 代表デビューは09年。08年シーズンのプレイが認められて選出されると、以降代表に欠かせない存在となった。代表でもCMFとしてプレイし、バランサーとして機能している。 リードン 00—01 2試合1得点 アントレフェールト 06— サシャーユ代表 ハインティア・キュリス Heintia Qlyze MF 25歳 1984年、サシャーユ西部のキュンベル生まれ。14歳で3部キュンベル・オルガメゾンFCに入団。小柄な体格の為なかなか試合に出場できなかったが、与えられたチャンスで結果を出し続けた。 16歳でサシャーユFCへ移籍すると、下部組織で才能が開花。ここではWGとしてピッチを走り回り、無尽蔵のスタミナで「ロケット」の愛称で親しまれた。02年にトップチームデビューを果たすなど、順調な成長を見せた。 しかし167cmと小柄な体格は成長せず、大柄な選手にポジションを奪われることが続くと、ベンチ外や下部組織降格を味わった。 その後、04年にトレンド・ファンへ移籍。ここでは位置を下げてMFでプレイし、圧倒的なボールコントロールとパスセンスでゴールを演出。06年には24試合で17アシストの記録を残した。 一方で、決定的な場面でも見方にパスを選択する等、決定力がやや弱いとされる。 06年、U-19以来となるA代表デビューを果たすと、攻撃的MFのポジションを獲得し、以降、初選出からの20試合連続先発出場記録を達成した。 だが、08年の代表対中国戦で右足首を骨折。4ヶ月間の長期離脱となった。 09年、復帰後は以前と変わらないプレイを見せ、10年WFC予選も主力として突破に貢献。クラブでもキャプテンをまかされる等、今後の活躍が期待される。
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by remarkabler | 2010-02-17 03:21

2009シーズン3

順位

チーム

勝点

試合

得点

失点

得失点

1

サシャーユ

 

34

26

4

4

67

25

+35

2

トリーニョ

 

34

24

4

6

75

35

+40

3

トレンド・ファン

 

34

 

 

 

66

 

 

4

エミールジュール

 

34

 

 

 

 

 

 

5

エルナント

 

34

 

 

 

 

 

 

6

テームス

 

34

 

 

 

 

 

 

7

ローゼン

 

34

 

 

 

 

 

 

8

アントレフェールト

 

34

 

 

 

 

 

 

9

ヘラルドセンゲン

 

34

 

 

 

 

 

 

10

バンザウェイ

 

34

 

 

 

 

 

 

11

ヴェクオン

 

34

 

 

 

 

 

 

12

デミンガム

 

34

 

 

 

 

 

 

13

ツール

 

34

 

 

 

 

 

 

14

エスペリオ

 

34

 

 

 

 

 

 

15

リードン

 

34

 

 

 

 

 

 

16

タリヌペイ

 

34

 

 

 

 

 

 

17

ワラルース

 

34

 

 

 

 

 

 

18

フェルナンドス

 

34

 

 

 

 

 

 

2

昇格チーム

 

34

 

 

 

 

 

 

1

ツーリオ・サルディ

 

34

 

 

 

 

 

 

2

ポンレッチェ

 

34

 

 

 

 

 

 


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by remarkabler | 2010-02-17 03:16

2009シーズン2

FCエスペリオ FC Esperio

 

昨季はまさかの残留争いで14位に沈んだエスペリオ。今季はアン・リーグのルネン(フランス)から元フランス代表MFペルエを獲得し、攻撃力アップで残留を狙う。

今季の目立った補強はペルエ以外に無く、昨季のレギュラーもそのまま残った。チームの中心となるのは26歳以上の中堅とベテランで、大崩れしないことが強みだ。

 

守護神のGKブレーマン(元サシャーユ代表)は今年39歳。昨季は終盤に正GKに復帰すると、残留を決定付けるスーパープレイを連発し代表復帰の声も根強い。

一方で、守備職人のMFケイラス(サシャーユ)が33歳で引退。代役は24歳のパーク(サシャーユ)か、今年U-19サシャーユ代表に選出された19MFカックリルか。

 

元々守備的布陣の戦術だったが、それが影響し、昨季のチーム総得点はリーグ17位の29得点。得点力不足の改善を目指し、久しぶりの大物ペルエの活躍に期待がかかる。

ペルエは、エラセナ(フランス)所属の0304年にはMFながらも19得点を記録し、代表にも選出された超攻撃的選手。05年のケガで近年は不調だが、今季は復活をかけて移籍してきた。年齢も30歳と円熟期に入り、キャンプもいい動きでチームを活性化。まだまだ連携は完璧ではないが、起点となってゴールにつなげるプレイが目立った。

 

戦術としては、これまでの442を徹底するなど大きな変化は無い。ボランチがサイドで駆け上がったり、逆にSMFが中央へ寄ったりと、走力でスペースを生み出していく戦術だ。

しかし、中堅とベテラン主体なだけに勢いの無くなる単調なプレイに終始することを懸念する声がフロントにはあり、シーズン中の若手補強もありえそうだ。

そんな中で、クラブユース出身で現在はセスーナ(スペイン2部)へレンタル移籍中のMFメルマーセイ(サシャーユ)の今夏復帰が有力。オールラウンドプレイヤーのメルマーセイは昨季、19歳にして15試合に出場すると2得点を挙げた。スペイン1部チームからのオファーもあっただけに、復帰が実現すれば新しい風を吹き込むことは間違いないだろう。

3年前に2部ハルエチコから移籍してきた25歳のMFノイーゼ(サシャーユ)のFW転向や、ブラジルのクラブへのレンタル移籍から復帰したMFドンボリ(サシャーユ)の成長など楽しみな要素は多い。

 

グランド監督(スペイン)は就任3年目の今季を勝負の年と位置づける。就任した1年目は10位、昨季は14位と順位を下げているだけに、今季が自身の進退にも影響するだろう。

近年はスペイン人監督が続いた影響で、スペイン流のショートパスを意識したポゼッションサッカーが伝統だが、限りある戦力でどこまで実践できるか期待がかかる。

 

2008年にはクラブ創立100周年を迎え、かつてはリーグ3連覇も達成した名門クラブだけに今年の成績は重要だ。

リードンFC Leedone FC

 

昇格組のリードンは最終戦に勝利し、15位で残留を決定。シーズン終盤に解雇されたエイシャン監督(サシャーユ)の後任が決まらず、コーチのハミルトン(スコットランド)が指揮を執ったが、今季はチームOBのクリントン氏(アメリカ)が監督に就任した。監督としての経験はあるが、大きな戦力補強の無かったチームをどう操るか手腕が期待される。

今季の至上命題も残留。守備的なチームなだけあり、確実に勝ち点を取る戦いが鍵だ。

 

苦しい経営事情もあったが、補強として入団したのは4人。降格したチェストンファンで控えだったGKカーツ(サシャーユ)と、サイドでスピードに乗るMFブルレノ(ブラジル)が入団し、ブラジル2部のセンテレオ・アストロからはMFカストロ(ブラジル)を獲得。ビッグネームとしては、リードンユース出身で「鉄人」の異名を持つMFパンテーラ(サシャーユ)がヴェクオンから10年ぶりに復帰した。

昨季14得点を挙げた20歳のFWチュエリ(サシャーユ)がフランスへ移籍し、クリントン監督はWG起用できる快足FWの獲得を望んでいた。結局獲得できず、CFタイプが並ぶ。ポストプレイヤーのクリス(サシャーユ)によるワントップが基本となりそうだ。

 

シーズン前には、4231の比較的攻撃重視の布陣で親善試合5試合を実施。サイド攻撃を徹底したこともあって、サシャーユから10の大金星を挙げたものの、残りの試合は4敗を喫している。サシャーユ戦ではサイドバックとボランチのポジションチェンジがうまく流れてクロスが多く上がったが、得点力不足は解消されず。最後の親善試合は4321の守備的布陣に戻している。新戦力であるブルレノとカストロの同時起用を基本としているが、シーズンで試合を重ねて修正していくほか無い。本来は守備からリズムを作っていくチームだけに、転換に苦しんでいる。

 

結局はこれまで通りに守備重視の戦術ではあるが、守備の戦力層は薄く、安心は出来ない。全員で守ってからのすばやいクロス攻撃を徹底することで、リスクの少ない試合運びが重要だ。堅守速攻と、1点を守りきるしぶとさを実現できれば、効果的に勝ち点を稼ぐことができ、残留がはっきりとしてくる。

 

キャプテンは昨季と同じくDFブリーマン(元ドイツ代表)。チーム内での統率力・影響力は抜群で、チーム一丸の意思統一が求められる。

また、6年前から1部チーム195試合連続フル出場中で、「鉄人」の異名を持つMFパンテーラが、DFニョンリ(元フランス代表、9097年にフランス、ギリシャリーグにかけて達成。217試合連続フル出場)の持つ世界記録更新なるか、注目だ。

ユースの生え抜き選手らの積極起用がキャンプ中には見られ、ブレイクする若手の登場でチームの勢いも変わってくるだろう。現段階では、17歳のMFスーラー(サシャーユ)と21歳のMFコーノ(サシャーユとクロアチアの二重国籍)がトップチーム入りしている。

タリヌペイ・リンベルースFC Tarinpay Lenverus FC

 

元サシャーユ代表でカリスマ的な人気を誇る、クラブOBのチークル(197786年、9701年。タリヌペイで現役引退。SYL通算162試合107得点、セリエA通算217試合151得点、代表通算87試合27得点)が監督に就任。強いカリスマ性で下位に沈むタリヌペイを復活させられるか期待がかかる。指導歴は無く、実力は未知数だ。

タリヌペイは昨季16位でシーズンを終え、23位のフローアローズと入れ替え戦に臨んだ。2戦合計00PK戦で勝利を手にいれ残留を決めただけに、今季の戦いも心許ない。

 

戦力面の状況では、FW不足が深刻。昨季はエースのオーコン(U21ナイジェリア代表)の1トップとMFシュトップ(アンゴラ)のやり繰りで過ごしたが、終盤での疲労は深刻だった。その影響か、オフにU21ナイジェリア代表合宿へ参加したオーコンは骨折し、全治5ヶ月の重症。開幕は間に合わない見通しだ。

 

ベルーム(トーゴ)やキンチャコ(マリ)といった期待のアフリカ出身の若手FWはほかのチームに引き抜かれ(ベルームはイングランドへ、キンチャコはエミールジュールへ移籍)、現在まで新しいFWは獲得できていない。キャンプでのFW登録はケガのオーコンと16歳のオカンガ・メンガル(トーゴ)だけで、財政的も苦しく攻撃陣の迫力不足は課題のままだ。放出して得た移籍金でアフリカの若手選手をリストアップすると同時に、確実性のあるサシャーユ人選手の獲得を目指している。現在はデミンガムで出番を得られない26FWグリマー(サシャーユ、06年に10得点)の名前が挙がっている。

 

チークル監督はキャンプで4231を用いた。1トップにはオカンガ・メンガルが入り、MFからもFW経験のあるシュトップやスライト(サシャーユ)、イレオ(元チュニジア代表)らが就いた。195センチを誇る18歳のGKマリリン(サシャーユ)を前線で起用するなど、転向も含めた柔軟な発想を発揮した。

キャンプで試された4231のフォーメーションを生かすためのサイドには経験豊かな選手が揃い、昨季までの守備的サッカーからの脱却を目指している。右MFにはベルッチ(サシャーユ)、左MFはクルマン(サシャーユ)と運動量の豊富な選手が張り、中央のファニーツィア(グアテマラ代表)も含めて内へ外へ、上へ下への動きが期待される。1トップのFW不足対策として、シュトップと新鋭MFウィルキンス(サシャーユ)が下がり気味にFWを務めるゼロトップ戦法もキャンプでは見られた。ニュースターの出現が、チームに良い影響を与えるだろう。

08年のユースカップでベスト8に入った世代の奮起にも期待だ。

キャンプでは高いユーティリティー性を選手に求めたことで、徐々に戦術に広がりが見られる。チークル監督が現役時代、ウドエシンク(イタリア)で経験した名将メリーニ監督(イタリア)に通じる「ポジションの変幻自在なサッカー」という方向性を実現することで、7年ぶりのAクラスを目指す。

CD ツーリオ・サルディ CD Tulio Soldis

 

5年ぶりに1部に復帰するツーリオ・サルディ。昨季は10連勝する破竹の勢いでライバルを蹴散らしたが、その勢いが続くか注目だ。名将フラッキオ監督(イタリア)のもとで着実に力をつけた名門が、台風の目になるかもしれない。

 

1970年代、代表選手を多く抱えた名門クラブも、90年代になると若手の育成に方向転換して多くの主力を放出。72年から77年の間で実に17人のレギュラーを失うと同時に若手育成も失敗し、下位に低迷。1998年にはチーム創立以来2度目の2部降格を経験した(1度目は193437年)。

直後にフラッキオ監督(チームOBで、かつてサシャーユを率いてリーグ優勝経験あり)を招へいし、堅実な強化に着手。効果的な補強と若手育成が功を奏し、0304年に2部で5位、0506年に4位と順位を上げてきた。そして昨季、フラッキオ体制8年目に念願の昇格決定の優勝を勝ち取ったのだ。

 

チームの基本戦術は、3バックにも変更する変則的な451。攻撃時にはバリエーションが多く、研究されるまでは苦労するチームが多いだろう。3人のボランチの前に2人が横に並んだ中盤は厚く、堅守速攻のカウンターで得点を狙う。2部でもこの戦術を徹底し、2部独走の状態でも変えなかった。昨季のチェストンファンがそうだったように、2部の絶対王者が攻撃的な姿勢のまま1部を戦うのは、危険が付きまとうからであり(5年ぶりに昇格した昨季は18位で降格。2部で爆発的な効果を上げた3133の超攻撃的スタイルを貫き、単調なシステムとレベルの差に泣いた)、1部でも継続するだろう。

 

中心となるのは、MFフランコ(スペイン)。U15U19で代表経験を持ち、豊富な運動量が持ち味。変則的な守備ラインでの的確なカバーリングや、両SBが極端に上がった際のSWなど、守備に貢献している。昨季は30試合でフル出場するなど、30歳にして衰えを見せない。今オフにはレンタルだったスペイン1部デッカリから完全移籍するなど、ますます中心選手としての期待がかかる。ドリブル突破や意外性のあるパスを供給して攻撃を司るトップ下のMFユーリー(サシャーユ)、ポストプレイの得意な1トップFWゼッキ(サシャーユ)を支える重要な役目だ。また、高い戦術理解能力でゲームのリズムを作ることを期待されて入団したのが、06W杯にも出場したMFカルニッチ(元クロアチア代表)。25歳と若いだけに、攻撃において今後の軸として期待されている。

FW1枠を充実させるため、ボックロース(サシャーユ)補強の噂もある。

 

降格するフェルナンドスから移籍した2人のFW、マリオ(サシャーユ)とションボリ(サシャーユ)にも注目だ。ともに34歳のベテランは、スーパーサブとしての起用が見込まれている。彼らは99年までツーリオ・サルディに所属しており、過去を知るキーマンとしての役割が期待される。開幕戦は昨季王者のサシャーユ。注目の一戦だ。

FCポンレッチェ・クリムセーラ FC Ponracha Cramsele

 

実に長い、1982年以来となる昇格を果たしたポンレッチェ。走力と柔軟性を兼ね備えた、久々にまとまりのあるチーム状態にあり、1部残留を目指すシーズンになる。

昨季、就任1年目の名将グラム監督(オランダ)は3133の攻撃サッカーを徹底し、見事に昇格を果たした。プレスの徹底ぶりによるセカンドボールの奪取能力は1部にも引けを取らない強さで、そこからの起点作りやサイド攻撃など、戦術の柔軟性に富んでいる。

 

1部での挑戦に向け、要となる中盤の底に昨季終盤までの不動のレギュラー、MFテルー(元サシャーユ代表、第31節のケガで全治9カ月)に代わり、「ロシアの闘犬」とも呼ばれたMFヤンベルスキ(元ロシア代表)を獲得。昨季までパラグアイリーグでプレイしていたが、ロシア代表監督経験もあるグラム監督自らが説得して入団させた選手だ。90年代のウダイセクタCC(イタリア)時代は、グラム監督の下で活躍し、リーグ優勝経験もある。激しいタックルとカバーリングに優れ、守備的位置はほとんどのポジションがこなせるため、流れの中からの飛び出し、前線やサイドに流れてゲームの動きを変える働きが期待される。

また、3年前までグラム監督が率いていたオランダのヘッテルセDVCからは、運動量の豊富なMFイ・ギョンボムとDFハン・ギヒョン(ともに韓国代表経験者)を獲得。即戦力として期待のかかる愛弟子たちの起用に注目だ。

 

しかし、新選手を獲得するばかりでなく、生え抜き選手の起用方法にも注目は集まっている。これまでCBとしては控えに甘んじていたDFメーラ(サシャーユ)をトップ下にコンバート。FWや前線のMFとして昨季7得点のミゲル(サシャーユ)をWBに下げ、逆にSBが本職だったDFホーミー(オランダ)をWGに起用している。

実際にキャンプでの練習試合ではメーラのポストプレイやミゲルの積極的な上りとミドルシュート、前線からの積極的なプレスが効果を挙げている。また、リベロのDFタリム・ヤドッケルス(サシャーユ)の積極的な攻撃参加も脅威となるだろう。

気がかりは、WBネレ(サシャーユ)が連戦の疲れで未だプレイの見通しが立たない所か。

 

レギュラーでCFを務めるFWアナン(サシャーユ)は昨季、2部で28得点を記録。3トップだけで合計53得点と、破壊力は高い。

また、唯一の代表経験者だったMFデルオカ(元サシャーユ代表)をレンタル移籍で放出して得た高額の資金があり、シーズン中での選手補強も考えられるだろう。

手薄なCMFを担うヤンベルスキのバックアップとして、00年シドニー五輪代表だったMFネキュメイラ(サシャーユ、ポルトガル2部でプレイ)との接触が報じられている。

 

昨季は就任1年目ながらも、既存の戦力で1部昇格を達成。今季はさらに新戦力を獲得し、緻密な戦術と的を射た交代策で、「魔術師」グラム監督の存在感がひと際目立っている。残留の第一目標以上に、上位進出も望めるかもしれない。

1888年、商業貿易で訪れたイングランド人らにより、サシャーユ西部のアントコールにサッカーが伝えられた。しかし、伝統的球技コルトの人気が圧倒的で、全国的に普及し始めたのは1890年代の終わりである。1891年、イングランド系移民やサシャーユ人通訳らにより、国内初のサッカークラブとしてアントコール・ナショナルFC(以下アントコールFC)が創立された。アントコールFCは確固たる組織ではなく、選手の多くが船乗りであった。人数がそろった時にだけ海外で試合を行っていたという。

 

1895年、イングランド帰りの銀行家ピーク・レックスグレマンにより、首都サシェリアに国内2つ目のクラブチーム、サシェリアFCが創立。その後はこの2クラブの非営利試合が細々と行われたものの、国民的人気獲得には至らなかった。

 

1900年、レックスグレマンが国内初となるトロフィーを賭けた営利目的の試合を開催(5-7でサシャーユFCが勝利)。すると、それを機に全国の都市を拠点にしたクラブが5つ相次いで誕生し、不定期に試合が開催されるようになる。1905年には国内初のカップ戦・デウィリス卿杯が行われた。その後、営利目的のカップ戦が定期的に開催されるようになり、競技人口は徐々に増加していった。

 

1907年、国内初となる政府公認のカップ戦・サシャーユ国王杯が参加10クラブで行われ、アントコールFCが優勝している。このカップ戦は観客の熱狂がすさまじく、コルト人気と相まって国民的スポーツの仲間入りを果たした。ギャンブル的要素の強かったコルトの規制強化に対する反発を避けたい政府がサッカーの普及に力を入れ始めたことが大きな要因である。

その後は、公式なカップ戦が活発に開催されるようになり、プロ化へ向けた機運が高まっていく。

 

1908年、ロンドン五輪のサッカー種目に国家代表を編成。しかし、すでにプロリーグの存在した各国には力及ばず、7位(8ヶ国中)に終わった。

 

そんな中、当時は領土拡張や植民地政策の好調もあって国家的な強化を望む声が急増。これを受け、1909年、サシャーユサッカーリーグはプロとしてスタートした。このとき参加していたのは7チームだった。

1911年にはサシェリアFCがイングランド、フランス遠征を行い、翌年には国家代表同士でも遠征している。

 

1915年ごろには、参加クラブが15に増加するものの、実力のある代表選手がアントコールFCとサシェリアFCに集中。2極化の時代を迎える。

1925年、ヨーロッパの各クラブが総当たりで戦うヨーロッパクラブカップが開催。アントコールFCとサシェリアFCが参加し、アントコールFCが準優勝。ヨーロッパでのサシャーユサッカーの地位を確立する。

1927年、国威発揚の意味合いを含め、フットボールクラブを意味する「FC」がサシャーユ語の「CD」へ変更するクラブが増加。

 

1930年代前半は、多くのクラブが国外遠征を行い、植民地化していた北アフリカの一部にも原住民も参加するクラブができるなど活発な交流が見られた。

1934年、

1936年には

 

この時代、国策に倣い環地中海各国による多国籍リーグ構想が出来上がる。

 

1940年、戦争の本格化により外国クラブとの対戦が中止。IFFAはサシャーユの無期限対外試合禁止処分を決める。

1941年、リーグ中断。

1945年、終戦。正確には、1946年の1月まで北部ではゲリラ戦闘が行われていた。

1946年、ゲリラの全面的終戦宣言を受け、IFFAはサシャーユの除名を決定。

1947年、復員した元選手たちがリーグ再開を申請するものの、占領していた連合軍は不認可。

1949年、粘り強い交渉にも関わらず再開の目途は立たず、イギリスやイタリアのクラブが遠征のためサシャーユの競技施設を使用するようになる。IFFAへは復帰。

1950年、占領はなおも続き、リーグ再開を待たずして多くの選手が国外リーグへ流出するようになっていった(あくまで国家・クラブの対外試合禁止であり、個人は拘束されていない)。この間、選手のほとんどは国外でプロ生活を目指した。

 

1952年、イタリアのパリムラーゼに入団したフレデリック・マンシーが、サシャーユ人として初めて国外リーグで優勝し、同時にヨーロッパクラブカップでも優勝を経験する。

 

1954年、IFFAはサシャーユの処分の終了を決める。同年、連合軍はリーグ再開を認める。

1955年に正式にシーズンを開幕させ、全国から16クラブが参加を表明。110クラブ、2部が6クラブで開始。

1957年には1部のクラブ数が15に、2部が10に増加。

 

しかし、50年代は多くの選手が国外で主力として活躍していたため、国内復帰する例は少なく、決して高いレベルとは言えなかった。1956年に17年ぶりに開催された代表選では、スペインに70で負けている。

55年にはEFA主催の大会に復帰したが、全クラブが予選敗退している。

1961年に、50年代のイタリアで活躍したケラー・ミラーズが国内復帰を表明。この時期から、全盛期を過ぎ始めた選手たちが国内へ積極的に復帰し始める。

 

2部所属18クラブ

 


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by remarkabler | 2010-02-17 03:14

2009シーズン

サシャーユFC Saysiel FC 終盤の大逆転で優勝を決め、リーグ戦連覇とカップ戦との2冠を達成したサシャーユ。主力の多くが残った今季は、序盤から安定した戦いが期待できそうだ。シミズ監督(サシャーユ)体制も4年目に入り、念願のECL優勝も目指せる位置にいるだろう。前任者による内紛からチームを立て直し、スター軍団を束ねる就任4年目の今季も盤石の態勢で臨む。 各国代表選手10人を抱えるチームは、ほとんど昨季と変わらない。FWのアルメロ(アルゼンチン代表)とフリオ(ガーナ代表)の2トップに、MFのA.メイヤー(フランス代表)、クライス(サシャーユ代表)、ジェスキ(サシャーユ)、クルミン(サシャーユ)、そしてサイドバックのグリー(元アイルランド代表)とミゲル(元サシャーユ代表)、CBには、ともに190センチを超える長身のアルマンテ(ポルトガル代表)とミーン(元サシャーユ代表)、GKはカンテ(スペイン)と、戦力は潤沢だ。 ただし、昨季中盤までボランチを務めたMFネイナメイズン(サシャーユ)が引退し、出場機会を増やしつつあったOMFベゼンダ(サシャーユ)がドイツへ移籍した点が気になる。 チームの戦術は、これまで通りの4-2-3-1。ST気味のアルメロとスピードのあるフリオが前線をかく乱し、そこを追い越していく選手も多い。伝統の、中盤でのパス回しから縦への早い攻撃は健在だ。攻撃のスイッチを入れられる選手も多い。 流動的に変化する一瞬の動きは統一されており、2年連続リーグ最小失点の守備陣も磐石。昨季終盤のような粘り強さが序盤から見られれば、独走の可能性すらある。昨季はベスト16で散ったECLでも、3度目の優勝を達成できるか。 この選手たちの控えも戦力は豊富で元イングランド代表のMFブーチや、MFジョンソン(サシャーユ)らがいる。17歳の新星FWジョン(U-20サシャーユ代表)とSBメーラ(サシャーユ)にも注目だ。ジョンは昨季、16歳ながら初出場すると、10試合で4得点。抜群の得点感覚で、アルゼンチン復帰が噂されるアルメロの後継になりえる存在だ。 同い年のメーラは、精度の高いクロスは大きな武器で、39歳のミゲルとレギュラー争いを繰り広げそうだ。ジョンは親善試合3試合に出場して1得点するなど、開幕先発もありえる。また、18歳のFWアイチョア(メキシコ)にも期待だ。 そして、大黒柱ミーンの動向に注目が集まる。現役にしてクラブの永久欠番が決まった「17」を背負う歴史的選手も、今年で40歳。リーグ3連覇の偉業やECL2度の優勝の瞬間にピッチにいた、ただ一人の現役選手でもある。90、98、02、06年のW杯に出場し、サシャーユサッカー史に残る選手だ。今季は、アメリカで世界クラブチャンピオンズリーグ(WCC)が開催される。ミーンは、この大会を最後に現役引退がささやかれている。クラブが唯一手にしていない、世界一の称号。大会はシーズン終了後だが、今季のサシャーユには不可能とは言えない目標だろう。 FCトレンド・ファン FC Trend-fan 昨季は2年連続の2位に終わっただけでなく、終盤戦に1位から転落してサシャーユに逆転優勝をさらわれるという屈辱を味わった。サシャーユが素晴らしい戦いをしたとは言え、トレンド・ファンも終盤に戦い方には若干の息切れが見えた。今季は選手のスタミナや疲労を考慮した戦いが鍵だろう。 昨季の主力のほとんどが残留し、連携や戦力面で大きな心配は無い。昨季、圧倒的な強さで得点王に輝いたFWギマラエス(スペイン代表)など、3トップのコンディションは万全のようだ。唯一、かつて「トレンドの星」と呼ばれたFWイニヤー(元サシャーユ代表)が志願してテームスへ移籍したが、近年の不調を考えれば大事ではないだろう(昨季17試合4得点)。多くのポジションのカバーできるMFモンク(フランス代表)、MFベミアン(セルビア代表)、MFキュリス(サシャーユ代表)、MFビーシーア(U-23サシャーユ代表)らは安定感が抜群で、さらなる活躍が期待できる。 しかし、それだけの戦力がありながら2位転落の要因は、固定しすぎたスタメンだ。リーグ戦で同じメンバーが先発出場したのは29試合で、残り5試合も戦術的なものではなく、ケガによるものだ。高いチームワークが保てるが、多くのカップ戦も経ていく中でやはりスタミナ切れは顕著だった。3年連続出場を果たしたECLではクラブ史上最高のベスト8進出を果たしたものの、その後のリーグ戦での勢いの低下は否めない。 逆転優勝を許して解任されたベナール監督(サシャーユ)に代わり、メッケ監督(フランス)が就任。キャンプの方針をスタミナ強化にあてると同時に、控え選手の積極起用に取り組んでいる。基本となる4-1-2-3(4-1-4-1)の攻撃的フォーメーションは崩さないだけに、試合中の判断で複数のポジションをカバーできる選手が重用されそうだ。 90年代初頭から一貫している、低い位置からの圧倒的な早さを誇るカウンター攻撃は迫力満載。WGとSBの自由な攻撃の威力は、SBデルーマ(サシャーユ)の昨季7得点からもわかるだろう。その裏をカバーするモンクとの連携もスムーズで、不安定さは無い。 また、U-23ルーマニア代表のMFハンケリーやU-19ブルガリア代表経験のあるDFポクトといった、昨季は控えに回ることが多かった東欧諸国の若手選手がキャンプで活躍しており、楽しみな要素だ。 2位転落のもう一つの要因は勝負弱さ。リーグ最多得点の攻撃に比べ、守備ではギリギリになって失点するシーンが多く見られた。スピード系FWを苦手とする守備陣の調整が鍵だろう。結果11分けを記録し、勝ち点の多くを逃した。前任者の築いた豊富な戦力を受け継ぎ、一部で「戦術なき戦術」とまで揶揄されたベナール監督体制からの脱却を計るメッケ監督の手腕に期待だ。キャンプでは思い切った選手交代が見られ、楽しみな点である。5年ぶりの優勝も可能だ。 トリーニョCD Tuorinone CD 今季のトリーニョは期待できそう「だった」。 鋭いカウンターでカップ戦を制した昨季の中心、FWシウバ(ブラジル)、MFデ・マルコ(元U−23イタリア代表)、DFフェリッティ(イタリア)の残留に加え、ユースから昇格したFWフリオとMFジェイミン(ともにサシャーユ)、昨年末に移籍してきた元アルゼンチン代表FWベルキーオのケガからの復帰とMFデマン(チリ)、さらには移籍金無しで獲得したU-22ポルトガル代表MFミーゴ。ベテランと即戦力、若手の融合がうまくいけば、今季も「トップ3」として2年ぶりの優勝の可能性もあった。 しかし、キャンプ直前にポゼッションサッカーへの頑な転向を図るベロッテ監督(サシャーユ)とジミンGM(スペイン)が解任され、00年から2年間チームを率いたOBのクローマン(ドイツ)が就任。この時期の交代だけあり、成熟した戦術は期待できそうにない。さらに言えば、クローマン監督時代のトリーニョはリーグ中位から下位をうろついた過去があり、個性の強い新戦力をまとめ上げられるのかは疑問が残る。 昨季まで、基本は4-4-1-1で引いて守るカウンター戦術を多用しているため、攻撃力溢れる選手を生かし切れるかどうかが開幕前から疑問視されている。 ただ、新戦力への期待は高いままだ。特にベルキーオは昨季をケガで棒に振ったが、開幕前の親善試合(対アルキントン)ではいい動きを見せハットトリックを達成した。 また、21歳の新星ミーゴはすでにA代表経験も持つ逸材。MFが本職ながら、高い順応性からGK以外のほとんどのポジションをこなせる。ケガしがちなフェリッティとDFレーマンのカバーが期待されている。チームは左MF構想があるようで、レギュラーになるのは確定的だろう。デミンガムとの親善試合では豊富な運動量で力強いドリブル突破を見せていた。今季もECLに参戦するだけに、長い戦いの中で貴重な柱となる選手だ。 昨季は中盤戦から上位に進出すると、それ以来低迷することは無かった。その戦い方をもう一度再現できれば、上位は狙えるだけの戦力ではある。しかし、内紛の噂が絶えないだけに、内部から崩壊していくのではないかという見方も根強い。35歳のベテランMFトンキヤ(ブラジル)がクウェートのファジ・イリヤへ移籍し、主力のMFクリス(イングランド)がハーマニアンズ(イングランド)への、DFミラー(ウェールズ)がフローザ・ベルスガー(ドイツ)への移籍志望を口にするなど、見通しは安心できない。 また、ECL予備選最終予選ではカークラーFC(イングランド)と同組になるなど、厳しい戦いが強いられそうだ。 トリーニョがこれほど多くの選手を獲得したのは、3年ぶり。本来は育成に定評があるチームだけに、生え抜き選手と移籍してきた選手によるチームワーク、融合が鍵になりそうだ。1年ぶりの参戦となるECLは予選から。豊富な戦力で本戦出場を狙う。 ミエールジュール Emire Jure 昨季はそれまでの10位から大幅に上昇して4位になったエミールジュール。今季も監督と選手に大幅な変化はなく、安定した試合運びで更なる上位を狙う。 就任3年目のオビニア監督(サシャーユ)は、今季の目標を「ECC出場圏内」としている。出場権が与えられるのは、予選からの出場を含め3位までだが、昨季3位と4位の勝ち点差は無かった(得失点差)。戦力と柔軟な采配は昨季から健在し、十分に狙える位置だろう。 昨季のサシャーユ人得点王、FWフルエータ(サシャーユ代表)は今季も好調を維持していて、先月末に行われた代表の親善試合(対スペイン)では1得点2アシストも記録している。昨季、彗星の如く現れてブレイクした21歳の勢いはそのままだ。 昨季スーパーサブとして活躍したFWボルチェロッティ(イタリア)がエルナントに移籍したが、FWにはベテランのレムー(元ノルウェー代表)らがいて心配は薄い。ビッグネームは多くないが、若い選手を含め育て上げた選手層が厚く、各ポジションにバックアッパーがいることも安心だろう。昨季の4位に与えられたECC出場権などの過密日程にも十分に対応が期待できる。 怪我から復帰した精神的支柱DFフェルテマーク(オランダ)の率いる守備陣形も堅い。若干の足元の技術に不安は残るが、190センチ以上が並ぶCBは屈強だ。 エミールジュールには今季、日本代表MF岡山圭介が移籍した。持ち味である外国人選手に対しても当たり負けのしないボディバランスと縦横への仕掛けと突破、スピードのあるクロスをいかんなく発揮できれば、サイドでの定位置確保も十分可能だ。 戦力ダウンとしては、移籍を希望しながらもバーハンダFC(イングランド)への移籍が不調に終わった、レギュラーMFベローン(フランス)の今季途中の退団が濃厚。だが、ボランチのMFバートン(イングランド)が一列上がれば大きな戦力ダウンではないだろう。 現在は4-3-1-2だが、バートンの上がりによって守備陣の陣形も変わり、より攻撃的な4-2-3-1に変更する時間帯が、キャンプでは多く見られた。ボールを散らす技術に長けたバートンのプレイによって、昨季までは左サイドに偏りがちだった攻撃もピッチ全体を活用。新たな一面の発見によって、伝統のサイド攻撃による古豪復活なるか、注目だろう。4年目の若手で、右サイドでの起用が濃厚なMFチュミン(サシャーユ)の奮起に期待だ。 エミールジュールは意図を持った的確なスカウトで定評のあるチームで、世界各国にユース組織を設立し若い人材の確保に余念が無い。今オフも岡山や、ユース出身FWキンチャコ(マリ)をタリヌペイから、ポルトガルからは21歳のMFキツと、モンテネグロ出身の20歳GKクロイゼ、ホンジュラスから19歳のFWソルゾを入団させた。こうした中から新しいスターが登場すれば、今季も勢いに乗るかもしれない。上位クラブをいかに叩けるかが鍵だろう。昨季OMFでブレイクしたブヌ(マリ、23歳)の再現はなるか。 エルナントFC Ernarmt FC 01年から2連覇し、昨季も優勝候補ながらも2年連続の5位を喫したエルナント。監督が短期間で何度も変わるなど、低迷していた近年を取り戻すかのように、今季は総額120億円の予算をつぎ込んで大量11選手を獲得した。ECCも含め、優勝を目指す。 サシャーユ代表経験者のMFデルオカ(ポンレッチェからレンタル移籍)とDFアイトン(サシャーユ、センチメール(2部))、FWボルチェロッティ(イタリア、ミエールジュール)に加え、MFエミン(サシャーユ)とDFアクソン(サシャーユ)をテームスから獲得。国外からはDFグレイディトス(ギリシャ、AZKベルキオン)、DFゼンドイセン(スウェーデン、ポールセンキFC)、FWハポン(スペイン、2部アントレミーゴ)、FWヘドリック(スペイン、クールマルス)、MFエルエリ(フランス、ヴォーエ)と、各国から即戦力も獲得した。依然として、定位置争いは激しくなることが予想される。 特に、3トップのFWは昨季のチーム得点王ジュルー(ブラジル、17得点)と若手のシュベルスタイン(ドイツ、7得点)、ボックロース(サシャーユ、5得点)の中にボルチェロッティ(11得点)とエミン(9得点)、ハポン(24得点)、ヘドリック(9得点)が加わる。 実績のある選手ばかりが集まったが、今季から指揮を執るフェリーニ監督(ブラジル)は「各選手には不満を溜めさせない起用をする」と明言している。 しかし、多くの主力を各国から引き抜いたことで、キャプテンを新加入のヘドリックに奪われたベテラン、ボックロースは不満を露わにして問題に。キャンプ終了前の会見でシーズン途中の移籍を窺わせる発言をしてキャンプ帯同を禁止され、事実上の戦力外通告を受け、退団が決定的だ。全員がベンチ入りするのも難しい。こうしたフェリーニ監督のやり方に反発する生え抜き選手は多いとみられ、チーム内の内紛をいかに抑えていくかが上位進出の鍵となるだろう。ボックロースはサポーター人気も高いだけに、どう決着するだろうか。選手の不満が爆発すれば、チームは内部から崩壊して下位転落もあり得る。 かつては中位下位が定位置だったこのチームも、90年代に現オーナーが就任してからは的確な補強を敢行。短期のカップ戦では強さを見せるが、多国籍化し選手の入れ替わりが激しいため、リーグでは安定した戦い方が見えてこないのがやや不安ではある。 現在の予想フォーメーションは3-3-1-3。豊富な前線に入りきれない戦力を中盤以降にも配置する超攻撃的システムか、あくまでも守備は3バックか。守備面での不用意なプレイが目につくが、あえてDFを数多く獲得しなかった監督の手腕に注目だ。選手の入れ替わりで結果的に世代交代したが、成功かどうかは未だ判断できない。 しかし、やはりリーグ屈指の攻撃力は驚異的。昨季はちぐはぐな戦略でECCをグループリーグで敗退したが、今季はリーグ戦、ECCを含めてリベンジしたいところだ。 CDテームス CD Terms テームスは、生え抜き選手が多くチームを去った。昨季6位ながらも、主力を失った中で難しいシーズンになりそうだ。 チーム一筋10年のキャプテン、MFエミン(サシャーユ)が昨年末に突然の移籍。金満オーナーの選手補強構想に反発したものと言われ、続けざまに移籍が起こった。昨季のレギュラーから6人が移籍という異常事態に陥っている。 特に、昨季のチーム得点の半数以上をたたき出したエミンとFWルースアシュール(トルコ、スペインのアルファへ移籍)の移籍は痛いだろう。両者ともユース出身でサポーター人気もあり、28歳と今後も見込めただけあって、この損失をどう埋めるかが見所だった。 結局、就任5年目のエリック監督(サシャーユ)は新戦力を多く獲得せず、基本的には今ある戦力での戦いを決めた。オーナーは内紛を鎮めるために大型補強を断念したが、結果は移籍の続発。今季は厳しい選手のやりくりが待っていそうだ。 唯一といってもいい注目の補強は、元サシャーユ代表で抜群の存在感を持つ、FWイニヤー。近年は精神的な不調から結果が出なかったが、復活を賭けて自身が象徴だったチームからの移籍を志願した。昨季は4ゴールに終わったが、この新戦力にサポーターは好意的な見方が多いようだ。MFも対応でき、エミンのいたポジションでの起用が濃厚だ。 基本システムは4-1-2-3だが、ウイングが中盤に張るため4-1-4-1の時間帯が長い。得意とする3トップによる攻撃は連携面で不安が残るが、慣れてくる中盤以降が勝負だろう。ゴール前に固めた守備ブロックからダイレクトにつなぐカウンターの洗練が課題だ。 奮起が期待されるのは、FWボウス(イングランド)と、アンカーを期待されるMFアンサントン(サシャーユ)。伝説的スター選手だが近年はケガに苦しんでいる。昨季は7試合の出場ながら4ゴールを奪い、復調を予感させている。ユースで実力を磨いたアンサントンはサシャーユへのレンタル移籍から復帰。昨季はトップチームでも11試合に出場し、2ゴールを記録している。昨季までウイングだったアンサントンは、ベテランのDMFパーカー(イングランド)とシーズン中に競合しながらテストされそうだ。 テームスはユース組織の育成力に定評があり、ユースカップでは3年前に準優勝もしている。そのときのユースの主力がそろそろトップへ昇格する時期であり、自慢の若い力の活躍が、チームの成績には影響するだろう。特に、78年WFCで3位躍進の原動力となった名ストライカー、オズワルド・タリードナストベリゼの息子、ラン(サシャーユ)が今年で19歳。昨季はユースで24試合19得点と大活躍しており、FW不足を解消する切り札になる可能性がある。U-20サシャーユ代表経験もあり、楽しみな存在だ。 しかし、確実に計算できる攻撃陣の迫力不足と連携面での不安は否めない。また、守備の要だった名DFアクソン(サシャーユ)も移籍し、ECCを含めて厳しい戦いが続きそうだ。 ローゼン・アントコールFC Rowzene Anetcurle FC 03年の昇格以来、最高の7位でシーズンを終えたローゼン。多くの主力が残留し、リーグトップ屈指の連携・組織戦術で、今季も中位から上位、ECC参加の出来る6位以上を狙う。 チームを指揮するのは3年目のブロッキ監督(イタリア)。規律と自由を使い分ける名将の采配は、サシャーユリーグに慣れた昨年からますますの冴えを見せる。 戦術遂行を徹底し、組織化されたシステムは相手によって臆することは無い。強豪相手にも基本の4-4-2を崩さず、前線からの圧倒的に激しいプレスを徹底している。その結果が昨季のリーグ対サシャーユFC戦2勝無敗となっているのだろう。取りこぼし無くすため、1点を守りきる全員守備の徹底が課題だ。 ただし、激しいプレスによる体力面の消費は顕著。試合途中での交代でも戦力ダウンを起こさないだけの選手層の充実と采配にも期待がかかる。 チームの中心になるのは、CMFとDMFをこなすエンドー(サシャーユ)。パスセンスに優れ、DFの背後を抜くスルーパスや意表を突いたループパス、フェイントをかけたパスなど変幻自在だ。FKも正確で、昨季のカップ戦では3試合で3得点をFKから記録した。今季もキャプテンとして、チームを牽引する役割を担うだろう。 そのパスを受けるのが、FWのキオレ(アルゼンチン、昨季4得点)とヘク(ベトナム代表、昨季7得点)。キオレのポストプレイと強烈なヘッドは健在で、セカンドトップ気味に動き回るヘクの走力で得点を稼ぐ。34歳で衰えの目立つベテラン、セガッティーヌ(フランス)との併用が目立ったキオレは奮起が期待される。一方のヘクは、今年開催されるW杯アジア3次予選へのベトナム代表召集が確実で、この穴を埋める控え選手に注目が集まる。 その控えとしては前述のセガッティーヌに加え、昨年の高校選手権で優勝したローゼン高校のエース、FWバンバルスキ(サシャーユ)が期待される。地元ローゼン出身の18歳は、U-22、U-20サシャーユ代表でもある。先月行われた五輪壮行試合での対セルビア戦では途中出場ながら、ロスタイムにミドルシュートを決めて同点に追いつく活躍を見せた。キャンプでは故障気味だったヘクのポジションに入ることが多かったが、MFもこなせて大ブレイクも期待できる逸材だ。 2部のフローアローズから獲得したMFアルナント(サシャーユ)や、同じく2部サンイト・レジーナから移籍したMFタリスタン(サシャーユ)らにも期待がかかる。 昨季貴重なサブとして活躍したFWエドワード(イングランド、昨季5得点)とDFカシュー(ベルギー、昨季17試合出場)が、レンタル移籍からヘラルドセンゲンへ復帰。また骨折で長期離脱中の主力DFペリオス(サシャーユ)やスーパーサブMFグーガズ・セメルタ(サシャーユ)らの離脱を、復帰までの間に現有戦力でどれだけ埋められるか。控え選手と先発の差をケアしていく戦いが上手くいけば、上位進出も可能だろう。 FC アントレフェールト FC Antrefarlt 昨季は昇格組ながらもリーグ戦8位、カップ戦準優勝と強烈な印象を残したアントレフェールト。今季もギブソン監督(サシャーユ)の元で、生え抜き選手を中心として更なる飛躍を目指す。守備を厚くする戦術で、戦力のやり繰りがうまくいけば更なる躍進も可能だ。 攻撃の要になるのは、MFバグラントス(トルコ代表)。昨季はリーグ戦、カップ戦に全試合出場し、14ゴール10アシストと大車輪の活躍。シーズン終盤から取り組んだシュート練習の成果で決定力も飛躍的に上がり、キャンプでも唯一、全試合レギュラー組で出場した。25歳、チーム6年目の今季は、引退したMFヘルナンデス(ポルトガル、DFも高いレベルでこなした)からキャプテンも受け継ぎ、チームの核となるのは間違いないだろう。 一方、3バックの最終ラインで守備を統率するのがDFメルテス(サシャーユ代表)。199センチの長身で守りきる。最終ラインの3人(メルテス、ヘラクレス、シンドラ)のトリオは5年目を迎え、抜群のコンビネーションを見せている。昨季はシーズン失点数がリーグ2位(31失点)と少なく、メルテスが代表に初招集されるなど、安定感は定評がある。今季も3-4-1-2の基本布陣は変更しない構えだ。 守備から攻撃への切り替えの早さを武器に躍進しただけに、継続で更なる高みを目指す。 ブレイクが期待できそうなのが、3年目のMFポン(サシャーユ)。高校卒業後の00年から2年間はリードンにFWとして所属し、2試合1ゴールを記録したが、解雇された経歴を持つ。その後は大学へ進学して結果を出し、06年にアントレフェールトへ入団した。 昨季はヘルナンデスの控えボランチとして20試合に出場。ヘルナンデスはポンの活躍で引退を決意したとも言われるほどのプレイを見せ、今季はレギュラーで期待されている。特徴は、攻守の切り替えの巧さとセカンドボール奪取。豊富なスタミナで攻撃時のオーバーラップや、守備のカバーリングが光る。プレイ精度を高めれば、代表入りも可能だろう。 このように、二年連続の残留はもちろん、優勝すらも狙うアントレフェールト。しかし、昨季の躍進で参加権を得たECC(予選から)の過密日程を、どう戦うかに不安が残る。 参加するのは大きな名誉だが、それぞれ決勝まで進んだと考えての試合数は、単純計算で昨季の2倍以上になる。レギュラークラスの生え抜き選手の多くは若手だが、その分経験の少なさ、メンバーを固定する戦術がどう影響するだろうか。 また、昇格したことで注目を浴び、各国代表に選出される選手や、移籍の噂が出る選手も増加した。特にバグラントスはサシャーユやベジュクテス(トルコ)が関心を持つという。 期待の若手が多いだけに、ベテランや控えがその穴をどう埋めるかが鍵になりそうだ。 また、就任5年目で昇格と残留、8位躍進を達成したギブソン監督の去就も安定しない。母方の母国で、自身も二重国籍を持つイングランド代表監督就任の噂が聞かれる一方、フェリッキオも就任を打診したとの情報もあり、今後の動向が注目される。 バンザウェイ・ヘンデリッターズ Banthway Hendelitters スペインの名将・カストロ氏を招いた今季、バンザウェイの動きは適格だ。ケガ人を放出し、体の強い選手を補強。ベテランに加え、中堅、若手のバランスの取れたトップチームを構築し、トレーニングコーチにはアメリカからプロを呼んだ。 選手には共通認識が出来上がり、監督へは好意的な意見ばかりだ。カストロ監督の人身掌握術はすばらしい。 バンザウェイにはこれまで、代表選手を抱えながらもリーグ中位下位に停滞し、ECLなどを目指した多くの主力を失ってきた経験がある。そんな中、昨季まで3年間指揮したファン・ウーロ監督(オランダ)の下で9位まで上昇。これは最近5シーズンで最も高い順位で、健康上の理由から退任した前監督の成績以上のものが期待される。 実際に、オフに開かれた3カ国カップ(サシャーユ(バンザウェイ)、イングランド(ニードル)、日本(レポータス)の提携クラブの総当りカップ戦)では2戦全勝で優勝。昨季イングランドで4位のニードル相手には3-1で勝利し、クラブとして21年ぶりのタイトルを獲得した。クラブの雰囲気は順調な仕上がりだ。 強い個性を好むカストロ監督は、7年目のMFトリオレス(サシャーユ代表)とMFチャム(サシャーユとペルーの二重国籍)を中心に固定。この2人の2ボランチから組み立てる攻撃をサポートする役割として中盤の人数を厚くし、4-5-1が基本フォーメーションだ。サイド攻撃を用い、ポジションチェンジや囮の動きを多用する。 トリオレスは、父親に元サシャーユ代表の名DFを持ち、バンザウェイの至宝と呼ばれる逸材。172センチと小柄ながら、テクニックの高さとスピードあるドリブルからの推進力が持ち味。25歳にして代表37試合に出場する優れた選手だ。代表では左サイドバックでの出場が多いが、クラブではボランチとして5シーズンをレギュラーとして過ごしている(昨季はケガで出場は少ない)。 もう一人の中心、チャムは圧倒的なボディバランスでキープしてからのスルーパスが武器。ピッチを見渡す広い視野で攻撃の中心だ。未だ代表歴は無く22歳と若いだけあって、海外クラブからのオファーも多いが、二重国籍を持つサシャーユ帰化も考えているという。 厚い中盤には他に、サイドにMFミシュー(フランス)とMFカミーラ(ポーランド代表)、トップ下にシャンプー(サシャーユ)が揃い、攻撃と守備の両面で機能している。23歳のコロンビア人CMFペドリネスも入団し、戦力は整っていると言えるだろう。 1トップにはベテランのFWジャーキー(サシャーユ代表)で、197センチの長身でのポストプレイと強烈な左足シュートは大きな脅威だ。 就任会見で「今季の第一目標は上位。その中にはもちろん優勝も考慮している」と語ったカストロ監督の下、ダークホースになりえるかもしれない。 NEZヘラルドセンゲンFC NEZ Herardzengene FC 1958年、北欧系移民によって創立されたクラブも今年で50周年。節目となる今季の成績に注目が集まる。 ボランチのMFルイス(サシャーユ)が組み立てるリズムに合わせるFW陣の活躍は、今季の飛躍に欠かせない。FWベランベローション(オーストラリア代表)とベルニッチ(モンテネグロ代表)、セリーマン(サシャーユ)が張る3トップは今季も健在で、攻撃多彩だ。 特に、ベランベローションの活躍には期待大。オフにはミラス(スペイン)やセーゾ(スウェーデン)からのオファーを固辞して残留したエースが、二年連続の二桁得点を目指す。特に、上位チームとの試合での強さは指折り。昨季も、1位から5位までのチームにそれぞれ得点して引き分けに持ち込む試合が多かった。泥臭いプレイでがむしゃらに走る姿はサポーター人気も高く、期待できうだ。 ヘラルドセンゲンへは、今季からDF大中徳弘(日本代表)が加入。昨季、代表の左サイドバックで出場したコンチネンタル・カップでの活躍が認められて入団で、期待度は高い。 昨季の左SBは20歳のセーゲルト(オランダ)。クロスの精度など攻撃面での物足りなさは残るが、本来は大柄なCB。カバーリングなど献身的な守備は魅力的で、攻撃的な大中とのレギュラー争いは必至。右SBにはキャプテンのクーダー(サシャーユ)が確定的で、大中にとっては厳しいシーズンになりそうだ。キャンプの最終練習試合(2部チームとの試合)に先発したのは大中で良いクロスも見せただけあって、開幕戦では誰を起用するか。 今季も、柔軟な戦術変更で相手を驚かせ続けてきたメッカス監督(サシャーユ)の采配に注目だ。昨季終盤の7連勝など、基本の4-3-3は決まっているが、試合中のフォーメーション変更で今季も「マジック」は健在。攻撃的な基本フォーメーションから超守備的な5-4-1までバリエーション豊かな采配にも注目だ。4-3-3ではFWを楔としたMFの動きだしを徹底する一方、守備陣は深い位置に留まる。CBのアリッキ(サシャーユ)は長身、ポルワカ(イタリア)は足元の技術が高く、中盤にあえて空けたスペースをしっかりとカバーする。唯一、快速FWのカウンターへの対応が懸念材料だ。GKデュル(サシャーユ)は35歳、昨年末の右足手術以来、敏捷性の衰えが激しい。読みと判断でカバーできるか。 また、イラン代表のMFアウコレイムが不安材料だ。昨季は攻撃な位置で32試合に出場したが、カップ戦や代表戦の連戦でほとんどオフが無い状態で始動。疲労の影響が気になる。 自らの戦術に当てはまらない選手は、例え良いプレイをしていても交代させるときに無情なメッカス監督だが、その成果があって、リーグでは上位中位に安定した順位を維持している(昨季は9位に沈んだが)。ローゼンからFWエドワード(イングランド)とDFカシュー(ベルギー)が復帰したことも、プラス材料となるだろう。今季は中位下位からの脱却と強豪への仲間入りを達成できるか、注目だ。 CDヴェクオン・クールベール CD Veckone Couleberlue 昨季は最後まで歯車がかみ合わず、11位に沈んだヴェクオン。今季はイブラッチ監督(サシャーユ)を解任し、08年北京五輪でU—23代表を率いたペリエミューレ監督(サシャーユ)を招へいして上位進出を狙う。「鉄人」MFパンテーラ(サシャーユ)が移籍したが、期待できそうな若手が多い。堅守に裏付けされ、03年に成し遂げた優勝の再現はなるか。 チームがうまく働かなかった原因は、多くのケガ人だ。キャプテンのMFメルケーレ(サシャーユ)やDFエウカメケ(ドイツ)の体調は万全とはいえないままシーズンは終了し、昨季新加入だったFWブリッカ(ブラジル)もアキレス腱を断裂する大ケガで長期離脱。ブリッカは終盤に復帰するも、退団が決定した。こうしたチーム事情の中で、監督の交代の影響もあって深刻な連係不足に陥り攻撃・守備面ともに機能したとは言い難い。 今季はペリエミューレ新監督の手腕に期待がかかる。 注目は、やはりケガから復帰のメルケーレ。攻撃の軸としてキャンプでも実戦練習に参加し、軽快な動きを見せた。体調や連携が万全なら、アシスト王に輝いた02-03年に届くような活躍も期待できそうだ。 退団したブリッカの代わりに加入したのは、同じくブラジル出身の若手FWセインケ。かつてU-22ブラジル代表の経験があり、コペ・ルンカーレス(環大西洋諸国が参加するU-23世代の国際大会)では得点ランク3位の4得点を挙げ、優勝に導いた。ボディバランスとシュート技術に定評があり、ブラジルの強豪センカナインホールのスーパーサブとしてプレイしていた。レギュラーが確定的な今季は、もう一人のFWクライン(サシャーユ)とのコンビに期待がかかる。 また、34歳のMFセイタカン(サシャーユ)を放出し、2部ケラノから24歳のMFアイデン(サシャーユ)を、パンテーラの後継には大学ナンバー1ボランチとも呼ばれるハインリ工業大学のDFウーナ(サシャーユ)を獲得。このように03年優勝時のメンバーに頼り過ぎ、高齢化していたチーム構成も若返りの兆しが見える。 守備では、離脱していたエウカメケの代わりに25試合に出場した20歳のDFジュール(サシャーユ)の活躍が心強い。果敢なプレイでチームを鼓舞するルーキーが、スピードが衰え始めたエウカメケから定位置奪取できるか注目だ。 最終ラインとボランチに守備能力の高い選手が揃っていると言えるだろう。 ケガ人最小限でシーズンを戦うことを目標に掲げた今季は、新監督の方針でキャンプからストレッチを徹底。キャンプ中、4年連続で主力にけが人が発生していた嫌な「伝統」を封じ込めることに成功した。 実戦でも、昨季と違う4−4−2で連携を深める時間が増え、ポジションの流動的なショートパスサッカーでチーム全体の意識も向上中。ユーティリティーに優れた選手が多く、前回の優勝時に頂点を極めた堅守の復活ができれば、楽しみなシーズンになりそうだ。 FCデミンガム FC Demingham 12位と、一昨季の5位から大きく順位を落としたデミンガムは、シーズン中盤から指揮を執ったフラミオ監督(チリ)を解任。U-23チェコ代表監督を務めていたファン・クルニン氏(オランダ)を招へいし、古豪として再建を目指す。 昨季は、EURO杯予備選を勝ち進んだ影響で選手に疲労が蓄積。もともと薄い選手層は更に薄くなり、故障者が続出した。結果的には、ECC杯本戦グループリーグは全敗という結果に終わり、リーグ戦でも奮わなかった。現在もその影響は続き、終盤で故障した主力2人MFゼッキ(サシャーユ)とFWフォーマン(ドイツ)の復帰は未定だ。 その穴を埋めるため、今シーズンからスポンサーを務めるVIC社の資金で大物を獲得。若手育成とチーム再建の実績があり、オランダ代表監督就任の噂もあったファン・クルニン監督を招へいすることに成功した。また、ハリベール(イングランド)からは、ブラジル代表で57試合に出場したMFセルジーニョ、元ベルセーナで昨季はカテラスラFC(ブルガリア)でプレイしていたFWプーマル(ラトビア代表)を獲得した。 中盤でボールを配給する能力に長けたセルジーニョや、テクニックとポストプレイに優れ、スペインで得点王にも輝いた経験を持つプーマルのコンビは実績が十分。しかし、互いに今年で35歳の年齢による衰えに不安は隠せない。セルジーニョは昨季終盤から体調不良で長期離脱を経験しており、移籍がスムーズに行った背景にはそれが影響しているようだ。 しかしながら、チーム全体のモチベーションを上げる存在であることには変わりなく、12位に沈んだチームとは思えないような明るさを、キャンプでは見ることができた。 また、ファン・クルニン監督は天才肌のFWフラニッチと、展開力のあるゲームメイカー型MFランドニッチ(共にU−23チェコ代表)も獲得。ゼッキの穴を埋められるか。 昨季18得点のパルイスカとコンビを組むフォーマンの代役として、グリマー(サシャーユ)らが定位置を争う。また、注目なのは昨季控えながらもブレイクしたMFボールセ(イングランド)とMFベルイシャ(エジプト)だ。対人に優れ、崩壊気味の守備で奮闘が光る。 ファン・クルニン監督の基本戦術(4-2-2-2)は、サイドに大きく開いて前線に常駐するFWが特徴。ピッチを大きく使った長短のカウンターを得意とする。戦力に劣るクラブや国での指導経験が長く、相手の弱点を効率よく突くと同時に、徹底して緻密な選手交代で皆を驚かせる。戦線離脱中の選手が復帰すれば、選手起用の幅も広がる。昨季のデミンガムが用いた「戦術がフォーマン」とも呼ばれた個人技頼みのサッカーからの脱却は十分に可能だろう。体格の優れた選手が多いだけに、激しいプレスも徹底している。 イギリス系移民による創設から105周年を迎える今季の活躍に期待だ。イングランド流の激しいプレイを受け継ぎながらも新戦術が浸透すれば、強豪への復帰も可能だろう。 CD キャング・ベルッチ・ツール CD Kang Belcch Toole 終盤、監督の解任という荒療治で引き分けを挟みながらも4連勝して13位に順位を上げ、残留争いから抜け出したツール。終盤の戦いが選手たちに自信を与えたかと思いきや、フロントは主力級選手4人の引止めに失敗し、厳しい戦いになりそうだ。 特に、左サイドのレギュラーだったMFミーケル(サシャーユ)と昨季ボランチで全試合出場したMFカワキラ(ポルトガル)の流出は痛手だ。底辺から丁寧に組み立てる攻撃を目指すコダ監督(サシャーユ)の戦術にとってボランチと左サイドは重要な位置。若手には未だ物足りなさと育成の遅れが目立ち、至急代役を探さなくてはならないだろう。 シャドーストライカーとして5得点を挙げたFWクルキン(サシャーユ)と、04年の全国高校カップ戦得点王のMFゼクローセ(サシャーユ、昨季は18試合3得点)を放出して手に入れた資金で大物選手の獲得が急がれる。シーズン途中での大物獲得が噂され、一部ではサシャーユFCで左サイドとボランチもこなすMFブーチ(イングランド)との接触が報じられた。1ボランチが基本だけに、読みとパス配給に定評があるベテランのブーチ移籍が実現すれば、大きな戦力アップだ。 明るい材料として、カンタフェB(スペイン2部)からトップ下のMFアルキトストン(サシャーユ)が復帰。昨季はトップチームで11試合に出場し、2得点を挙げている。復帰したことで、経験豊かな中心選手としての奮起が求められるだろう。 また、海外からの新加入選手は一人だが、期待できる。ブラジルの名門カングラFCから獲得した右サイドのDFアウゲリオ(ブラジル)は、正確なロングキックが持ち味。U-20代表経験もあり、サイドを生かした攻撃面でのプレイは注目だ。連携の完成度が期待される。 そのアウゲリオの力を引き出すため、コダ監督はキャンプで従来の3バックから4バック(3-1-2-2から4-1-3-2)へ変更。多少のリスクを冒しても動きのあるシステムを採用することで、選手間の攻撃意識向上と臨機応変な変化を目指している。 昨季シーズン中に韓国の要塔アスパルセと行った親善試合では、4-0の圧勝。また、シーズン中のアントレフェールト戦では1-1の引き分けに持ち込むなど、シーズン序盤から崩壊しつつあった守備面の勝負強さが徐々に備わってきており、安定感が期待される。 しかし、選手層の薄さがカバーできる戦い方ではない。特に人材不足のFWと流出したポジションの補充が追いついていない現在、どこまで順位を安定させられるかが課題だ。SBメテ(サシャーユ)のケガもあり、地域リーグから職人肌のCMFカウレッカ(サシャーユ)と、縦への突破が魅力のSMFメテュー(サシャーユ)を獲得したが、実力は未知数だ。 11年には、ツール遷都(1946年にサシェリアから遷都。50年にサシェリアへ再び遷都)55周年を控え、クラブは盛り上がりを見せている。
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by remarkabler | 2010-02-17 03:13

サッカー4

フィリップ・ミシュー Philippe Michou MF 1983年、フランス企業に勤めるオリベルトの家庭で、スペインのダボンに生まれた。6歳で帰国後はセルーゼに入団し、下部組織でトレーニングを積んだ。その後9歳でショートルFCへ移籍し、主に攻撃的MFとしてプレイしたという。 14歳になる頃にはFWとしてもプレイし、14試合で11得点を挙げたシーズンもあった。 16歳でFCモンテサンテルへ移籍し、戦術理解度の高さと献身的なプレイスタイル評価され、またチーム事情からDFとしてもプレイした。 18歳でトップチームへ昇格すると、ここでは攻撃的MFとしてプレイ。昇格二年目の02年には16試合5得点3アシストと結果を残した。しかし当時のモンテサンテルの同じ位置には、絶対的エースのドメッケ(元フランス代表)が君臨し、レギュラー確保はならなかった。 03年、出場機会を求めてスキップ・アルニクへ移籍。ここでは不慣れなWGとしての起用が続いたが、シーズンを通してレギュラーとしてプレイしている。しかし04年、財政難に陥ったクラブが売却を検討し、代表歴の無い選手としては高額の移籍金でサシャーユのバンザウェイ・ヘンデリッターズへ入団した。 ヘンデリッターズでは当初、攻撃的MFやCMFを担い、主に攻撃面での貢献が期待されていた。正確なパスと精度の高いFKは大きな武器で、CMFを定位置としてレギュラーとなった。05年にはシーズン31試合でフル出場し、スタミナの豊富さも証明している。 その後、ファン・ウーロ監督の下でSMFへ転向。パスで攻撃を組み立てるだけではなく、無尽蔵のスタミナを生かしてサイドから斜めに走り込む動きを叩き込まれたという。これにより、得点機会も増えている。 テクニック自体は平凡だが、適切な場面で適切な技術を用い、また献身的な動きと運動量でチームに貢献している。06年はSMFとしてチーム内得点王の9得点を挙げた。 07年、買い取りオプションのあるレンタル移籍で、モンテサンテルへ復帰。サシャーユでの活躍を受けて活躍を期待され、代表入りも噂されるほど注目を集めた移籍だった。 モンテサンテルではかつてドメッケのいた位置でプレイしたが、思うような結果は残せず、一年でヘンデリッターズへ復帰した。 08年からは再びSMFで、サイドアタッカーの役割でプレイしている。中央からサイドへ自由自在に流れる動きは予測がつかず、またサイドを起点に攻撃を生み出すこともできる活躍は高く評価された。 09年から指揮を執るカストロ監督も絶大な信頼を寄せ、10年はキャプテンも務めた。 一方で、短気なことで知られる。挑発に乗って不用意なファールを犯すことがあり、重要な試合ではイエローカード1枚を受けた時点で交代させられることもある。 見方への判定に対し抗議することも多く、レッドカードも度々受けている。 各年代、A代表ともに招集歴は無い。だが、能力はフランス路からも高く評価されている。 アンドレス・アントニオ・ペドリネス Andres Antonio Pedrones MF 1986年、コロンビアのレマトビオ生まれ。8歳でサッカーを始めると、高地育ちで培った肺活量による運動量を武器に、主に守備面で評価されていた。 アマチュアクラブでプレイを続けていたが、10歳でデポルテス・ト・ナガリートへ入団した。クラブでは殆ど試合に出場できず、12歳で一度退団。再び地元のアマチュアクラブでプレイを始めた。 その後、14歳でデポルティーボ・ハキントコスへ入団。体の強さを見込まれ、前線でのポストプレイを期待されて育成された。16歳で早くもトップチームデビューを果たし、翌03年には8試合で2得点を挙げた。 17歳でU-18代表へ招集されると、順調にステップアップしていく。05年にはトゥーロン国際大会へ出場し、FWとして2試合に出場している。 06年、運動量を生かした守備を期待され、CMFへ転向。体の強さと運動量で攻撃の芽を摘むセンスは高く評価された。 07年、CMFとして一年間レギュラーの座を確保。ミドルシュートやパスで攻撃面での貢献も大きく、このシーズンは26試合で6得点6アシストの結果を残している。 こうした活躍を受け、フランスやイタリアのクラブが移籍交渉しているが、破談となっている。 08年、アルゼンチンのストイーチコ・パレーツへ移籍。 09年にはサシャーユのバンザウェイ・ヘンデリッターズへ移籍した。 代表歴はU-21を最後に無い。 ステファン・ベルニッチ Stevan Velnic FW 1977年、モンテネグロ(旧ユーゴスラビア、セルビア・モンテネグロ)のドヴォイ・イェルツィヤニク生まれ。7歳でサッカーを始めると、長身とスタミナを評価され、DFとしてプレイした。当時はアマチュアクラブでプレイしていたが、守備面での功績が評価され、10歳でユーゴスラビアリーグの名門ヤヴェル・ドモイツォイFKへ入団を果たした。 常に同年代では頭一つ抜けた長身を持っていたため、多くの試合でDFとして起用された。長身に加えて、東欧独特の繊細なテクニックも一定のレベルを兼ね備えており、最終ラインからのビルドアップでその技術を披露していた。 15歳になった92年、リーグ再編の中でブヴェットFKへ移籍。ここではポストプレイを期待されFWとして起用されるなど、プレイの幅を広げていった。 17歳でトップチームへ昇格すると、CBとして起用された。185mと平均的な身長になってはいたが、長年の経験で得た読みとカバーリング、スタミナでカバーしていた。翌95年には18歳でレギュラーに定着し、24試合に出場している。 代表としては、ユーゴスラビア解体で誕生したセルビア・モンテネグロ代表に、U-18で招集(95年)。以降、U-21世代までヨーロッパ各地で開催される大会へ出場した。 97年、フランスのサンテシュミ―ラーへ移籍。ここでは98年から定位置を確保し、空中戦に強いレギュラーCB、時には攻撃力も併せ持つSBとして3シーズンを過ごした。 こうした活躍が報じられると、98年にA代表へ選出。主にCB、SBでプレイした。98年WFCメンバーから漏れたが、00年ヨーロッパ選手権では2試合に先発出場している。 ヨーロッパ選手権やクラブでの活躍を受け、00年にスペインのコルドバへ移籍。CBとして期待されたが、創造的なプレイを練習で披露したことから、攻撃的なポジションを多く任せられた。01年にはOMF、02年はCFW、SMFとして出場し、03年には残留争いするチームでWGとして孤軍奮闘した(30試合7得点5アシスト)。このシーズン末の大ケガで04年を棒に振るが、ケガの癒えた05年からは1部クールマルスでプレイしている。 スピードは無いが、DFとしても通用する体の強さと、サイドからのパス、突破が魅力である。 この間、代表では02年WFC予選に主力として出場。攻撃面ではテクニックと閃きを駆使し、守備面でも貢献する選手として重用され、CMFでの起用が多かった。06年WFC予選をWGとしてプレイし突破すると、本大会でも3試合に出場している。 その後、07年にサシャーユのヘラルドセンゲンへ移籍。ここでもWGとして3トップの一角を担い、自由度の高いプレイを見せている。WGながらも守備面での貢献も大きく、欠かせない存在である。だが、09年はシーズン途中のケガで半年間戦線離脱している。 代表はその後、セルビア代表とモンテネグロ代表に分裂したが、自身はモンテネグロ代表を選択した。06年後も継続招集されていたが、09年のケガ以降は選出されていない。 クリスティアン・ポルワカ Christian Porwaca DF 1976年、イタリア北部のカンダスリア生まれ。6歳でサッカーを始めると、9歳でローマへ移住したのをきっかけにCASAローマへ入団。下部組織で育った。 当時はテクニックを生かしたトップ下を担い、89年には24試合で17得点を記録している。 その後、ケガなどで成長のバランスを崩し、91年にベナーロへ移籍。ここでは、186cmの長身を活かすべく守備的位置で起用され続け、主にCBで出場していた。 MF時代に培った足下の技術と、18歳で189cmという恵まれた体格で大きな期待を受けた。 一方でスピードに難があり、カウンターや足の早いFWと対峙するのは苦手とした。だが、圧倒的な空中戦・1対1の強さと、最終ラインから攻撃を組み立てられるテクニックで出場機会を手にしていく。 95年、U-20WFC出場を目指すイタリア代表候補に選出。体の強さを見込まれCMFとしても構想され、練習試合にも出場した。だが、最終的には選出はされていない。イタリア代表も本戦出場はならなかった。 95年、トップチームへデビュー。96年には5試合に出場している。その後、固いレギュラー陣の壁を破ることが出来ず、97年にフィジリオCC(セリエB)へ移籍。ここではシーズン中盤から定位置を確保した。 99年、Bでの活躍を受け、ギリシャのカッサニロキへ移籍。ここではCMFでも出場し、攻撃面でも持ち味を発揮。パワフルなドリブルと強靭なボディバランスで得点も挙げた。また、CBとしても不動の地位を築き、00年はリーグ優勝に貢献。翌年はECCに初出場し、3試合でプレイした。01年のシーズン終盤は膝のケガで長期離脱を経験したが、02年には二度目のECC出場を果たし、得点も決めている。 ECCでの活躍が注目され、03年にサシャーユのヘラルドセンゲンへ移籍。移籍直後から膝や腰のケガで離脱を繰り返したが、05年からはCBとしてレギュラーとなった。 読みと対人の強さは健在で、ヘラルドセンゲンでのアリッキとのCBコンビは空中戦において、絶対の強さを誇る。また、ロングフィードも正確である。 ただ両者ともスピードに不安を抱え、またポルワカは膝のケガ以降、更にそれが顕著となっている。読みや身体能力でカバーしているが、それで追いつけない場合はファールを犯す場面も多く、近年は退場も目立つ。 リーグ、カップ戦ともにレギュラーであり、リーグにおいてクラブの中位上位進出に貢献している。 ギリシャやサシャーユでの活躍が報じられる一方で、イタリア代表への招集は無い。 エドガー・フォーマン Edgar Forman FW 1982年、ドイツの首都ベルリン生まれ。父親は元ドイツ代表DFで、祖父はポーランドでプレイしたというサッカー一家に育った。 5歳でサッカーを始めると、8歳でサインツ・ベルリンへ入団した。当時は父親と同じDFでプレイしていたが、身長が伸び悩み、徐々に中盤でのプレイが増えていった。14歳で攻撃的MFとなると、細い間を通すパスでチャンスを演出。豊富な運動量とパスセンスを武器に、その後16歳まで主にトップ下で活躍した。 99年にトップチームへ昇格すると、WGとして起用された。サイドからのクロスが基本戦術だった当時のサインツ・ベルリンでパスセンスは重宝され、01年はシーズンを通してトップチームでプレイ。12試合に出場している。 しかし、パスの出し手に終始して直接得点に絡む機会を失い、また01年終盤に故障した膝の影響で速いパスを何度も出すことが困難となり、WGとしては物足りなさが残った。 そこで中へ切り込む動きを増やし、02年はCFWとしてもプレイ。運動量はそのままに、出されたパスに点で合わせる動きを繰り返していった。 なお、WGとしてプレイしていた時代にU-19ドイツ代表候補へ選出。SMFやOMFでの起用も考えられていたが、ケガの影響で選出はされなかった。 03年はトップチームで6試合に出場したが、04年はグラツム・シュベントバッハへ移籍。ここでは2トップの一角を担い、ケガでの離脱を繰り返しながらも23試合に出場し4得点を挙げた。クラブは降格したが、翌05年は2部で29試合9得点と自己記録を更新している。 2部での活躍を受け、06年にSCシュベットブルグへ移籍。定位置を確保することは出来なかったが、2トップの一角として起用され結果を残している(06年は15試合3得点、07年は23試合6得点)。 07年はシーズン序盤で6得点を挙げるなど波に乗り、中断期間直前にはレギュラーに昇格。だが、中断開け直前の練習で左膝の靭帯を断裂して9ヶ月間の戦線離脱となった。 その後、クラブが即戦力のドイツ代表FWを獲得したことで居場所を失い、復帰を待たずして08年、サシャーユのFCデミンガムへ移籍した。 FW不足に悩んでいたデミンガムでは復帰直後から定位置を奪った。再び波に乗りかけたが、シーズン最終盤に再び左膝の靭帯を損傷し、離脱(このシーズンは17試合7得点)。 その後は驚異的な回復力を見せ、全治6か月の所を3ヶ月で復帰。09年はシーズン30試合に出場し、11得点を挙げた。 裏への一瞬の飛び出しと、ボールに一瞬で体を合わせる技術を磨き、泥臭いFWという評価である。だが、そのプレイスタイルの影響で大ケガが多く長期離脱も多い。 また、試合中に一、二度見せる絶妙のパスは、膝への負担を考慮して多用をしないが、MF時代に培ったものである。 U-19代表などを含めて、代表歴は無い。 アルベルト・ワグナー・ムノルザ・シウバ Albert Wegner Menorsa Silva FW 1988年、ブラジルのサンパウロ生まれ。父親と3人の兄は全員がプロサッカー選手というサッカー一家に育ち、自身も5歳でサッカーを始めた。その後9歳で本格的にトレーニングを開始し、10歳で全国選手権2部のプロクラブ、デジャ・クリエトFCへ入団した。 ブラジル特有の高い技術と貪欲なゴールへの姿勢は高く評価され、中盤で攻撃のリズムを作った。14歳で既に下部組織の中心メンバーとして活躍し、16歳になると全国選手権1部の名門FCヴェーゲルサントへ移籍を果たしている。 ヴェーゲルサントでは球離れの悪さが露呈してなかなか波に乗れず、05年に全国選手権2部のタナカFCへレンタル移籍。ここではFWに挑戦し、主にWGで出場していた。 一年間の移籍を終えると、ミネイロ州1部のアトレチコ・エルジーニョへ移籍。ここではCFWとして活躍し、ドリブルで強引に突破してシュートするスタイルで成功した。移籍一年目の06年は29試合で13得点を挙げ、07年はシーズン途中までで7得点している。 そうした活躍を受け、07年シーズン途中にFCヴェーゲルサントへ復帰。定位置は確保できなかったが、限られた出場機会で得点を挙げ、最終的には4得点を記録している。 08年、サシャーユのトリーニョCDへ完全移籍。カウンターを多用していたため、テクニカルなドリブルでシュートへ持っていくスタイル、ボールキープ能力は高く評価され、中心選手としてプレイした。08年は12得点を挙げ、クラブ内得点王に輝いている。 09年はクラブ戦術がポゼッションサッカーに転換したが、CFWとして君臨。17得点を挙げ、得点ランキング3位に食い込む活躍を見せている。 マルク・カルロス・エンパイオ・デマン Mark Carlos Empaio Deman MF 1986年、チリのベッキリア生まれ。 デイビッド・ウィルヘルム・バートン David Wilhelm Barton MF マイケル・ボウス Michael Bows FW 1978年、イングランドのウィールブラジー生まれ。5歳で本格的にサッカーを開始すると、エディクソン・トルータスの下部組織に入団した。当時は天性のスピードを生かしたトップ下として活躍し、11歳でU-12イングランド代表に選出されている。 その後、15歳でイングランド屈指の強豪キンバリースター・ユナイテッドへ移籍。下部組織で育成を受け、スピードだけではなくドリブルの技術を手に入れた。 95年にはイングランドユースカップ選手権に出場し、ハットトリックを決めて一躍脚光を浴びた。 96年、弱冠18歳でトップチームへデビューを果たすと、いきなりトップ下で先発出場。2得点を挙げる活躍を見せ、甘いマスクも相まって「伝説級の新星」と絶賛された。 その後、右膝半月板や右足靭帯の損傷等で一時期低迷したが、98年からレギュラーに定着。同年にはECLデビューも果たし、攻撃の中心メンバーとしてヨーロッパ中にその名を知らしめた。 01年は開幕から得点を量産して勢いに乗ると、シーズン16得点を記録。8アシストも決め、チャンスメークと決定力の高さを示した。トップスピードに乗ったままの正確なドリブルと安定した技術、精密なシュートは大きな武器であり、174cmと小柄な体格のハンデを感じさせない活躍を見せている。 U-12以降の代表歴としては、U-16、U-18と順調にステップアップ。00年にはU-23代表としてシドニー五輪出場を目指したが、予選で敗退を喫している。 A代表デビューは00年11月のイラン戦で、2戦目となった12月のギリシャ戦ではアシストを記録。02年WFCの予選にも参加し、得点は無いものの、本大会にも出場した。ただし、代表では結果を残すことが多くなく、不完全燃焼でもあった。 その後キンバリースターでは度々故障に悩まされながらも、チームの象徴的存在としてエースナンバー6を背負っている。02年は19得点で得点王に輝き、03年も21得点を挙げた。04年はヨーロッパ選手権でも5得点を挙げる等、代表でも地位を確立している。 しかしヨーロッパ選手権直後、代表戦で右足靭帯の古傷を悪化。2ヶ月後に復帰するが直後に左足を骨折し再び離脱する等、ケガに泣かされる時期を迎えている。この影響で、06年WFCメンバーからは漏れ、キンバリースターでも出番が激減した。 それでもECLや数少ない出番では確実に結果を残し、復帰後の05年は11試合で6得点、ECLでも2試合1得点を記録している。 06年、キンバリースターで350試合出場を果たし、このシーズンは23試合で14得点と復活を印象付ける年となった。同時に代表へも2年ぶりに復帰を果たしている。 その後も精神的支柱として君臨することが期待されたが、08年にチームは大型補強を断行。前年に7得点を挙げながらも退団を決意し、シーズン途中からサシャーユのテームスへ移籍。この移籍はキンバリースターサポーターから批判も浴びたが、最終的には移籍に追いやったチーム体制への講義活動が行われる事態にもなった。また、この年に代表から引退している。 テームスでは主力としてプレイし、09年は8得点、10年は14得点を記録している。 ゲイリー・ダグラス・パーカー Gary Douglas Parker MF 1977年、イングランドのショートダグラス生まれ。6歳でサッカーを始め、7歳の頃には小学生の大会に出場していたという。 10歳で、2部のショートダグラスFCの下部組織へ入団を果たすと、MFとして育成された。攻撃面での貢献が光り、中盤で攻撃を司る働きから、14歳で「ショートグラスの王様」とまで呼ばれる程将来を嘱望された存在となったという。 16歳でU-16イングランド代表に選出され、ユース年代の大会等で7試合に出場している。 高校生年代では185cmの長身と、テクニックに優れた攻撃面のセンスで貢献。早い判断から狙った決定的なパスにより攻撃のリズムを作り出す働きで、主にSMF、OMFとしてプレイした。 その後、19歳でトップチームへ昇格。レギュラーとしてトップ下や攻撃的MFでの起用が試されたが、2部の激しいフィジカルコンタクトに押され、なかなか持ち味を発揮することは出来なかった。97年には左手の骨折でシーズンの大半を棒に振る等、才能の豊かさを評価されながらも、試合で発揮する機会は限られていた。 98年に復帰後したが、体調の管理が上手くいかなかったこと、小さなケガを繰り返したこと、望んでいたSMFとしてはスピードが足りなかったこと等から攻撃的ポジションンのレギュラーを脅かす存在にはなり切れず、駒不足だった守備的ポジションの穴埋めとしての起用が続いた。左右のSB、CMF、DMFとして試合経験を積んでいたが、00年にSMFの座を勝ち取ると、そのシーズンは2部で優勝。体の強さを身につけ、決定的なパスを出すセンス、守備的起用で培った運動量と守備意識の高さで、中盤に欠かせない存在として君臨した。 この活躍を受け、00年にはシドニー五輪の予選にU-23代表の一員として出場。定位置は確保できなかったが、予選敗退したチームの中で奮闘した。 01年は1部で思うような結果を残せず、チームは一年で降格が決定。しかしセンスを高く評価した1部のFCテリー・フィールドへ移籍を果たしている。 移籍後はCMFとして起用され、中盤のバランサーとして機能。足の遅さが欠点とされたが、持久力による粘り強い守備と、攻撃面での貢献が評価された。精密な技術とリズムを生み出すパスの捌きは次第に安定感を増し、04年にはカップ戦の準優勝に貢献している。 05年、A代表に初招集され、中盤の底やSBとして起用された。時にはCBとしても出場し、06年のWFCメンバー入りも果たしている(1試合出場)。決して身体能力に恵まれているとは言えないが、センスと技術、ユーティリティー性で05年から07年の代表に欠かせないMFとして、中盤の構成で重宝された。 しかし次第にケガや若手の台頭で出番を失い、07年はリーグ戦9試合の出場に留まった。ベンチ外も増え、08年には代表復帰のため出場機会を求めて2部のショートダグラスへ復帰。 1部昇格に貢献したものの代表選出はならず、代表復帰は半ば諦めた形で09年、サシャーユのテームスへ移籍。主に守備に徹する役割を担っている。 フランコ・オスカル・キオレ Franco Oscar Quiole FW 1979年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス生まれ。4歳でサッカーを始めると、6歳で地元のアマチュアクラブへ入団。当時から頭一つ分抜けた長身を生かしたパワフルなプレイを得意としていたという。9歳の時には、ブエノスアイレス・ケルタスノス地区代表として市大会へ出場している。 市大会での活躍を受け、10歳でチーバ・ガーリバFCへ入団。FWとして育成され、主に運動量あるプレイを期待された。主にWGやSTとして起用され、17歳でトップチームにも昇格を果たしている。 トップチームではまずまずの動きを見せたものの、定位置を確保するには至らず、97年にセルフィーニャへ移籍。ここでは身体能力を生かし、突破の得意なサイドでのプレイが主であった。 98年、セルフィーニャの一員としてヨーロッパ遠征へ参加。オランダの強豪フェーレンヤンと対戦したが、そこで才能を評価され移籍交渉に発展した。その後99年に正式に移籍を果たしたが、直後に2部BCKアテークカートへレンタル移籍されている。 アテークカートでは安定したポストプレイが評価され、中央で起用された。また1対1での落ち着いた対応、シュート技術からCFWに固定されている。一年目に6得点を挙げると、翌年フェーレンヤンに復帰。しかし調子を上げることが出来ず、01年限りで退団した。 02年はクウェートのサンニ・アルベオで半年間プレイし、その後は日本や韓国のクラブの練習に参加。最終的にはアルゼンチンのセミプロクラブでプレイした。 03年、かつてのヨーロッパ遠征で対戦経験のあるサシャーユ1部のルルージュFCへ入団した。当時のGMはかつてアテークカートで監督を務めていたアビリッチであり、1部昇格一年目の補強の目玉として、GMの熱望で獲得したという。 ルルージュではCFWとして育成され、04年から定位置を確保。残留争いするチームにおいて11得点を挙げ、孤軍奮闘した(クラブは04年に最下位に沈み、降格が決定)。 05年は2部で18得点を記録し、昇格に貢献するとローゼン・アントコールへ移籍した。ローゼンでもポストプレイと強烈なヘッド、冷静なシュートで得点を挙げ続けている。 07年に腰と足首を痛めた影響で、近年の得点は多くない(09年は4得点)。だが、安定したポストプレイは健在で、左右に流れて起点となる動きはリーグ随一のものである。 09年後半からはWGとしても起用されることがあり、縦への突破力と豊富な運動量で新境地を開拓している。 代表歴としては、99年にU-21代表へ招集された(3試合)が、定着はならなかった。 アルカル・オチョリア・ファニーツィア Arcal Ochoria Finitia MF 1978年、グアテマラのカンデボン生まれ。6歳でサッカーを始めると、持ち前の快足を生かして点取り屋として活躍したという。14歳でグアテマラ・レニーニャFCへ入団すると、95年に行われた中南米ユース選手権に参加。ここで3得点を挙げる活躍を見せ、96年にメキシコのプロクラブ、アノーキ・スキットリトSCと契約した。 スキットリトSCでは俊敏性とテクニックを生かしてWG、SMFとしてプレイ。97年にはトップチームで7試合に出場している(2得点)。 97年には U-19、23のグアテマラ代表へ選出。チーム事情もあってCMFとしてプレイし、素早い寄せと攻守の切り替えの早さを発揮した。 98年になるとA代表にも招集され、WFC予選にも参加している。また、01年のUNCAFカップでは優勝メンバーでもある。 99年にWGとしてリーグ戦7得点6アシストを記録し、カップ戦の優勝にも貢献。翌00年、メキシコの強豪カンティゴレスへ移籍を果たした。だが、ここでは潤沢な戦力の中で定位置を確保することはできず、03年にアントレーへ移籍している。 アントレーでは中盤で起用されることが増え、CMFやOMFでプレイ。この年はCONCACAFCLへ出場し、1得点4アシストでベスト16入りに貢献した。 こうした活躍を機に、04年にイタリアのセロゼーナへ移籍。26歳でのイタリア挑戦は遅すぎるとの意見もあったが、優れたテクニックで小柄な身長(172cm)を補いながら主にCMFとしてプレイした。ボールを落ち着かせ、また様々な方向へ安定して散らせる技術は高く評価されている。シュートセンスは甘かったが、広い視野を身につけ、攻撃面で大きな影響を与えた。移籍当時は下位のセロゼーナも、06年にはリーグ5位にまで成長している。 05年、2年ぶりにグアテマラ代表へ復帰。WFC出場は逃しているが、自国開催となったUNCAFカップでは3位入賞を果たしている。 07年の前半、右膝のケガで半年間の離脱を経験。中断期間前に奇跡的に復活し、強豪CASAローマとの一戦で2得点。これがきっかけとなり、中断期間にCASAローマへ移籍した。だが、移籍直後から右膝のケガを繰り返し、このシーズンは満足な出場は出来なかった。 08年は、OMFとして復活を目指している。高い位置でキープし散らす技術は健在だったが、激しい守備の中で埋没することが多くなり、ベンチにすら入れない日々が続いた。 更には08年、代表戦で左足首を負傷(このケガ自体は軽症)したのを機に、ローマを放出され、サシャーユリーグのタリヌペイへ入団した。 タリヌペイでは体調の復調に時間をかけ、その後はCMFとして起用されている。成人以降はスピードのある方ではなく、ケガ以降は更に加速力を失った。対応策として高めていった技術の高さは、イタリア、サシャーユ時代ともにリーグトップレベルである。 御とつかせる 散らす 岡山圭介 Keisuke Okayama MF 1988年、日本の静岡県生まれ。サッカーどころの静岡で4歳からボールを蹴り始めると、6歳で地元のアマチュアサッカークラブへ入団している。 12歳までスポーツ少年団・高州サッカークラブでプレイ。当時はテクニカルな中盤としてみる者を楽しませる意表を付いたプレイが目立ったという。13歳で中学校へ入学すると、部活サッカーで肉体面において成長。小柄だった身長も、入学時141cmが卒業時には176cmとなっている。 中学卒業後は名門・静岡五段商業高校へ進学。だが、個人技のレベルが高い静岡のサッカーにおいて、持ち味を十分に発揮しているとは言い難かった。主にCMFやトップ下で出場していたが、ボールを持ちすぎて失う場面が多く、目立った選手ではなかったと言う。 当時は身長181cmまで成長し、自慢のテクニックの切れを失いかけていた。そんな中、監督の勧めでサイドへ転向。独特のリズムでボールを運ぶ技術を活かすべくドリブルに磨きをかけ、縦への突破を大きな武器とした。 そうして06年、WGやSMFとしてレギュラーに定着。高校サッカー選手権静岡県予選では3試合で3得点を挙げ、(本大会進出はならなかったが)ベスト4進出に貢献した。 この年、07年のU-20WFC出場を目指すU-19日本代表候補へ初選出されている。 卒業後、J2の館山ブルーマリンズへ入団。07年の中盤からSMFのレギュラーに定着すると、日本人離れした1対1の強さと、性格で軽やかなドリブルで攻撃面に貢献。特に右サイドでの1対1、時には切れ込んでから利き足の左足で得点を狙う動きは高く評価された。 08年は36試合に出場し6得点4アシストを記録すると、代表へも初招集された。チームのJ1昇格に大きく貢献すると、09年はより攻撃的なWGとしてプレイ。左足首のケガで21試合の出場に留まったものの、7得点を挙げている。 負傷離脱までに代表戦は6試合に招集され、4試合に出場。対韓国戦では初得点も記録した。 ケガの影響で10年WFCメンバーからは漏れている。 その後、09年末にサシャーユのエミールジュールへ移籍。海外では平均的な身体能力を補うため、よりドリブル精度を高めている。 10年にデビュー後は17試合で7得点を挙げており、ST、トップ下として高いセンスを見せつけている。 大中徳弘 Oonaka Norihiro DF 1985年、日本の名古屋生まれ。10歳から本格的にサッカーを始めると、13歳で名古屋グランパスの下部組織へ入団を果たすほど、早くから才能に注目されて来た。 下部組織ではMFとしてプレイし、パスを出すことに快感を覚えていたという。 だが、下部組織からユースへの昇格を果たせず、三重県の幅平田高校へ、サッカー留学のため進学。幅平田ではMFの王様として君臨し、CMFとして攻撃を司った。 高校在学三年間で全国選手権への出場は無いものの、02年近畿東海ユース選手権ベスト8、02年関西ユース選手権ベスト4、03年ボウスウィンドリー卿杯準優勝等の実績を残している。個人としても、02年の関西ユース選手権ではMVPを受賞している。 こうした成績を受け、02年にはU-18代表へ選出。以降、この年代の中心的MFとしての地位を確立していく。 国内外の年代別大会にも出場しており、03年にカタールで開催されたアル・ジェフヤ国際ユース選手権では、フランスを破る決勝点をアシストしている。 正確なパスとCMFとして攻守に耐えられる体躯、貴重な左利きということもあってJリーグクラブが強豪の末、04年にガンバ大阪へ入団した。 ガンバではチーム事情もあってDMFでアンカー等を経験。また、豊富な戦力を揃える中で、出場機会は最初の2年間は少なかった。 06年、CMFとしてトップチームのシーズン17試合に出場。4得点6アシストと期待のMFとして一躍注目を浴びた。 その後、08年の北京五輪出場を目指して、海外移籍を模索。07年の中断期間にポルトガルのサッカローネへ移籍を果たした。 当時1部へ昇格したばかりで守備陣に不安があり、また低い位置のサイドからパスを繋げて攻撃の起点を作るチーム戦術のため、シーズン中盤からはSBとして起用。この戦術にフィットし後半戦だけで3アシストを記録したが、奮闘空しく2部降格が決定した。 このため移籍を画策したものの不調に終わり、08年は2部でプレイ。だが、ここでは安定した攻撃面でのプレイに加え、球際の激しい守備と当たり負けしない体幹で圧倒的な存在感を発揮。シーズンを通してSBとして出場し続け、個人で30試合3得点4アシスト、チームとしてはリーグ最小失点に貢献し、1部復帰を成し遂げた。 1部復帰後の09年はより攻撃的なSMFやCMFでも出場したが、SBとして抜群の安定感を披露。その質の高い動きはポルトガルメディアから絶賛された。 こうした働きを受け、U-23代表として北京五輪にも出場。その後はA代表にも招集され、09年はコンチネンタル・カップ(アジア、ヨーロッパ、北米の2チームずつが出場する大会)で好プレイを連発した。 これが評価され、10年にサシャーユ1部のNEZへラルドセンゲンへ移籍した。
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by remarkabler | 2010-02-17 03:11

サッカー3

スティグ・ガネール・レムー Stig Ganerl Ramue FW 1975年、ノルウェーのグルティスツィア生まれ。10歳でサッカーを始めると、11歳で地元のプロクラブ、オネールFCへ入団。当時はGKであり、長身を生かしたプレイで評価を高めていた。 14歳になると、中盤へプレイエリアを移行。DMFやSMFなどを経験した後、16歳でFWへ転向した。長身選手が多いノルウェーにおいて、同年代でも圧倒的なボディバランスを誇り、またジャンプ能力を生かして空中戦の競り合いには強さを発揮した。 下部組織で得点を量産することで、91年にはU-16代表へ選出された。以降、U-18、U-20と各年代で選出されている。 18歳になると、トップチームへデビュー。189cmの長身を生かしたポストプレイと、ヘディングでの得点能力を高く評価され、22歳の時にはエースとして君臨。長身選手にしては珍しくスピード、足下の技術も一定上のレベルにあり、キレのある動きで得点を量産。この年は14得点を挙げた(リーグ3位)。 チーム事情に合わせて中盤に下がってプレイすることもあり、時にはCBとしてもプレイする。その際は空中戦での競り合い、オーバーラップでの攻撃参加など攻撃のバリエーションを増やす貴重な役割を担う。 98年にはA代表へ初選出。98年WFC後の新チームにおいてFWの貴重な戦力として考えられ、00年にはヨーロッパ選手権に初出場。4得点を記録したが、グループリーグで敗退した。その後は、02年WFC出場を目指す中で29試合に出場している。 若手や新戦力の台頭、自身のケガが重なって次第に出場機会が減ると、00年にホルンピーカーズへ移籍。24歳で痛めた膝の影響で、スピードに乗ったプレイが安定して出来なくなった為、スペースを作る献身的な動きや、ポストプレイから攻撃の起点となるスタイルに転換。得点数こそ減ったが、その働きを高く評価された。 01年、代表はWFC出場を逃す。98年から代表でプレイしていたが、出場という結果が出せず、強い批判に晒された。 そうした批判で「海外で揉まれる」ことを志望し、02年にサシャーユのエミールジュールへ移籍した。エミールジュールでは、圧倒的な高さと献身的な動きで攻守に貢献している。03年から3年連続で二桁得点など、欠かせない戦力である。06年にイングランドのセルバーリーへレンタル移籍したが、半年で復帰。近年は若手の台頭や戦術の変化で出場機会も限られるが、降格と昇格、カップ戦準優勝などのクラブの歴史を肌で知る存在として、精神的な支柱の一人となっている。09年には3年ぶりとなる二桁得点(11得点)を挙げた。 代表としては02年以降も断続的に招集されていたが、08年以降の招集は無い。 フィリップ・セガッティーヌ Philip Seaggatine FW 1975年、フランスのショートル生まれ。14歳で地元のショートルFC(2部)へ入団すると、下部組織で経験を積んだ。当時はテクニックで相手を翻弄するMFだったといい、アシストやパスなどの面でチームに貢献していた。 また、平行してGKとしてもプレイしており、どちらも高いレベルでこなしていた。 評価も高く、90年にはU-15フランス代表にもMF、GKとして選出されている。高いテクニックのMF、軽やかな身のこなしでアクロバティックなセービングを魅せるGKとして注目された。 その後16歳でパリ・ルーベルタンへ移籍。MFとして将来を嘱望されたが、身長の急速な伸びと、生活環境の急速な変化で調子を落としていく。移籍当初に170cmだった身長は2年間で186cmになり、得意としていたテクニックやドリブルは簡単に止められるようになっていった。 そうした不調からの脱却を目指し、他のポジションに積極的に挑戦。しかし逆にそれで本来のプレイスタイルを見失い、18歳で2部のユーベルポッケへ移籍した。 その後、カジョーFCへレンタル移籍していた94年、FWへ本格転向する。そこで元フランス代表FWのプレイを目の当たりにし、様々なことを学んだという。 MF時代のような俊敏な動きと曲芸的なテクニックは失ったが、相手をいなす体の使い方や基本のパス技術は向上。また、身長を生かしたポストプレイとヘディングは大きな武器となり、ユーベルポッケでの97年には2部で21得点し、得点王に輝いた。そうした成功により、23歳でルーベルタンへ復帰を果たす。 ルーベルタンではケガや不調が重なり満足な活躍は出来なかったが、その後の00年にイタリアのバジリオンネへ移籍。3年間プレイした後、セリエBチッコリーネを経て、04年にルーベルタンへ復帰した。 この年、ルーベルタンで初めて定位置を確保して10得点を挙げたが、名門クラブがまさかの2部降格。05年は再び2部で大活躍し、26得点で2度目の2部得点王、昇格に貢献した。 昇格を成し遂げると、07年にサシャーユのローゼン・アントコールFCへ移籍。2トップの一角としてポストプレイが冴え渡り、チャンスメークで活躍、その一方で6得点を挙げた。その後08年の前半に腰を痛め、またスタミナの衰えなどでレギュラーを離れたが、現在も貴重なパワープレイ要員である。 代表としては、父親のルーツであるアルジェリア代表に招集されたことがある。92年にU-17代表にGKとして招集され、98年にはA代表へ選出。しかし、本人はフランス人であることに誇りを抱いており、また父親もフランス系アルジェリア人、母親もフランス人だったこともあり、どちらも辞退している。 98年はU-23フランス代表候補に入ったが、招集はされなかった。 マイケル・ボールセ Michael Boulse MF 1983年、イギリスのウェールズで、ロンドン商人にルーツを持つ家に生まれた。10歳でサッカーを始め、12歳でセミプロクラブへ入団。平均レベル以上の技術、戦術眼が見込まれ順調に経験を積み、14歳でウェールズリーグの強豪クイナーズ・ベルトマンFCへ入団した。 この頃14歳でU-14代表に招集されたが、「一身上の都合」で辞退している。 その後、15歳でイングランド2部のブルック・ダンズへ移籍。FWとして下部組織で戦力となり、99年には14試合4得点を挙げた。トップチームデビューを果たしたのは00年で、FWとして4試合に出場、1得点を記録している。 この年のプレイを見た当時のイングランドサッカー協会からU-17代表へ召集を受け、故郷のウェールズではなく、プロとして経験を積んだイングランド代表を選択。00年の12月には国際試合デビューを果たした。 01年以降は再び下部組織でのプレイが主となり、02年にはMFへコンバートされた。高い身体能力と技術を生かすためであり、主に中盤の底での起用が多かった。すると、攻守の両面で貢献し、次第に信頼を勝ち取っていく。 パスは得意ではなかったが、体幹の強さと身体能力でボールを奪い、自らも前線へ攻め上がるプレイで定位置を確保。03年にトップチームへ昇格すると、24試合に出場した。 CMF、DMFとしては運動量が少なくアンカーは苦手としたが、カバーリングや積極的な守備、攻撃力(特に混戦でのシュートやヘディングは決定力が高かった)で守備の安定に貢献。時にはCBやOMFとしても起用され、重用されていた。 04年、チームの攻撃力不足を解消する為に、SWとしても起用される。前線への攻め上がりの連携が整わず守備崩壊を招く要因となったが、この経験が「攻守の切り替え」を意識し習得するきっかけになったという。この年はCMF、SWとしてチーム得点王の9得点を挙げた。 06年、スコットランド1部のセント・カイルへ半年間レンタル移籍した後、サシャーユのFCデミンガムへレンタル移籍。守備の立て直しを図るチームで貴重な戦力として重用されたが、大きな活躍は出来ず07年にダンズへ復帰した。ダンズではその後、キャプテンを務めた。 08年、今度は完全移籍でデミンガムへ加入。ECCを戦うクラブにとって貴重な戦力となり、控えながらも後半戦は7試合連続出場している。09年はMFで定位置を確保した。 サシャーユでも対人の強さを発揮し、運動量の低さをカバーしている。攻撃面での貢献も光るが、反面、不用意なファールやラフプレイ、無用な挑発行為などで警告を受けることもある。しかし、中盤の底で攻撃の芽を摘む姿は大きな存在感を放っている。 また、思い切りのいいミドルシュートの威力は強烈で、09年のリーグ戦で3得点を挙げた。 なお、代表歴はU-17代表選出以降無い。05年、ウェールズU-23代表へ招集されたが辞退している。06年はウェールズA代表へ選出されたがこれも辞退し、自信のルーツであるイングランド代表入りを望んでいる。 メーメット・ブリーマン Mehmet Briemann DF 1977年、ドイツの首都ベルリン生まれ。8歳でサッカーを始めると、10歳でベルリン・アテークカッツ(セミプロ)へ入団した。その後、13歳で元ドイツ代表選手だった父親がGM務める、ヨーイェル・セミグラッハへ移籍。 当時はFWとしてプレイし、力強いドリブルを得意とする選手だった。 英才教育を受けて順調に経験を積むと、15歳で下部組織のキャプテンに就任。この頃は守備的MFとして気迫を前面に押し出すプレイでチームを鼓舞し、泥臭い得点や、多少無理な体勢からでもシュートを狙う姿勢、激しい当たりで相手を制した。180cmと大きくはないが、動きでカバーしている。こうした評価を受けて92年、U-15ドイツ代表へ選出された。 その後、94年にDFへ転向。やはり強烈なリーダーシップを発揮し、最終ラインから大声での指示や、体ごと止める守備で評価を高めた。 95年、18歳でトップチームへ昇格すると、開幕戦でデビューを果たす。見事完封に貢献した。 その後も代表では各年代で選出され、99年U-20WFC予選などを戦った(予選敗退)。 その後、97年に強豪オッフェン・ブルーガFCへ移籍。強固な守備を誇るこのチームでは出場機会を得られず、98年はレンタルで中堅のハインベルグ・ネッヘンへ移籍した。 ネッヘンでは守備の要として期待され、定位置を確保。若さ故のペナルティエリア内での判断の甘さや、激しい気性が影響しての不用意なファールが見られたが、当時のエイシャン監督は辛抱して経験を積ませていった。完全移籍後の00年には副キャプテンも務めた。 DFとしては比較的大ケガが少なく計算できる戦力として貴重である。一方で、重要な試合の前になると集中力を乱し、ケガを負う面も持ち合わせている(近年は改善)。 クラブで出場を続ける中でDFとして成長し、中堅だったチームを02年リーグ4位、03年には2位に躍進させる原動力となった。なお、03年からはキャプテンを担った。 クラブでの活躍に合わせてU-23代表へも招集されるようになり、シドニー五輪出場を目指したが予選で敗退した。自身は最終予選の途中でケガを負い離脱したが、キャプテンを任されていた。 02年にはA代表にも選出されたが、WFC本大会のメンバーには入らなかった。 04年、初出場のECLで安定したプレイを見せ、シーズン後半はスペインのアルトウェーボへ半年間のレンタル移籍。ケガもあって満足な結果は出せず復帰したが、その後は再びCBのレギュラー、キャプテンとして活躍した。 05年にリーグ優勝を達成し、06年からはエイシャンが監督を務める、サシャーユのリードンFCでプレイ。孤軍奮闘も空しく07年に2部降格を喫するが、大方の予想を裏切って残留。キャプテンとして一年での1部復帰に貢献した。現在は新監督下でも信頼を勝ち取っている。 クラブでは高い評価と実績を残しているが、やや警告が多いこと、ドイツ代表DFに大柄な選手が多いこともあって、180cmのブリーマンは05年以降選出されていない。 マリアン・プーマル Marian Purmal FW 1974年、ラトビア北部のバルーシュ生まれ。地元のアマチュアクラブで6歳からサッカーを始めると、基本に忠実なプレイで信頼を勝ち取った。その評価は当時全国レベルであり、11歳でボル・ミセントへ入団後、14歳で強豪ニーズ・キラスティアへ移籍を果たした。 キラスティアではテクニックに磨きをかけ、高いシュート技術をマスターした。また、16歳で身長184cmの筋肉に恵まれた体格を手に入れ、圧倒的なボディバランスを誇った。才能を見込まれてFWとして育てられると、ポストプレイやヘディングでのチャンスメーク、高い決定力を武器に、下部組織で得点を量産した。 その後17歳でトップチームデビューを果たすと、エースFWとして君臨して二桁得点を記録。92年は攻撃サッカーを標榜するチーム戦術を牽引する存在となり、17得点を挙げて18歳で得点王に輝いた。 この活躍を受け、93年にロシアのペゼル・ベルガナードへ移籍。ケガやチーム戦術で当初は出場機会が限られたが、95年に7得点、96年には10得点と着実に信頼を得た。97年、ECLへ初出場。世界的には全くの無名だったが、グループリーグでアトレチコ・リバリア(スペイン)戦で2得点を挙げるなど、一躍注目を浴びた。 この年のECLの活躍で評価を高めると、98年にアトレチコ・リバリアへ移籍。この時の移籍金は、当時のラトビア人選手最高額だった。 なお代表歴は、U-16、18、20、23と各年代を経験し、92年にはA代表に初招集された。 アトレチコでは2年目から攻撃の中心に据えられ、99年に17得点9アシストで得点王に輝き、チームMVPを受賞。華麗なテクニックと高い決定力を武器にスペイン屈指のFWとなり、00年に常勝軍団ベルセーナへ移籍した。しかし、長年の試合で腰を痛めて満足な出場機会を得られず、また潤沢な攻撃的タレントとの競合もあり、一年でアトレチコへ復帰した。 その後03年に再びベルセーナへ移籍し、2年間プレイした。04年は22試合の出場ながら9得点を挙げ、健在ぶりをアピールしている。 その後はスタミナ不足の指摘や慢性的な左足痛で出場機会を失い、05年からはロシアのペゼル・ベルガナードへ復帰。06年にブルガリアの強豪カテラスラFCへ移籍した。ブルガリアでは後半からの出場が主ながら、健在のシュート技術で得点を量産し、06年に15得点で得点王となっている。しかし腰と左足のケガでフル出場は叶っていない。 09年、経験と実績、未だ衰えない技術を期待されてサシャーユのデミンガムFCへ移籍した。チームに高いプロ意識を植え付け、チームの雰囲気作りに貢献。プレイでもスーパーサブとして7得点を挙げた。 なお代表では、92年から継続的に招集され、キャプテンも務めるなどエースとしてプレイした。04年ヨーロッパ選手権では中心選手としてプレイし、強烈な印象を残している(2得点)。しかしWFC出場は叶わず、09年以降の招集は無い。 また、流れの中からのシュートに対し、PKやFKの失敗は多かった。 セルジオ・ディオーネ・エル・ジョルバ Sergio Dione Elee Jorva “SERGINHO” MF 1974年、ブラジルの首都ブラジリア生まれ。1歳でサッカーボールを蹴り始めたと言い、少年期にはストレートサッカーでブラジル特有のテクニックを磨いた。 86年、名門サントミオFCの入団テストに合格し入団。3度ブラジル全国選手権3部のクラブへレンタル移籍するものの、90年にはサントミオでトップチームデビューを果たした。 FWとMFをこなし、完璧な基本テクニックと運動量を兼ね備えた選手として重用された。 特に91年は24試合に出場し4得点など、将来を嘱望される存在となった。この頃は派手な創造性溢れるテクニックも披露し、「最高に難しく楽しいサッカーをする選手」と称された。 91年、U-17代表に選出されてU-17WFCへ出場。MFとして中盤のどのポジションもこなしたプレイが目に留まり、92年にイングランドのテルファーFCへ移籍した。 テルファーでは小柄で(当時の身長は169cm)目立たなかったが、相手を翻弄する高いテクニックで次第に高い評価を受けていった。93年にはトップ下としてトップチームデビューも果たし、この年は2得点を記録している。 そして95年、下部組織から正式に昇格し右SMFに定位置を確保する。いきなり31試合に出場し、7得点7アシストを挙げた。高いテクニックとパスセンスで攻撃面において貢献し、21歳にしてECL出場も果たしている。 この活躍で、96年に念願のブラジルA代表へ選出。代表ではCMFを担うことが多かったが、中盤からのボール配給能力は変わらず、攻撃面を牽引した。運動量と攻撃力を両立し、なによりブラジルの伝統「魅せるサッカー」を体現する存在として、国民の期待を背負った。 98年WFCメンバーにも選出され、本大会でも得点している。その後も99年と01年のコパ・アメリカでは主力として活躍した。 その後テルファーではSBとしてもプレイしていたが、99年に高額の移籍金でアルベールへ移籍。ここではWGとして起用され、新たな領域を開拓した。00年のECLでは5得点を挙げている。01年、イタリアのポクリティスへ移籍。創立15年目で上位に食い込む新興クラブに経験を伝える意味でも貢献した。 90年代後半から00年代初頭は心身ともに充実した時期で、代表でも中心選手だった。だが、02年の右足骨折で同年WFC出場はならなかった。 02年の骨折を機にポジションを失い、04年にドイツのザーウカイツァルへ移籍。06年はサントミオへ復帰した後、07年にアルベールへ再び移籍した。30代になり運動量は落ちたが、魅せるテクニックとパスセンスは健在で、中盤の底に定位置を確保。この年30試合で4得点6アシストを挙げている。しかし08年は後半から体調不良となり長期離脱。なかなか復帰できない中、09年からはサシャーユのデミンガムFCへ移籍し、シーズン中盤から復帰した。 代表では、02年以降も招集されていたが、徐々に立場を失った。06年WFCメンバー入りを最後まで争ったが、最後は若手に破れ出場はならなかった。ブラジル代表として57試合に出場しているが、最後の出場試合は07年である。 ポール・グリー Paul Gree DF 1979年、アイルランドのボウストカン生まれ。6歳でサッカーを始めると、12歳でボウストカンFCへ入団。下部組織では強いボディバランスとロングパスの高い精度で定位置を勝ち取っていった。 14歳でU-14代表へ選出されると、15歳でイングランド3部のノース・カイルティングへ移籍。ここでは左SBとして起用され、16歳でキャプテンも務めた。 その後、左サイドの様々なポジションを経験。18歳の頃はWG、19歳ではSMFでプレイしたが、高いレベルでこなした。 97年にはトップチームデビューし、カップ戦でベスト16入りする大躍進に貢献した。 こうした活躍を受け、97年にU-20代表へ選出された。 98年、2部のサウザン・ユーティリスへ移籍。移籍直後からトップチームでプレイし、99年には1部のベイゲート・リールへ移籍を果たした。リールではSBを任され、特に高い精度のクロスはリーグ屈指のレベルだったという。 この年、A代表へ選出。代表ではWGでプレイした。02年にはWFCにも出場し、本大会で2試合に先発した。 04年、1部の名門アルベールへ移籍。しかし各国代表級の集まる中で定位置は掴めず、05年にサシャーユのサシャーユFCへ移籍した。 サシャーユFCでは当初WGでの起用が考えられていたが、チーム事情もあってSBでの起用が増えていった。低い位置から前線へ駆け上がり、シュートまで持ち込むプレイが増え、攻撃的SBとしての地位を確立した。05年はレギュラーとしてプレイし、SBとして6得点7アシストを記録している。 代表は04年以降遠ざかっていたが、この活躍で再び招集されている。国内外のクラブから獲得の噂が聞こえて来たが、06年に左膝に大ケガを負い、全治9か月で離脱を余儀なくされた。 この影響で再び代表から漏れ、現在まで招集は無い。 07年シーズン終盤に復帰を果たすと、スピードが衰えたものの、ケガを恐れない激しい当たりは健在。クロス精度も高く、08年からは再びレギュラーの座を奪い取った。08年はリーグとカップでの2冠達成に大きく貢献した。 代表は未だ再招集は無いが、クラブでの活躍が評価され、代表候補に復帰した。 アレクサンドル・メイヤー Alexandre Mayer MF 1984年、フランスのパリ生まれ。7歳でサッカーを始めると、10歳で、当時2部のカジョーFCへ入団した。当時はテクニックで翻弄するFWとしてプレイし、そのシュートは芸術的とも称された。 その後14歳でルエンへ移籍し、若手育成の定評のあるクラブで出場機会を増やしていった。99年にはルエンの下部組織選抜として全国大会へ出場し、4得点を挙げている。 00年にミルセボンへ移籍し、大きな期待を受けて育成された。 代表歴は早く、00年にはU-16代表に選出されてU-16ヨーロッパ選手権にも出場している。FKのキッカーを任され、直接得点を狙うことも多かった。 その後はU-17代表へステップアップし、01年のU-17WFCへ出場。フランス代表のメンバーとして、優勝に貢献した。この大会では直前で定位置を失ったものの、精度の高いキックや独特の攻撃のリズムを期待されて途中出場が多く、3得点を挙げている。 こうして様々な試合で経験を積むと、下部組織でも結果を残し続けた。01年に下部組織で30試合27得点を記録し、02年にはトップチームデビュー。この年は4試合で2得点と期待に応えている。 しかし、03年は11試合連続無得点など調子を落とし、FWとしての自信を失っていった。そうして05年には、運動量を評価されてMFへコンバートし、主にSMFでの出場が増加した。SMFでは積極的なチェイスが多く見られ、隙を見てのシュートで定位置を確保。05年は最終的に、24試合で4アシスト3得点を記録した。 U-17以降は代表から一時遠ざかったが、05年にU-21で代表復帰。06年のU-21ヨーロッパ選手権(U-23世代が対象)に出場を果たしている。この大会ではSMFとしてプレイした。 06年、エラセナへ移籍。ここではSMFとしての突破力、守備に加え、中盤から攻撃を組み立てる役割を任されることもあり、攻守の両面での意識が高まったという。 08年、才能に惚れ込んだシミズ監督の熱烈なオファーを受け、A代表歴の無い選手としては破格の19億円の移籍金で、サシャーユのサシャーユFCへ移籍した。ここでもSMFで定位置を確保し、一年目から30試合に出場している。 こうした活躍を受け、09年にフランス代表へ初選出。WFC予選にも出場した。フランス代表としては比較的遅いA代表デビューだったが、10年WFCの本大会メンバーにも招集され、次世代の代表を担う存在として期待されている。 10年以降はイタリアやフランスのクラブが獲得に動いていると言われる。ただし、08年に4年の長期契約を結び、移籍金も更に上昇していることなどから、移籍は現実的でないとされる。 ゴウリー・イルメンタル・ブヌ Goeury Illmental Bunuu MF 1986年、マリのジェカルチ・カルル生まれ。8歳でサッカーを始めると、ストリートサッカーでテクニックを磨いた。アフリカ人特有の身体能力は、アフリカ内では平均的なレベルであった。しかし、努力を惜しまない性格で技術を磨き続け、13歳でフランスのエールイールが開設するアフリカサッカースクールへ入学を果たした。高い学費が必要であったが、その生活態度とリーダーシップの高さを評価され、異例の「模範生扱い」で学費免除となっていたという。当時はFWとしてプレイし、ゴール前での落ち着きは高いレベルにあった。 だが、生活面での評価と裏腹に、なかなかプレイで結果が出せなかった。試合出場すら満足に出来なかったが、18歳での卒業が迫る中で開催されたアフリカユース選手権にエールイール選抜のメンバーとして出場。当初はベンチメンバーであり、学生たちへの広い人望と熱い人柄を評価されベンチから鼓舞する役割を期待されていた。だが、主力のアクシデントで試合に出場すると、2試合で3得点を挙げ、04年にエールイールへの入団を勝ち取った。 エールイールではFWとして大きな結果は残せず、05年に2部ユーベルポッケへレンタル移籍。ここではチームプレイに徹する性格とテクニックを見込まれ、攻撃を組み立てるSMFとして起用されている。安定した出場機会を得ると、06年に完全移籍を果たした。この年クラブの1部昇格に貢献すると、07年はサシャーユのエミールジュールへ移籍した。 エミールジュールでは当初、FWやSMFとして構想されていたが、中央で得点を狙う役割も期待されてOMFとして起用された。アフリカ人特有の身体能力の平均値の高さに加え、攻撃面で決定的な仕事を出来る技術、戦術理解度は高く評価されている。 08年からは主力となり4位躍進に大きく貢献。自身も6得点11アシストを記録した。 代表としては、04年にU-18代表候補、06年にU-20代表、08年にはU-23代表に選出されている。U-23代表としては北京五輪出場を目指したが、予選で敗退した。 09年はA代表にも初選出された。アフリカの代表チームに特有の個人能力に頼ったプレイではなく、チーム戦術を重視するマリ代表にとって欠かせない存在として、今後を期待されている。中盤で丁寧に組み立てる能力で重用され、09年の親善試合ポルトガル戦でデビューを果たした。だが、代表では繋ぎ役に徹するあまりシュート数が極端に少ないとの批判もある。 10年アフリカ選手権本大会にも出場し、健闘を見せた。 その後もクラブでは、OMFとして出場を続ける。時にはSTやSMFとしても出場している。 サシャーユに来てから大学にも通い始め、経営学やスポーツ生理学を学んでいる。08年、母国マリにサッカースクールを設立。低い学費で講習を受けられる他、全寮制として生活や食事の栄養面でも万全のサポートを敷いている。自身も講師として積極的に指導し、国内外での試合参加の他、エミールジュールと選手交換契約をし、有望な選手を健全・優先的に入団させる方針をとっている。 こうした功績から、現役選手としては異例の「サッカー健全普及功労賞」を、10年にIFFAから受賞している。 フリストス・グレイディトス Christos Graiditos DF 1982年、ギリシャのステルコアニ生まれ。10歳でサッカーを始めると、長身を生かしたパワフルなプレイで注目を集め、12歳でプロクラブ、セリコナイアスFCと契約を結んだ。17歳でU-17代表へ選出されるなど評価を高め、18歳で強豪タニクパイルスへ移籍した。 タニクパイルスでは下部組織で経験を積み、187cmの体格を生かしたDFとして活躍。19歳でトップチームデビューを果たした。02年には主力CBとしてプレイし、リーグ2位、カップ戦準優勝に貢献している。 こうした活躍を受け、02年にはA代表にも初選出。アメリカ戦でデビューを果たした。同時にU-20、23代表にも招集され、守備の要として常に中心選手として重用されている。 04年、クラブではリーグ優勝を経験。翌年にはECLにも出場した。191cmの長身で空中戦と対人守備には絶対の自信を持ち、身体能力を生かして守備を統率した。 この活躍により、A代表でも主力となった。WFC予選でも継続的に招集され、屈強なギリシャDF陣の中でも存在感を魅せている。04年にはヨーロッパ選手権にも出場し、直前のケガで控えとなりながらも優勝を経験している。同じ年にはU-23代表としてアテネ五輪にも出場した。 この活躍で注目を浴び、06年にスコットランドのセント・カイルへ移籍。よりフィジカルの必要とされるこのリーグでも圧倒的な守備力を見せ、一年目からカップ戦で優勝を勝ち取った。07年にはドイツのハルシールAFCへレンタル移籍。08年はギリシャに復帰し、AZKベルキオンでプレイした。 近年は空中戦と対人守備の強さはそのままに、経験で培った読みの鋭さが増している。スピードは速くはないが、読みによる動き出しとカバーリングも評価は高い。セットプレイでのヘディングも貴重な得点源であり、04年にはシーズン5得点、06年はカップ戦決勝で2得点を記録している。攻撃面での高さとセットプレイを期待され、試合終盤にパワープレイ要員としてFWでプレイすることもある。 AZKベルキオンでは万年下位のチームの6位躍進の原動力となり、09年はサシャーユの強豪エルナントFCへ移籍した。3バックと4バックで迷走するチーム内で柔軟に対応し、高いレベルで守備陣を統率、定位置を確保した。 代表では長年にわたって主力として活躍し、08年ヨーロッパ選手権でもプレイ。10年WFC予選にも出場した。ヨーロッパ予選を勝ち抜き、本戦メンバーにも選出された。自身もヘディングで得点している。 セルジ・カンテ Sergi Kante GK 1978年、スペインの首都マドリード生まれ。幼い頃からスポーツに親しみ、6歳でサッカーを始めた。10代前半は柔道や水泳、バスケットにテニスを嗜んでいたが、父親が元サッカー選手だったこともあり、13歳からはサッカーに本格的に取り組んだ。 14歳で2部デッカリへ入団すると、瞬発力を生かしてGKとしてプレイ。小柄ながらも判断の早さは高く評価され、16歳にしてU-18カテゴリでプレイしていた。 19歳でトップチームへ昇格を果たすと、シーズン終盤から正GKとなった。97年は14試合に出場し8失点と3部降格から救う活躍を見せ、98年に2部の強豪ペルキントへ移籍した。 身長は180cmとGKとしては小柄な選手であったが、判断スピードと瞬発力、驚異的な集中力で多くのピンチを防いだ。特にPK戦では圧倒的な強さを発揮し、97年には5試合連続PK阻止の記録を残している。 ペルキントではケガに悩まされ、期待されていたU-23代表入りは見送られた。00年に出場機会を求めてアントレミーゴ(2部)へ移籍し、01年はアルコン(2部)へ移籍。大柄なGKが重用される中でなかなか出番を掴めない生活が続いた。 02年序盤、アルコンで1年ぶりとなる出場を果たし、完封に貢献。久々の実戦でも反射神経・瞬発力の高さを見せつけ、控え時代に磨いたキック精度で攻撃面でも活躍した。この結果、シーズンを通して出場を果たし、チームの4位躍進に貢献した。 しかし一方で、ハイボールの処理やパワープレイでの交錯には弱さを見せる。だがそれも果敢な飛び出しで防ぐことが多い。 03年、1部のクールマルスへ移籍。守備陣の固定していなかった状況において、多くのシュートを防いで一躍スペイン中の注目を浴びた。 05年、アルコン時代の監督が指揮する、サシャーユのツールへ移籍。ここでの活躍が認められ、06年はサシャーユの強豪サシャーユFCへ移籍し、正GKとしてプレイしている。07、08年のリーグ連覇に貢献し、08年はカップ戦でも優勝。決勝のPK戦では5人全員をストップする大活躍を見せる一方、決勝点も自身のロングフィードから生まれている。 ECLでも最後の砦として君臨し、好プレイを連発している。なお、成人後も身長は僅かながら成長し、現在182cmである。 活躍の一方で、未だに各年代、A代表ともに選出は無い。理由としては180cmと他の選手と比べて小柄なことや、スペインがGKの人材に恵まれていることなどが挙げられる。 こうした経緯から、サシャーユ国内では帰化しての代表入りを望む声もある。07年にはサシャーユ人女性と結婚するなど、14年WFCを目標にした帰化の噂は消えていない。 こうした報道に対してカンテはノーコメントだが、永住権を申請したり、息子に関しては二重国籍とするなどの動きを見せている。 ダニエル・ベミアン Danijel Vemian MF 1983年、セルビア(旧ユーゴスラビア、セルビア・モンテネグロ)のオルゲ・ニカ生まれ。6歳でサッカーを始めたが、ユーゴスラビア解体に揺れる91年、家族でスイスへ移住。本格的にサッカーに取り組み、9歳でプロクラブ、FCスヴェルコフへ入団した。 トリッキーなプレイを見せるFWとして自由奔放にプレイしていたが、年齢を重ねるうちに組織プレイに感化され、14歳の頃には「戦術マニア」として知られる存在となっていた。 15歳で知将ガルグオンニが指揮するFCフェールスブルグへ移籍。自身はSMFとして、スピード溢れる突破、1対1の強さを発揮してプレイした。 18歳でトップチームへ昇格を果たすと、対人の強さを見込まれてSBとしても起用された。ガルグオンニの下で流動性溢れるサッカーを学び、多くのポジションを経験した。多くのシステムと戦術を駆使する監督の薫陶を受けながら知識と経験を吸収し、FWと全ての中盤、SB、CBをこなすことの出来る柔軟性を手に入れたという。それぞれの位置を一定以上のレベルでこなし、戦術の幅を広げる役割を果たした。本職のSMFでは攻撃的にプレイしたが、中盤の底やDFとしては当たりの強さ、ボール捌きを駆使している。 だが便利屋的役割から完全には脱却出来ず、スーパーサブとしての位置付けに留まっていた。 それでも、戦術理解度の高さなどから多くの期待を集め、99年にU-17、02年にU-19のカテゴリでスイス代表に選出された。祖国セルビア・モンテネグロと移住先のスイスの二重国籍だったためにセルビア・モンテネグロ代表入りを当初望んでいたが、セルビアサッカー協会からは当時、招集に関する問い合わせなどは無かったという。その後スイス代表として戦ったが予選で敗退し、99年のU-17WFC、03年のU-20WFCへの出場はならなかった。 03年、出場機会を求め故郷セルビア・モンテネグロのゴニール・カプレコへレンタル移籍。ここではFWとしてプレイし、ポストプレイや豊富なスタミナを生かした運動量で評価を得た。20歳にしてシーズン7得点を挙げ、「セルビア期待の若手選手賞」も受賞している。 こうした評価の高まりを受け同年、スイスサッカー協会からU-23、セルビア・モンテネグロサッカー協会からはA代表の招集を受けた。熟考の末、セルビア・モンテネグロ代表を選択しIFFAにも正式に承認、04年に国際親善試合のラトビア戦でA代表デビューを果たした。同時にU-23代表でもデビューし、04年にアテネ五輪にも出場している(1試合出場)。 04年からはゴニール・カプレコへ完全移籍し、04年に11得点、05年に10得点と活躍。06年にはオランダのエクシュルファンサールへ移籍し、ここではSMF、WGとしてプレイした。 07年、サシャーユのFCトレンド・ファンへ移籍。ここでは中盤で攻守に貢献し、WG気味のSMFとして、CMFとして、時にはアンカーとしてフル回転している。08年にはリーグ2位に貢献した。現在は欠かせない存在である。 代表では06年WFCへ出場(1試合途中出場)。その後セルビア・モンテネグロの分裂によりセルビア国籍を選択している。セルビア代表としては主力の座を勝ち取り、08年北京五輪にオーバーエージで出場した他、10年WFC予選でも活躍。代表では堅守の一角を担うSBとして、時にはゲームメイクするSMFとしてサイドを疾走し、本大会出場に導いた。 フランシス・ミシューマ・モンク Francis Mishima Monk MF 1976年、フランス南部のアルル生まれ。5歳でサッカーを始めると、8歳で古豪FCモンテサンテルへの入団が許された逸材だった。当時はDF、MFとしてプレイしていた。 10歳でDFへ専念するようになると、驚異的なジャンプ力で周囲の評価を得た。体の使い方のセンスも高く、「モンテサンテルのCBは30年安泰」と言われるほどの期待を受け、順調に下部組織のカテゴリを登っていった。ボールに向かう気迫は群を抜いており、タッチラインを割るまで全力で走る姿勢は相手選手に対し、威圧感を与えるプレイであった。 しかし、モンク自身の希望は攻撃的選手であり、起用に不満を抱いていた。当時の下部組織監督に直訴したが聞き入れられず、守備でも調子を落とした。それでも耐えて練習に続けた結果、94年にMFとしてトップチームデビュー。それまでMFの経験は殆どなかったが、無尽蔵のスタミナと身体能力の高さを評価され、中盤の汗かき役としてサブ的に起用された。 170cmと小柄なこともあってCBとしての大成が難しかったことも理由にあるとされるが、モンクはこのチャンスで結果を出し続け、トップチームで地位を築いていく。 95年は主力ボランチとして起用され、体幹の強さで攻撃の芽を摘んだ。アンカーの為に思い切りのいい攻撃参加は出来なかったが、精度の高いミドルシュートを武器に攻撃面での評価を高めた。96年にはトップ下を任され、泥臭くゴール前へ飛び込むプレイ、積極的なシュートでシーズン6得点を挙げている。モンクのシュート後にこぼれ球からチャンスが生まれることもあり、97年も引き続き攻撃的な位置で起用されている。 98年にはトップ下、CMF、DMF、CBとセンタープレイヤーとしてプレイの幅を広げ、身体能力と積極的な姿勢を武器に、一定以上のレベルでこなした。失敗を引き連らずにプレイすることが出来、シーズンを通して安定感のあるパフォーマンスを見せた。一時は情熱を失いかけ上層部も大成は諦めたCBでは、MFでの経験を積むことで読みやカバーリング能力を身につけている。最終ラインから高い技術で攻撃につなげることも出来、センターのポジションならどこでもこなせる器用さから、歴代の監督に重宝された。 代表としては、95年にU-20、96年にU-23代表候補入り。01年にA代表に初選出されたが、分厚いタレントの中で実力を発揮出来ず、定位置確保はならなかった。 02年、STとしてヴォーエへ移籍。03年にはドイツのケイルハリエFCへ移籍した。ドイツでは慣れないサイドでのプレイが多く調子を落としたが、05年に移籍したサシャーユのFCトレンド・ファンではCMFでプレイし、中盤のバランサーを担っている。ケガ人が出た時にはそのポジションを埋める働きも見せる。 代表には05年に復帰。WFC予選にも参加し、06年WFC本大会メンバーにも選出されたが、直前のケガで辞退した。大会後は一時遠ざかったが07年に再び選出された。08年ヨーロッパ選手権にも3試合に出場した。CMFで起用されると好プレイを見せるが、不得意なSBで起用され続けている。10年WFC初選出。 母方姓の「ミシューマ」は由来が不明で、一説では日本人の姓「三島」と関係あるという。 ジョバンニ・フェリッティ Giovanni Ferretti DF 1985年、イタリアのナポリ生まれ。6歳でサッカーを始めると、10歳から本格的に取り組んだ。それまでは水球に熱心であったという。 96年、地元のナポリFCへ入団。同クラブで選手だったこともある父親が下部組織の育成責任者だったため、当初はその実力を疑問視されていた。しかし、12歳でDFになると実力を発揮。1対1の強さは群を抜いており、評価を高めた。 その後も下部組織では主力として活躍し、18歳でトップチームにも昇格。185cmの恵まれた体格と、当たり負けしない空中戦と対人の強さで、少ないながらも出場機会を得ていった。 一方で、16歳からはFWにも挑戦。体を張ったポストプレイや競り合いの強さを発揮した。17歳で出場した全国クラブユース選手権ではFWとして得点を記録している。 04年、出場機会を得るためにセリエBのフィジリオCCへ移籍。05年には父親が監督を務めるセリエBチッコリーネへ移籍した。2つのクラブでは2年間で40試合以上に出場し、実践で守備を学んでいる。 06年、チッコリーネの1部昇格に貢献するが、一年で降格が決定。これを機に、サシャーユの強豪、前年優勝のトリーニョCDへ移籍した。一年目の08年はいきなり守備の要に抜擢され、CBとしてプレイ。若さ故に不用意なファールや集中力切れが指摘されているが、徐々に経験によって改善されている。 一時期はFWだったこともあり、足下の技術は比較的高い。最終ラインから攻撃に発展させることの出来る貴重な存在である。また、セットプレイ時には打点の高いヘディング、競り合いからのシュートを決めることもあり、攻撃のバリエーションを増やしている。 代表歴は未だ無い。 ルチアーノ・デ・マルコ Luciano De Marco MF 1980年、イタリアのフィレンツェ生まれ。6歳でサッカーを始めると、11歳でダーイオテーレ(セリエC1)へ入団。10代前半は守備的なMFとして、攻撃を摘む役割を担った。 その後14歳でSSCパドヴァへ移籍すると、磨いたテクニックを駆使する技巧派MFとしてプレイ。OMF、トップ下として中盤から攻撃を組み立てた。 長短のパスを駆使し、決定的な場面を作り出すプレイスタイルは高く評価され、96年にカンポーズへ移籍。その後17歳でトップチームへデビューし、デビュー戦でいきなり得点する活躍を見せた。 こうした攻撃的センスを評価され、96年にはU-16代表へ選出。99年にはU-20代表にも選出されている。 その後もクラブでは流れを変えるスーパーサブとして起用された。「先発で出すべき選手」との見方が多かったものの、FW並みのマークを受けるトップ下に耐えうる強さは無く、また運動量の少なさから途中出場・途中交代が主だった。 それでも00年は26試合で3得点6アシストを記録し、U-23代表へ選出。20歳と若かった為にシドニー五輪メンバーからは漏れたが、見る者を魅了する鮮やかな攻撃的センスを、切り札として期待する者は多かった。 だが、クラブと代表で大きな期待を受けながらも、ケガや監督の交代、前述の理由などがあって徐々に出場機会を失っていった。 02年、出場機会を求めてハミケーレFCへ移籍。しかしケガで満足な体調すら整わず、03年にはトリエステ・デFCへ移籍している。ここではWGやSBにも挑戦したが、結果は残せていない。 04年、セリエBのシリーニアへ移籍し、トップ下でプレイ。運動量の少なさは見られたが、攻撃面での貢献を考え、守備は事実上免除されていた。この戦術で序盤戦こそクラブは好調を維持したが、デ・マルコの不調と共に失速。結局、チーム内の不和も生み出して一年で退団となった(このシーズンは30試合で6得点7アシスト)。 05年、心機一転を求めて海外移籍を模索し、サシャーユのトリーニョCDへ移籍。ここではイタリア人のジョビリッコリ監督の指導の下、CMFへ本格転向。トップ下ほど当たりの強くない位置から攻撃を司る動きを見せ、定位置を確保。運動量にも改善が見られ、積極的な守備でも貢献した。 運動量が増えたことで、攻撃面では自ら得点を狙う動きが増えている。元々精度の高く得意としていたFKだけではなく、ゴール前への走り込みや思い切りのいいシュートを放ち、「パスの出し手だけ」のイメージから脱却している。 現在もCMFや、時にはトップ下でも出場し結果を残し続けている。 代表歴はU-23以降無いが、デ・マルコの復活を願うイタリア人ファンは多く、復活した現在、A代表入りを望む声は絶えない。06、08、09年に、A代表候補に選出されている。 ロベルト・カミーラ Robert Camilla MF 1986年、ポーランドのエルヴォニツク生まれ。6歳でサッカーを始めたといい、10歳で地元のアマチュアクラブでプレイしていた。 そこでのプレイが目に留まり、12歳でプロクラブ、シュキポルドニツクSKへ入団。当時はスピードに優れたFWとして、得点を多く挙げていた。 14歳でSFKヴィル=ゲニアワへ移籍。ここではMFとしても起用され、中盤から前線への飛び出しを磨いたという。スピードは大きな武器で、自分で決めにいく動きは「積極的である」と高く評価された。 その後、16歳で出場したU-17クラブユース選手権で挙げた2得点が評価され、強豪リムーデ・クロセフへ移籍。ここでは次世代を担うFWとして育成され、18歳でトップチームデビュー。05年には17試合で3得点を挙げた。 しかし定位置を確保するほどの実績を残すことは出来ず、控えに留まった。試合終盤などにスピードで攻撃のリズムをかえる役割を担い、途中出場が殆どだった。 リムーゼ・クロセフでは生粋のFWとして育てられたが、当時のチーム戦術であった1トップに耐えうる体でなかったこと(身長171cm)、シュート精度がなかなか向上しないことなどから、次第にベンチ外になることも増えていく。 そうして殆ど出場機会を失った07年、レンタル移籍で、業務提携先にあったフランス1部のセルーゼへ移籍した。 セルーゼでは突破力とスピードだけに頼らず、広い視野と判断力の早さを生かす為にMFとしても起用された。OMFとして徐々に出場機会を増やし、後半戦はレギュラーの座を勝ち取っている。 レンタル終了後に復帰すると、再びFWとして起用された。調子を落としかけたものの、08年にサシャーユのバンザウェイ・ヘンデリッターズへ完全移籍。ここではMFとして構想されており、特にSMFでの起用が増えた。サイドに攻撃の起点を作る戦術に見事合致し、一年目から欠かせない存在となった。 特徴はやはり、天性のスピードと突破力。また、広い視野を生かして味方を動かすプレイも得意とする。FW時代に磨いた攻撃的センスに加え、1対1での強さによる守備でも貢献が光る。09年は33試合で4得点7アシストと、数字による結果も残している。左足での強烈なシュートは大きな武器で、右サイドから切れ込んで左足からゴールを狙う。 また、10年からはチーム戦術に合わせて2トップの一角でもプレイする。 各年代別の代表歴は無いが、サシャーユでの活躍を受け、08年にA代表へ初選出。代表でもサイドでのプレイを任されている。08年ヨーロッパ選手権メンバーにも選出され、途中出場ながら2試合に出場。その後の10年WFC予選では主力となり戦ったが、予選で敗退した。
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by remarkabler | 2010-02-17 03:09

サッカー2

アンドレイ・アイマノビッチ・ヤンベルスキ Andrei Aimenovich Janberski MF 1976年、ロシアのソロエヴィエロ生まれ。9歳でモスクワへ移住し、ロシアリーグ1部の強豪ゲセル・マリンへ入団した。下部組織で順調に経験を積むと、92年にU—16ロシア代表へ選出。以降、体幹の強さと無尽蔵のスタミナ、激しいタックルによるハードマークを武器にして、またCBやSBもこなせる守備的選手として、地位を確立していった。 18歳でトップチームへデビューすると、控えながらもシーズン23試合に出場。ECC準決勝へ進出したチームを支える働きを見せた。このプレイが目に留り、96年にイタリアのウダイセクタCCへ移籍。名将グラム監督の下で重用され、97年には21歳でリーグ優勝を経験した。イタリアでは、従来の守備的要素だけでなく、サイドへ流れての攻撃参加などを習得。プレイ範囲の広さを生かして、試合中にポジションを頻繁に変えることも出来るようになり、「グラム戦術の申し子」との評価を得た。 一方で、そのプレイスタイルやラフプレイ、試合中の暴言なども合わせて「ロシアの闘犬」と呼ばれていた。イエローカードが多かったが、一発退場は意外にも少なかった。 代表へは、96年に初選出。97年に初得点を決めるなど、チャンスを確実に物にしていった。代表では97年から00年にかけて、DMFとして不動の地位を確立。特に、00年のヨーロッパ選手権予選ではことごとく相手の攻撃の芽を摘み、守備で貢献している。本大会出場はならなかったが、強烈な存在感を放っていた。 しかし、このヨーロッパ選手権予選敗退の批判の中心となったことやケガ、戦術の変化で出番が限られるようになっていく。 00年のヨーロッパ選手権後、イタリアの強豪ベナーロへ移籍。ウダイセクタ時代にリーグ優勝2回、国内カップ優勝1回、ECLベスト4など輝かしい実績を挙げたが、移籍直後の練習試合で右足を骨折。結果、シーズン中の復帰はならなかった。その後01年に実戦復帰するものの、調子を上げるタイミングが遅れて02年WFC選出はならなかった。このケガ以降、攻撃面での負担が大きいDMFではなく、CBで守備に専念することが増えていった。 03年、ポルトガル1部のフィルッカへ移籍。主にSBとしてプレイした後、05年はゲセル・マリンへ復帰。代表にも復帰し始めるが、若手選手の台頭やプレイベートでの不祥事などがあり、代表・クラブ共に定位置確保はならなかった。 07年、出場機会を求め、パラグアイリーグのエル・コペルニシオスへ一年間のレンタル移籍。シーズン40試合を戦い抜き、リーグ優勝に貢献。遠ざかっていたDMFへも復帰し、長いスランプを抜け出した。 08年にロシアへ戻ると、キレのある動きで監督の信頼を獲得。3年ぶりに代表へも復帰し、同年のヨーロッパ選手権では控えながらも本大会メンバーに選出されている(2試合出場)。 この活躍を受け、09年に恩師グラム監督が率いるサシャーユリーグFCポンレッチェ・クリムセーラへ移籍。監督自らの説得で移籍を決意したという。 ポンレッチェでも以前のような激しい当たりは健在で、DMFとしてチームの快進撃を支えている。攻撃面での貢献も大きく、再び「ロシアの闘犬」として評価は上がっている。 08年以降の代表からは遠ざかったが、本人は意欲的に復帰を狙っている。 カルパー・チークル Karuper Cheecle FW 1960年、サシャーユの首都サシェリア生まれ。少年時代は水泳に熱中し、サッカーを始めたのは15歳と非常に遅かった。だが、脚力を生かしたジャンプ、一瞬のスピードが評価され、77年にタリヌペイ・リンベルースFCへ入団した。 細い体ながらも得点という結果を残し続け、79年にトップチームデビュー。すると、そのシーズン26試合で18得点を記録し、いきなりトッププレイヤーとなった。中盤のパスの出し手が豊富なタリヌペイにあって、一瞬で抜け出しボールをダイレクトに合わせる技術で得点を量産。リーグ中位に甘んじていたチームを、屈指の攻撃的強豪クラブへと成長させた。 81年にはリーグ戦全試合に出場し、34得点で得点王を獲得。82年にも得点王となった。 79年、パレッチ監督の下で代表に選出。若手選手を重用する監督の嗜好もあって多くの試合に出場したが、連携面で噛み合わず、なかなか結果は出せなかった。 87年、イタリアのハミケーレへ移籍。 アーノルド・エリクビッチ・ベランベローション Arnold Erickbich Veranvuerosson FW 1977年、オーストラリアの首都シドニー生まれ。父親はスウェーデン移民、母親はクロアチア移民の家系に育った。 少年時代はクリケットやラグビーに熱中し、サッカーを始めたのは中学に入ってからだった。地元のアマチュアチームで体格を生かしたFWとしてプレイした。15歳でU-16オーストラリア代表に選出されると、スイスで行われたU-16国際大会へ出場。6試合3得点の活躍が認められ、1994年、17歳でドイツ1部シュベットブルグへ移籍した。 シュベットブルグでは下部組織で経験を積んでいたが、95年にドイツ2部のケイルハリエへレンタル移籍。ここではトップチームで7試合に出場し、プロデビューを果たした。 98年、復帰と同時に再びレンタル移籍が決定し、イングランド2部のホワイトキャッスルへ移籍。ここではレギュラーの座を獲得し、194cmの体格を生かしたポストプレイと強烈なヘディング、高い足下の技術で得点を量産し、27試合14得点を挙げた。 その後シュベットブルグへ復帰するが、00年にホワイトキャッスルへ完全移籍。01年には17得点を挙げ得点ランク2位となり1部昇格に貢献。02年は1部で30試合に出場し、14得点を挙げる活躍を見せた。 代表では、97年にA代表デビュー。父親の出身国スウェーデンでの代表選出の可能性もあったが、早くからサポート体制を敷いていたオーストラリア代表を選択した。同じく選出されたU-23代表でも活躍し、不動のエースとして活躍した。 その後もオセアニアで開催される大会の多くに、日程や地理的状況が難しい場合でも可能な限り出場していた。オーストラリア代表の屈強なサッカーを体現する存在である。 03年に腰痛を発症し、継続的な出場が難しくなったが、パワープレイでの投入などで得点を挙げ続けた。05年、出場機会を求めてイングランド2部のマイルビーチへ移籍したが、腰痛で2試合の出場に留まった。 06年はドイツのシュベットブルグへ復帰し、腰痛が癒えた後半戦から定位置を獲得。11試合で3得点と復活の兆しを見せた。 その後の07年、心機一転を図りサシャーユリーグのヘラルドセンゲンへ移籍。FWの中心に据えられ、08年には自身8年ぶりとなる二桁得点の11点を記録した。 06年WFCにはオーストラリア代表のエースとして出場し、日本戦でも得点を挙げている。オーストラリアがAFCへ転籍して出場した07年のアジアカップでは、本大会だけで3得点を挙げている。 イ・ギョンボム Lee Gyong-Bum MF 1981年、韓国の京蔵道生まれ。14歳でサッカーを始め、景原高校時代には、97年赤球大会へ出場。ストライカーとして6得点を挙げている。 こうした活躍を受け、U-16、19代表を経験。シドニー五輪代表からは漏れたが、アテネ五輪を目指すU-23代表では中心選手として活躍した。 高校卒業後、珍塔ベアーズへ入団。恵まれた体格を生かしたポストプレイと無尽蔵のスタミナを武器に、一年目から7得点を挙げる活躍を見せた。01年にはレギュラーとして30試合に出場し、11得点を記録している。 この活躍を受け、01年には翌年のWFC出場を控える韓国A代表に初選出。限られた出場機会で結果を残し、本大会メンバーにも選出された(2試合出場)。 大会後に海外移籍を希望したが不調に終わり、03年に日本の清水エスパルスへ移籍。04年は横浜Fマリノスでプレイし、15得点を挙げた。 04年はアテネ五輪に韓国代表の中心選手として出場し、グループリーグのトーゴ戦では2得点している。 05年、02年当時の韓国代表でコーチを務めていたグラム監督に招かれ、オランダのヘッテルセDVCへ移籍。しかし、自慢の体格も海外では平均的であり、活躍できない日々が続いた。しかしシーズン途中、強引な突破力とスタミナを生かすため、SMFへコンバート。サイドから縦横に切り込んで攻撃面の仕事をするスタイルに嵌り、結果的に後半戦は14試合にフル出場している。 韓国代表としても、アテネ五輪後はA代表に継続的に招集。FWとしてプレイしている。04年アジアカップ、06年WFCにも出場し、WFCでは先発したトーゴ戦で1得点を挙げた。 クラブでは、07年にグラム監督が退任すると出場機会が減少。08年はオランダ下位のエクシュルファンサールへ移籍。 09年、グラム監督が率いるサシャーユのポンレッチェへ移籍。SMFとしてプレイしている。 その後の代表では、07年アジアカップを始め、10年WFCへ向けた予選などでFWとして活躍。29歳ながら、経験と実績で若手をリードする存在となっている。時にはSMFでも出場するようになり、代表の攻撃バリエーションを豊富にするキーマンである。 ハン・ギヒョン Hon Ki-Hyeon DF 1984年、韓国の網岳山生まれ。94年WFCを見て10歳でサッカーを始めると11歳でヨーロッパへ留学。オランダのBCKアテークカートの下部組織でプレイするなどした。当時はストライカーであり、敏捷性とテクニックで他を圧倒していたという。 96年に帰国後は育成施設で経験を積み、高校は国内の強豪エールテセンタ高校へ入学。エリートを徹底して育てる教育方針の中で、ストライカーとして同級生と切磋琢磨したという。17歳でU-17韓国代表候補にも選出されたが、同年、無理なトレーニングに取り組み過ぎた影響で膝を故障。高校3年の間は公式戦出場0という屈辱を味わった。 高校卒業後、プロ入りの夢は果たせず近洞大学へ進学。大学サッカー部ではボランチに転向し、敏捷性で攻撃の芽を摘み、テクニックでパスを供給する役目を担った。ユニバーシアード代表としても2試合に出場している。この働きが評価され、04年に日本の大分トリニータへ入団した。 大学を休学して本格的に日本でプレイを開始した05年は、31試合に出場。試合に出続けながら体力強化にも励み、182cm、79kgの屈強な肉体を手に入れた。トップ下やCBでもプレイすることが出来、高い評価を受けた。 日本での活躍が報じられると、05年は韓国A代表に初選出。06年WFCメンバーには選出されなかったが、予選も含めて3試合に招集された(2試合出場)。 07年のアジアカップメンバーには選出され、3位決定戦の日本戦に出場した。 06年WFC終了後、オランダのヘッテルセDVCへレンタル移籍。韓国代表コーチ経験もあるグラム監督の下、6ヶ月間で24試合に出場した。 07年に大分へ復帰すると、チーム事情もあってWBやCBでプレイ。ボランチに拘りを持つ本人の意に反して、サイドを機転に攻撃を構築するプレイで、WBとして高い評価を受けた。献身的に動き回ってボールを奪取し、一瞬の動きでパスを出すなど攻守に活躍している。 08年に韓国のソウル・シーガルズへ移籍。ここでもサイドで起用され、献身的な動きとサイドからの攻撃を期待されてSBへ転向している。 代表としては、07年から継続的に招集を受けている。安定したパフォーマンスと、守備的なポジションは殆どこなせるユーティリティー性で重用され、WFCアジア予選ではSBとして不動の地位を確立している。10年WFCメンバーにも選出された。一方で、代表では攻撃意識の低さが指摘されている。 09年、グラム監督が率いるサシャーユのポンレッチェへ移籍。SBとしてプレイする。 ダヴィド・フランコ・レテイタ David Franco Rateita MF 1978年、スペイン南部のウチリコーティ生まれ。7歳でサッカーを始めると、10歳で地元のセミプロクラブ、ウチリコーティFCへ入団している。 その後マドリードへの移住などを機に、14歳でレード・アルミーロの下部組織へ移籍した。当時はCBであり、小柄ながらも読みとカバーリングの能力が高く評価されていた。下部組織ながら、その統率力と守備力で中心選手となり、93年には15歳でU-16カテゴリのキャプテンに就任している。 将来を嘱望された選手であり、93年にU-15スペイン代表へ選出。数々の国際大会に出場した。その後、有名選手を次々と獲得するトップチームへの昇格が果たせないと感じ、17歳でアルトウェーボへ移籍した。 ここでもCBとして活躍し、179cmの体格のハンデを感じさせない働きを見せた。96年から97年にかけては、U-19スペイン代表にも選出され、欧州選手権などで活躍した。特に、97年のU-19欧州選手権では強豪国のFW相手に一歩も引かず、常に高い守備ラインを形成して貢献。隙を見ての上がりにも定評があり、準々決勝のポルトガル戦ではヘディングで一矢報いる得点を決めている。 この大会での活躍を受け強豪クラブへの移籍も囁かれたが、トップリーグで活躍するDFとしては身長が小さかったこと、大会後に精神面で不調を訴えたことで短期間の休養に入った。常に上のカテゴリでキャプテンや責任を負う役目におり、ストレス疾患と診断されている。 この休養により、内定していたレード・アルミーロへの復帰も無くなり、98年まで故障者扱いとなった。その後98年中盤に復帰したが、直後に2部ライモンテへレンタル移籍している。 99年、ライモンテで試合勘を取り戻したが、当時のアルミーロのメッカ監督は「一瞬のミスで多くの責任を負う守備でのプレイに無意識の不安を感じている」とし、復帰は最後までまとまらなかった。それに応えるように、守備に専念するのではなく、自ら結果を生み出すべく一列ポジションを上げ、DMFでのプレイに取り組むようになったという。 01年、1部のオレスナへ移籍。徐々に出場機会を増やすと、チームが5位に躍進した04年は、中盤の底で徹底したカバーリングをしつつ、攻撃面では思い切りの良いパスや上がりを見せて復活を印象付けた。05年のミルセボン(フランス)、07年からの2部デッカリを経て、08年にサシャーユ2部のツーリオ・サルディへレンタル移籍。いきなり30試合に出場し、変則的な守備ラインを見事に統率、カバーリングで高い評価を受けた。クラブは2位で昇格も達成している。 09年からはサシャーユに完全移籍を果たし、1部での戦いにおける中心選手として、活躍が期待されている。 マサヴァド・アウコレイム Masavad Aucoraim MF 1980年、イラン北部のチュテラン生まれ。6歳でサッカーを始め、14歳の頃には「チュテランで最もサッカーの上手い男」と呼ばれていたという。 その後、15歳で首都テヘランのプロクラブ、テヘラン・アジェイドFCへ入団。当時はそのテクニックを生かした技巧派のMFとして知られ、17歳の頃には、主にトップ下で攻撃のリズムを作り上げていた。 97年、U-19イラン代表候補へ飛び級で選出。アジアで行われた数々の国際大会へ帯同したが、本戦出場選手ではなかったため、最後まで出場することは出来なかった。 その後、18歳でトップチームへ昇格し、中心選手として活躍。99年、UAEのアル・ハイーダへ移籍した。19歳にして40億円の移籍金が支払われ、この破格の移籍金により、国際的な注目を浴びた。アル・ハイーダでは、前線へ集まる各国代表、元代表選手たちの競争に破れ、次第に位置が下がり、DMFやCMFでのプレイが増えていった。 その後、01年は同じくUAEのラウディアへ移籍。ここでもOMF、守備的MF共に定位置は奪うことが出来ず、また膝のじん帯損傷の大ケガを負い、出場機会は殆ど無かった。 02年、カタールのアル・ミダデルキSCへ移籍。このクラブでも、前線のタレントからはみ出るようにCMFとしてプレイ。それでも腐らずプレイを磨き続けた結果、04年はCMFながらも攻撃面でのプレイが目立ち、7得点6アシストを記録している。 05年からは、トップ下での起用が増えていった。守備的MFとして培ったボールキープ能力と他人を活かすプレイをトップ下で発揮し、この年は初出場のACLでベスト8に進出した。 代表としては、CMFとしての04年の活躍を受け、イランA代表へ初選出。国際親善試合のアイスランド戦で先発出場を果たした。同年のアジアカップでも本大会メンバーに選出され、中国戦で先発している。なお、アジアカップは07年にも出場した。 その後、本職のOMFでプレイするようになり、06年WFCメンバーにも選出。グループリーグの3試合で先発フル出場している。 WFC後、サシャーユのバンザウェイ・ヘンデリッターズへ移籍。3試合連続得点など攻撃面でインパクトを残したが、シーズン途中に戦力構想から外れ、スペイン2部のデッカリへレンタル移籍。ここでは再び中盤でのプレイが多く、シーズン終了後に自ら復帰を熱望した。 07年、同じくサシャーユリーグのNEZヘラルドセンゲンへ移籍。トップ下の位置で全幅の信頼を寄せられ、降格から救う貴重な得点などを挙げている。パスの精度には磨きが掛かり、またFKにも定評がある。 08年はクラブ、代表ともに多忙であり、一年間で69試合に出場している。この疲労の影響で、09年は開幕から2ヶ月間休養していたが、その後は復活している。 代表としても不動の地位を確立したが、10年WFC予選は敗退している。 クリスティアーノ・アルマンテ Christiano Armonte DF 1982年、ポルトガルの首都リスボン生まれ。11歳でサッカーを始めると、ストライカーとして活躍したという。アマチュアクラブを経て、14歳でリスボン・エーレミーレFCへ入団。下部組織でもFWとしてプレイした。 その後、クラブのU-15選抜としてユース大会などへ出場。その中で手薄だったCBへ回ることが多くなり、17歳で本格的に転向した。 00年、2部のフィラメント・エスコーラへ移籍。激しい当たりが持ち味の戦術で鍛えられ、192cmの長身で不動の地位を築いた。 02年にエスコーラが1部へ昇格すると、その後も中心選手として活躍。昇格一年目にして6位に食い込む原動力となった。 持ち味は体格を生かした空中戦の強さと、素早い寄せ。1対1には絶対に自信を持ち、体ごと止めにいく守備を得意とした。 02年はU-23ポルトガル代表に選出。アテネ五輪を目指すチームで、守備の中心となった。 こうした活躍が認められ、03年はイングランドのトッタム・アイスパーズへ移籍した。移籍直後こそ7試合連続出場したが、しかし、不注意なパスミスや不用意に激しいプレイの悪癖が増え、連携も深められないまま出場機会を次第に失っていった。 04年、リスボン・エーレミーレへレンタル移籍で復帰。ECCへ出場するクラブの中で貴重なCBとしてプレイし、シーズン終盤にはレギュラーとなっている。この頃には集中力を90分間持続することと、不用意なラフプレイは減り、DFとして大きな成長を見せた。この頃からは冷静に試合の流れを読んで試合をコントロールする術に長け、早くからキャプテンを任せられている。 04年のアテネ五輪代表にも選出されたが、直前のケガでレギュラーから降格。守備陣のケガが相次ぎ、9失点でグループリーグ敗退を喫した。 05年にエーレミーレへ完全移籍し、06年にはリーグ2位に貢献している。 その後、07年にサシャーユのサシャーユFCへ移籍。それまで不安定だった守備陣でレギュラーの座を勝ち取り、3年連続で30試合以上に出場を続けている。 08年にはポルトガルA代表にも選出され、10年WFC予選にも出場。本大会メンバーにも選ばれるなど、代表でも地位を確立している。 パトリック・フェルテマーク Patrick Vertemark DF 1976年、オランダ北部の漁村ユーティリア生まれ。6歳でサッカーを始めると、当初は前線でのプレイに喜びを感じ、主にFWやMFでプレイしていた。 14歳で強豪ユーティック・アクセルシュールへ入団。攻撃的な才能豊かな選手が集まる下部組織で、切磋琢磨したという。 前線の選手不足を解消するため、16歳でGKへ転向。その後守備に楽しさを覚え、17歳でCBへ本格的に転向した。当時の身長は181cmで、DFとしては平均的な体格ながらも、前線へのフィードと素早い寄せで評価を上げていった。 19歳でDECジュールメントへ移籍。この頃の身長は191cmであり、当時の薄かった守備陣を支える存在として期待された。若干20歳でレギュラーとなると、下位に沈むチームで孤軍奮闘し、残留に貢献している。 代表歴としては、95年にU-20に選出。ワールドユースでは1試合に出場した。 その後、98年に強豪フェーレンヤンへ移籍。定位置は奪えなかったが、ECLでも2試合に出場するなど着実に経験を積んでいった。だが、出場機会は限られていた。 状況を打開する為、00年のエクセルファンサール移籍を経て、01年にフェーレンヤンのライバルクラブ、オーレンヴァルデへ移籍。定位置を勝ち取り、31試合に出場した。 この活躍で代表待望論が生まれたが、02年WFC予選を戦っていたオランダ代表で連携を深める時間が無いと監督判断、招集はされなかった。結果、代表は予選敗退を喫している。 03年、イングランドのアルベールへレンタル移籍。04年に復帰後もレギュラーだったが、腰痛を発症して戦線を離脱。復帰の目処が立たず、戦力外構想となっていた05年にサシャーユのエミールジュールへ移籍。 06年に復帰すると、豊富な経験と強いリーダーシップを発揮し、CBのレギュラーとなった。それ以来、腰の万全のケアを契約内容に盛り込むことで連続出場が可能となり、常に守備の中心選手である。現在はキャプテンとして精神的支柱とも言える存在であり、07年の3位躍進の立役者となった。そのキック力は強力で、稀にFKでの弾丸シュートを決める。 現在も代表候補には何度も選出されているが、正式に招集されたことは一度も無い状態である。 ナイレフ・バグラントス Nailuh Vagorntoz MF 1984年、トルコのアッティアト生まれ。6歳でサッカーを始めると、ブンデスリーガを見て育ったという。地元のアマチュアクラブでプレイを続けていたが、16歳でプロクラブ、ティカルルFCへ入団した。 ティカルルFCでは体の細さをテクニックでカバーしながら、MFとして攻撃的なポジションを担った。主に下部組織で活躍していたが、安定したトップチーム昇格はならなかった。 決定的なパスを出すセンスと基本的技術の安定感は評価されていたが、レギュラー選手を押しのけるほどのストロングポイントは無かった。01年にU-17トルコ代表にも招集されたが、参戦した大会において出場機会は無かった。 02年のWFCでトルコ代表が3位に入賞したことで若手選手の海外移籍が活発になり、自身も海外志向が強くなっていく。当時国内リーグ3連覇中と絶対的強さを誇ったティカルルFCでの出場機会はその後も増えず、03年、トルコで若手の発掘をしていたサシャーユ2部FCアントレフェールトへ移籍した。 当時のアントレフェールトは高齢化するレギュラーと若手選手の併用が進まず、世代交代に失敗して2部へ降格。若手選手の獲得が急がれていた。特に攻撃の中心だったユーリア(ロシア)はシーズンを通しての出場が難しく、その後継として絶大な期待を寄せられた。特にパスセンスには当時のブリューグマイン会長が絶賛して惚れ込んだと言う。 当時この移籍はサシャーユ、トルコ両国で大きな注目は集めなかったが、本人はユーリアのプレイを間近で体験し成長。交互にトップ下を務めて成果を出し続けた。これまでの攻撃的センスに加え、常に万全の体調維持する安定感と、1試合フルに走り続けるスタミナは高く評価された。168cmと小柄で華奢なユーリアからは、華奢な体を上手く使って接触プレイをいなす技術や球離れの良さを習得。05年にユーリア引退後は後継のレギュラーとしてチームの攻撃を率い、同年のカップ戦では2部クラブとして唯一、ベスト16へ進出している。 こうした活躍で、05年にU-21トルコ代表に選出。直後にはA代表にも選出され、オーストラリア戦でデビューを果たした。代表ではSMFでのプレイが多かった。 その後、クラブではSMFやSBを経験しつつ、本職のOMFで結果を残している。チームも徐々に力を付け、08年には10年ぶりに1部へ復帰を果たし、リーグ8位、カップ戦では史上最高成績の準優勝となった。アントレフェールトのプレスとポゼッション志向のサッカーはリーグに旋風を巻き起こし、その中心選手として一躍注目を浴びた。 09年からはキャプテンとしてもプレイしつつ、課題だった決定力アップにも成功した。また、CMFにも挑戦し、中盤の底からパスを配給する働きも高いレベルを見せている。パスの受け手と出し手をこなせる選手として、国内外のクラブから注目を集めた。 現在は代表でも攻撃的ポジションを任せられており、08年ヨーロッパ選手権でのトルコ旋風に貢献。09年はWGとして起用されるなど新境地を開拓している。正確無比な長短のパスとスタミナで、攻撃のリズムを作り出す存在である。 アラン・ペルエ Alain Perruer MF 1979年、フランス南部のジェルメルエ生まれ。10歳でサッカーを始め、13歳の頃には既に国内有力クラブから獲得の打診があったという。 その中から南部に本拠地があるメルニーヨルテへ入団。下部組織でプレイを磨いた。 当時はSMFやSBとして主にプレイしていたが、サイドよりも中央でのプレイを好み、次第にCMFやOMFでの出場が増えていった。特に攻撃参加の意識が強く、その運動量と左足からの高いシュート技術で着実に結果を残した。 16歳で、若手育成に定評のあったエラセナへ移籍。ここではCBとしても起用され、その高い戦術眼と試合時のバランス感覚を手に入れたという。18歳でDMFとしてトップチームにもデビューを果たし、強豪マリワイユ戦では途中出場ながら、ヘディングで得点も挙げた。 97年にはU-18フランス代表に選出され、守備の中心選手としてプレイ。数々の大会に出場している。当時の身長は172cmと大きくはなかったが、MFで培ったカバーリング能力と読みが冴え、SW気味に守備を担っていた。 その後のトップチームではCBや、攻撃面でリズムを変えたいときに投入されるCMFとして起用されていた。99年には26試合に出場したが、守備と攻撃の両立に悩み、次第にポジションを失っていく。 00年から2年間の2部グルベーニュ移籍を経て、03年にエラセナへ復帰。するとフランス代表MFジャカエのケガにより、SMFでの出場機会を得た。そこで左サイドから中央へ切れ込む動きで決定的な仕事を何度も成功させ、監督の信頼を勝ち取った。 この年はジャカエを控えに押しやり、SMFやOMFとして公式戦37試合に出場。MFながら19得点を挙げた。 FW然とした超攻撃的な動きと守備意識の低さに批判も上がったが、得点という結果で黙らせるプレイを続けた。04年には初出場したECLでも4得点し、世界的な注目を集めた。これらの活躍により、国内外の強豪クラブへの移籍も噂された。 この働きで、03年は代表に選出。攻撃面での活躍を期待され、親善試合のポルトガル戦でデビュー(初得点)。04年ヨーロッパ選手権でも2得点し、脚光を浴びた。 だが、05年のイタリア戦で悪質なタックルを受け、膝を故障。年内に復帰したが、以降ケガをしがちになり、またチームの戦術変更(堅守)と共に出場機会を失っていく。 その後の2年間は治療と復帰を繰り返し、17試合の出場に留まった。完全復帰後もレギュラー奪取はならず、08年に下位のルエンへ移籍。安定したパフォーマンスを発揮し続けるには厳しい状態だったが、徐々に体力も回復していった。 09年は心機一転を図り、サシャーユのFCエスペリオへ移籍。圧倒的な攻撃面での貢献を期待され得点も挙げたが、チーム事情の中でCMFやCBでも出場する柔軟性で重用されている。シーズン終盤には連携も深まり、以前のような切れ味鋭い攻撃参加が見られる。 ユルゲン・エウカメケ Jurgen Ehucamkke DF 1981年、ドイツの首都ベルリン生まれ。8歳でサッカーを始めると、11歳で2部グラツム・シュベントバッハへ入団。当時はMFとして中盤から攻撃を率い、中心選手として活躍した。 15歳で既にU-18カテゴリでプレイするなど、早くから才能を期待されており、97年にはU-16ドイツ代表にも選出されている。この頃には突破力に加え、1対1の強い守備力が評価されてSMFでの出場が主だった。 99年にトップチームデビューを果たし、18歳にして26試合に出場。守備力を生かす為にSBに本職とし、思い切りのいい攻撃参加とシュート、豊富な運動量による献身的な守備でチームの躍進に貢献した。00年にはリーグ戦でフル出場を果たし、チームも2部で優勝を達成している。 その後02年に再び降格するまで1部でプレイを続け、170cmと小柄でも十分に通用することを証明した(02年は3得点6アシスト)。 代表としてはU-16以降も各年代で招集され、U-18、20で試合に出場している。01年にはU-20WFCでプレイし、ベスト16に貢献した。 03年、強豪ダッケン・グランデッヒへ移籍。ここではSMFとしてもプレイし、戦術のバリエーションを増やした。ECCにも初出場し、無尽蔵のスタミナと強靭なボディバランスで、ヨーロッパ各国のクラブから注目を浴びている。 04年、ECCでの活躍を見たイングランドのハバールヒューズFCへ移籍。大きな期待を持って迎えられたが、熾烈なレギュラー争いの中で安定した結果は出せず、05年に戦力外となった。ここではSMFとして構想されており、本職のSBでの出場は少なかった。 06年、ドイツ国内クラブの争奪戦の末、マンハイム・ゼキューラーへ入団し、チーム事情からCMFでプレイ。一定レベルのプレイを見せたものの、この起用法に不満を抱いたことで監督と反発。出場機会を与えられず、ベンチ外も多くなっていった。 こうした経緯から「20歳前後までの急速な成長の反面、その後伸び悩んでいる早熟の典型」という評価が付き、移籍を模索した。 07年、サシャーユのCDヴェクオンへレンタル移籍。薄い選手層の中においてSBで継続的に起用され、堅守を伝統とするチームに貢献した。この活躍で08年は完全移籍を果たしたが、体調不良により離脱を繰り返し、シーズン終盤からは長期離脱を経験した。 09年に復帰後は再びレギュラーとなり、左SBとしてプレイしている。持ち味の対人の強さに加え、近年は目立たなかった攻撃参加も再び見え始めている。 代表歴はU-20代表以降無いが、03年と04年にU-23代表候補に選出された。 ジョバンニ・ボルチェロッティ Giovanni Bolcherotti 1978年、イタリア北部のカタルツィア生まれ。7歳でサッカーを始め、10歳の頃には地元選抜チームに選ばれ、DFとして県大会に出場した。 15歳で地元のセリエC2のプロクラブ、CCカタルツィア入団。DFやMFを経験した後、FWとしてプレイするようになった。 当時のプレイの特徴は切れ味鋭いドリブルで、強引に敵陣に入り込んでシュートするパターンが多かった。17歳でシーズン8得点を挙げると、96年はC1のダーイオテーレへ移籍。下部組織が主ながら得点を量産し、将来が期待された。 97年にトップチームデビューを果たすと、チーム事情によりMFとしても出場機会を得ていく。中盤からドリブルで攻撃のリズムを作るプレイが評価され、最終的に14試合で6得点を記録。チームのセリエB昇格に貢献した。 その後99年にセリエBの強豪、フィジリオCCへ移籍。攻撃的MF、シャドーストライカーとして起用され、味方を活かすプレイも身につけている。シュート精度に難があったが、積極的な姿勢でシュートを放つため、評価は高かった。 シーズンで27試合に出場(11得点)した00年は、シドニー五輪を目指すU-23代表イタリア代表候補にも選出されている。 01年は、セリエC1のキオリーニャへの半年移籍を経て、スコットランド1部のハイハーミアFCへ移籍。ここではFWとしての起用が増え、シュート技術の向上に取り組んだ。当たりの強いリーグで強引な突破は通用せず、少ないチャンスを確実に決めていくプレイスタイルが出来上がっていく。 03年、FWとしてリーグ戦30試合に出場。24得点で得点ランキング2位になっている。この頃は、チャンスメークはもとより正確無比のシュート精度を武器に、5試合連続得点も記録した。 04年にサシャーユのCDテームスへ移籍したが、6得点と浪に乗れなかった。その後05年にイタリア、セリエBのソノミコーリへ移籍した。 その後の07年、サシャーユのエミールジュールへ移籍すると、攻撃の軸として機能。29試合で17得点を挙げ、チーム内得点王に輝く活躍を見せた。得点を狙う為の積極的な動きとシュート精度は衰えず、降格危機にあったチームを救う働きだった。08年は一転、若手FWの台頭でスーパーサブとしての起用が増えるが、それでも11得点で意地を見せている。 09年は出場機会を求め、エルナントへ移籍。豊富な攻撃選手を抱えるクラブにあって、少ない機会で結果を残し、後半戦はレギュラーの座を確保している。 なお、187cmと長身ながらもヘディングは得意ではない。 コメイリ・イレオ Comeire Iireo MF 1982年、チュニジアのジエリコ生まれ。10歳でサッカーを始め、16歳で地元名門クラブ、フェルチュ1907へ入団した。177cmと平均的な体格だが、アフリカ人特有のずば抜けた身体能力と、北アフリカ伝統の高いテクニックを兼ね備えたMFとして、17歳でトップチームデビューを果たした。 01年には攻撃の要として全試合にフル出場を果たし、11得点15アシストを記録。得点力とチャンスメークの両面で高いレベルにあることを証明した。 こうした活躍を受け、飛び級で01年にA代表へ招集。デビュー戦となったエジプト戦でいきなりの得点を決めるなど、高い期待と評価を受けた。 02年にはWFCメンバーにも選出され、日本戦で先発出場を果たしている。 02年のWFC終了後、エジプトのサインツへ移籍。準レギュラーとして過ごした後、03年途中からドイツのヨーイェル・セミグラッハへ半年間レンタル移籍。一定の活躍を見せたが、04年にフェルチュへ復帰した。 代表では、04年のアテネ五輪に出場した。ドリブル、シュート、パスをの高い個人技で攻撃のリズムを生み出す選手として注目されている。同年のアフリカ選手権は控えで選出され、優勝に貢献。06年大会では予選で活躍したが、本大会はケガで辞退した。 05年にはフェルチュでキャプテンとなり(23歳での就任はクラブ史上最年少)、CAFチャンピオンズリーグではクラブ史上最高のベスト4進出に貢献した。 ただしその後は伸び悩み、自身が望む自由度の高いプレイを表現できなくなった。チームの組織戦術化が進み、個人に依存しない戦い方の中で埋没、次第にプレイに精彩を欠いていく。 徐々に出場機会も失い、06年末にはキャプテンも返上。激しい気性が影響して私生活での騒動なども加わり、下部組織落ちやベンチ外も経験している。 06年のシーズン途中、ドイツやフランスの複数クラブが関心を示したが条件面で折り合わず、最高評価をしたサシャーユ2部タリヌペイ・リンベルースへレンタル移籍。わずか半年の移籍にも関わらず、攻撃的なタレントのいなかったチームで存在感を発揮し、11試合6得点で昇格に貢献。そのまま07年に完全移籍すると、靭帯損傷で半年間の離脱を経験するものの、チームの中心として安定したプレイを発揮した。 しかし、08年にチームの規律を重視するメイレ監督が就任すると、それに反発。フランスのクラブへの移籍が決定しかけたが、メイレ監督との話し合いを通じて改心。チームプレイに徹するようになり、この年はCMFやSBでも出場した。特にCMFとしては攻守で期待に応えるプレイを見せ、新境地を開拓している。ボールキープ能力が高く、「溜め」を作ると同時に、そこから自分で攻撃に発展させる独特のリズムを持っている。 09年は開幕直後に足を骨折したが、奇跡的な回復を見せて1ヶ月で復帰。チークル新監督の下ではFWで先発するなど、1部残留を目指すチームに書かせない戦力となっている。 代表では、07年のケガ以降招集は無い。 ジルベルト・ジュルー・マインニッチ Gilbert Jurier Mainnich FW 1984年、ブラジルのサンテアクロス生まれ。6歳でストリートサッカーを始めると、11歳で地元のプロクラブへ入団。その後、14歳の時には弁護士を営む父親の伝手で、州都ベザルゴを本拠地とするベザルゴBCCへ移籍した。 15歳にして試合中の駆け引きに長け、大柄ではないもののFWとしてポストプレイ、高い足下の技術と決定力で出場機会を増やしていった。17歳でトップチームデビューを果たすと、アマパー州選手権で12得点を挙げ、得点ランキング5位に食い込む活躍を見せた。 この成績で、02年はミネイロ州選手権のアトレチコ・アッテーリアへ移籍。しかし、満足な成績は残せず、04年にベザルゴBCCへ復帰した。 復帰後は、FWの軸として全試合に出場。27得点を挙げて得点王に輝いた。この活躍を受け、05年の半年間はブラジル全国選手権3部のヴァレーン・アトレチコでプレイ。05年の後半は4部のピルベルト・サントスへ移籍し、シーズン途中の加入にも関わらず、7得点を挙げている。このクラブでは中盤に下がってのゲームメイクも高く評価された。 06年の全国選手権1部FCポルティージョ移籍を経て、07年は2部のシカタFCへ移籍。ここではCFだけでなくWGとしてもプレイしたが、決定力の高さを見せつけ18得点を記録した。パスで味方を活かす前に自分で決める姿勢が結果に結びつき、FWの柱としての信頼を勝ち取った。斜めへの動き出しは予想不可能な展開をし、DFを手こずらせた。スピードに乗ったシュート力は非常に強く、ミドルからのシュートの決定力も高かった。 08年、サシャーユのエルナントへ移籍。一年目からFWの即戦力に期待され、17得点を挙げている。 ダニエル・アルメロ Daniel Almelo FW 1979年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス生まれ。7歳でサッカーを始めると、11歳でセミプロクラブへ入団。14歳で2部に所属するブエノスアイレスSCへ移籍した。 当時は長身を買われてDFであったが、次第にポジションを前目へ移動。17歳の頃にはCMFとして下部組織のキャプテンを担っている。激しいボール奪取能力と当たり負けしない体幹の強さで評価を高めたが、18歳でFWへ転向を直訴。結果、FWとしての起用をしない監督と衝突し、98年に2部のフレミオFCへ移籍した。 移籍後はFWとしてプレイし、トップチームにもデビュー。99年には17試合に出場を果たし、5得点と期待の若手として注目された。 すると、00年にクラブは1部昇格を達成。昇格を決める試合では貴重な勝越し弾を決めるなど、大きな印象を残している。 昇格後はFWの軸としてプレイを続け、02年には5試合連続を含むシーズン9得点などを記録した。だが、02年末に故障した左足膝を始め、それから数年間は故障に悩まされる日々が続いた。03年の腰と足首、04年の靭帯と膝の悪化と満足な出場が出来ず、05年に2部グラシオスへ移籍となった。 そこでの半年間の療養を経て、05年の後期シーズンに復帰。2年ぶりの二桁出場を果たし(18試合)、10得点と復活を印象付けた。 06年、以前から熱望していた海外挑戦として、サシャーユのトリーニョへ移籍。控えとして出場機会は限られたが、印象的な場面で得点することが多かった。特に国王杯の準々決勝で、サシャーユFC相手に延長戦後半ロスタイム決めた40mシュートなどは、その年の「トリーニョ最優秀得点」に選出された。 その後、出場機会を求めて07年にスペインのヨルベロアへレンタル移籍。その後、07年の後半からはサシャーユFCへ完全移籍した。トリーニョのライバルクラブだけあってブーイングを浴びたが、紳士的な振る舞いで対応した。サシャーユFCではSTを担い、前線でのボールキープと高い決定力で貢献している。07年に14得点、08年は24得点と欠かせない戦力である。 セイム・フリオ Seimu Furio FW 1986年、ガーナのリャヌメ生まれ。5歳でサッカーを始めたと言い、10歳でプロクラブ、ハインツFC入団が認められた逸材だった。 身体能力の高いアフリカ選手の中でも、当時から抜群のスピードを武器にFWとしてプレイ。15歳でトップチームデビューを果たすと、16歳でレギュラーとなっている。03年、シーズン19得点で得点王に輝くと、04年にイタリアのウダイセクタCCへ移籍した。 イタリアでもチーム1の俊足を武器にDFを翻弄し、下部組織では得点を量産。173cmと小柄ながら、評価を高めていった。 代表歴としては、03年にU-17ガーナ代表、04年にはU-20代表へ選出された。U-20代表ではU-20WFC出場を狙ったが、アフリカ予選で敗退している。 その後05年にトップチームデビューを果たすものの、シュート精度の低さとスピード一辺倒のプレイしタイルが見破られ、結果を出せなかった。 06年に半年間ハインツFCへ復帰するが、シーズン途中でサシャーユFCへ移籍。下部組織で徹底的にテクニックと基本技術を教え込まれ、サシャーユU-23全国選手権に出場。7得点で得点王に輝くなど、次第に力を付けていった。 07年、トップチームへデビュー。抜群のスピードと改善の見られるシュート技術で4得点を挙げ、スーパーサブとして活躍した。08年には定位置を確保して自己最多となる14得点を挙げた。 ただし、調子の浪が激しいことと、パス精度などの点で苦言を呈されることがある。 代表では、08年に初招集。運動量が見込まれ苦しいときに投入される役割を果たし、10年WFC出場へ貢献。本大会メンバーにも選出された。
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by remarkabler | 2010-02-17 03:08 | スポーツ:進藤進

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