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カテゴリ:スポーツ:進藤進( 30 )

岩国市で「社会運動会」 全国の市民団体が参加

全国の市民団体がデモやシュプレヒコールの出来映えを競う「社会運動会」が11日、山口県岩国市の岩国市民運動場で開かれた。爽やかな空の下、参加者は汗を流して熱戦を繰り広げた。

「日本市民連絡協議会」が主催し、5回目を迎える。各団体の組織力と主張を一般にアピールするとともに団体同士の交流を深めることが目的で、今回は全国から32団体300人以上が集まった。

開会式では平等を考える市民の会」の大原紀子さん(36)が「安易に勝ち負けを決める社会は危険。競争社会の撲滅を目指す」と選手宣誓。運動会の根幹を揺るがすと判断した主催者側によって、強制退場させられる波乱の幕開けとなった。

その直後から降り始めたゲリラ豪雨の影響で続行が危ぶまれたが、「ゲリラは帰れ!」「日本に雨は必要ない!」と主張する「晴天を守る市民の会」が岩国市役所前で抗議デモを行った結果、一時間も経つと見事な秋晴れに。予定通りの実施となり、主催者は「これも日ごろの特訓の成果」と話す。

競技は、団体の主張に賛同する人を何としてでもかき集める「借り者競争」や、デモ編隊の美しさを披露する「団体行動」、表現力と芸術性を採点する「マスゲーム」、不要な領土争いを招かないよう敵味方が同じ方向に引っ張る「仲良し綱引き」など10種目。

一番の盛り上がりとなったのは、シュプレヒコールの音量を競う「応援合戦」。「脱女子力を考える市民の会」が「定期的なネイルケアとか○○○」「キラキラ退社とか×××」(伏せ字は本紙自主規制)と叫ぶと、騒音で窓ガラスが割れる程度とされる450デシベルで1位となり、勢いそのままに総合優勝を飾った。

一部の市民から騒音等に対する苦情も寄せられているというが、主催者側は「我々は運動が生きがい。市民が運動をして何が悪いのか」として来年以降も継続して開催する方針。来週にも開催継続を主張するデモ活動を行うことを決めた。

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by remarkabler | 2013-11-12 02:26 | スポーツ:進藤進

東京五輪 招致の決め手は「忍者対策」

IOC(国際オリオンピック委員会)は7日(日本時間8日未明)、2020年に行われる夏季五輪の開催都市に東京を選出した。1964年以来2度目の開催となる。

「TOKYO」の文字が書かれたボードが掲げられた瞬間、会場の東京招致団は総立ちで喜びを爆発させた。「日本人がこんなに感情を表すなんて」と驚くIOC関係筋は、「(東京は)計画性が評価された。汚染水の問題も、安倍首相の『私が安全と安心を保証する』の言葉がよかった」と話す。その上で、「決定的だったのは万全の忍者対策」と明かした。

取材に応じたIOC委員は「東京には現在でも忍者がうようよいるんだろう?本で読んだよ」とし、「五輪は平和の祭典。ショーグンの命令を受けて敵を暗殺する忍者がたくさんいる都市がふさわしいのか懸念する委員は多かった」と指摘する。

6月に行われたIOCの事前視察でも、「東京で電車が定刻通りにやってくるのはショーグンの機嫌を損なわないため」、「いつ任務を授けられても大丈夫なように、公園の水道水を飲むことができる」「トイレには人が潜んでいて便座を温めておいてくれる」などと忍者の存在を強く疑わせる事例が数多く報告されていたという。

そうした環境に不安の声もあがったが、東京招致団では事前にロビー活動を徹底。IOC委員一人ひとりの行動を忍者ばりにリサーチし、「忍者は平和の敵ではない。忠誠を誓った者を守ることが使命なのだから」と書かれた矢文を送りつけるなどしてきた。

最終プレゼンでは、滝川クリスタルさんが「忍者は、平和とあなた方を守るためにいる。忍者の血をひくすべての日本人は、どんなに混雑した会場でも人にぶつからない『高速避け』の秘儀を持っている。これがお・も・て・な・し」とスピーチした。

ブエノスアイレスで行われたIOC総会では、事前の観測で優勢と見られたマドリードが一回目の投票で落選。決選投票の末にイスタンブールを破り、東京が選ばれた。
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by remarkabler | 2013-09-10 03:52 | スポーツ:進藤進

陸上選手に「ありがとう」でタイム速く 短距離で実証

国立スポーツ科学研究センター(国立市)は11日、陸上短距離走の選手に「ありがとう」と肯定的な言葉をかけ続けるとタイムが速くなることを発表した。同センターの松岡修三教授(ウィンブル論)による研究で、今月発売の筋トレ雑誌「ターザン」に掲載される。

松岡教授の研究では、100メートル走のタイムが同じ16秒の男性選手2人を選定。将来性のありそうな10代のA選手には毎日「ありがとう」「いいね!」と声をかけ、最新鋭の施設でトレーニングを半年間続けた。一方、50代のB選手には「がんばらなくていい」「無理するなよ」「若くないんだから」などとネガティブな声をかけ、やる気をなくした本人の意向もあって特別なトレーニングは行わなかった。

半年後、A選手のタイムを計測すると飛躍的な伸びを見せ、自己ベストを2秒更新。しかしB選手は計測前日に60歳の誕生日を迎えたこともあり、自己ベストから5秒近く遅いタイムしか出せなかった。この結果を受け、肯定的な言葉はタイムを早めるが、反対にモチベーションを下げる言葉をかけ続けると遅くなると結論づけた。

この日行われた世界陸上モスクワ大会、男子100メートル決勝には松岡教授が駆けつけ、優勝したボルトに「ありがとう」の声掛けを自主的に実施。ボルトが優勝したことを受け、 「言葉の持つ神秘的なパワーは水や水晶だけに作用するとおもわれてきたが、人間にも影響することが実証された」と胸を張る。今後は「短距離走以外での効果も調べたい」と話す。

こうした報告を受けた世界陸連は「世界陸上において、ありがとうという声をかけることはドーピングにはあたらない」とする公式見解を発表している。
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by remarkabler | 2013-08-11 12:57 | スポーツ:進藤進

大阪楓蔭、センバツ優勝旗のレンタル延長を申請

昨年の第84回選抜高校野球大会で優勝した大阪楓蔭高校(大阪)は18日、優勝旗を返還せず、レンタル延長を申請する意向を明らかにした。臨時の職員会議で決定した。

会見した内野守校長は、「もう少し持っておきたい。まだ楽しみ終わっていない」と話し、レンタル期間が短すぎると指摘。職員の中には、「高野連からまだ連絡が無いのだから、このままもらってしまってはどうか」という意見もあったという。

選抜大会では、優勝校に対して高野連から優勝旗が貸与される。原則として一年後の大会開会式で「返還」されるが、大会規定に明文化はされておらず、優勝校の自主性に委ねられているのが現状だ。

甲子園では過去、夏の優勝校・照屋美波高校(沖縄)が3年間にわたって優勝旗の返還を忘れていた事例があり、この場合は3兆5000億円の延滞料金を支払うことで示談が成立している。

この報道を受けた高野連は同日、「(レンタル延長については)正式に申請があった段階で、理事会を開いて協議する」との声明を発表した。高野連の関係者は「照屋美波高校の前例も踏まえ、大阪楓蔭高校には延長料金を請求する方針になりそうだ」と話す。
 
今月22日から開幕する第85回大会までにこの問題が解決しない場合は、朝日新聞社旗で代用する案、全国高校サッカー選手権の優勝旗をレンタルする案、04年アテネ五輪の野球日本代表へ向けて長嶋監督(当時)が送った国旗を代用する案などが浮上している。
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by remarkabler | 2013-03-18 00:31 | スポーツ:進藤進

100メートル男子決勝、ボルトがフライングで失格 上空100mまで飛翔

世界陸上では6日、陸上男子100メートル決勝でウサイン・ボルト(25、ジャマイカ)がフライング。9秒58の世界記録保持者で、今大会の金メダル候補筆頭がまさかの失格となった。

気温18度の中で行われた100メートル決勝。予選を全体9位となる10秒09で通過したボルトは「体調は最高」と話すなど状態の良さを語っていたが、その速さが命取りになった。

スタート直後に先頭に立ったボルトはそのまま加速。空気抵抗を全く受けないまま圧倒的な速さで離陸し、上空100メートルまで飛翔した。この時点で、ジャンボジェット機が離陸するときの「時速300キロ」を超えていたとみられる。その後はゆっくりと着陸態勢に入り、ゴール地点を大きく越えて着陸。得意の「矢のポーズ」を披露したが、スタッフに促されて大会実行委員会へと連行されていった。

離陸に必要な時速300キロは秒速83メートルのため、ボルトのタイムは1秒強になる計算。だが、「ゴールラインを通過していない」(五輪実行委員)として失格となった。着陸地点では男子走り幅跳びの決勝が行われていたが、ボルトが飛んだ距離(374メートル)は認められないという。
 
現在の陸上競技規則では、フライング(飛翔)に関する規定は無い。しかし、「いやいやいや、そもそも100メートル走になってないし」(五輪実行委員)とする見解が多数で、失格の判定は覆りそうにない。ボルトは昨年9月に行われた世界陸上(韓国)でもフライング。一時はフライング競技転向も噂されたが、それを否定していた。
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by remarkabler | 2012-08-06 03:34 | スポーツ:進藤進

五輪トライアスロン、1位2位が手をつないでゴールし失格

30日行われた男子トライアスロン決勝で、上位を走る2選手が手をつないで同着ゴールしたことが「五輪精神に反する」として、両選手とも失格となった。この結果、3着でゴールしたギリシャ代表グレゴリウス・アレクトマニス(28)が金メダルに輝いた。

失格となったのは、アメリカ代表のフィリップ・スキナー(29)とフランス代表のティエリ・ストーン(26)。ともに五輪前の大会で好タイムを残すなど、今大会の優勝候補として注目されていた。
問題とされる行為は、トライアスロンの最終種目「長距離走」でのこと。それまで熾烈な1位争いをしていた両選手だが、ゴール手前200mでストーンが失速、ついには膝をついてしまった。すると、それを見たスキナーが走り寄って手を差し伸べ、二人は一緒に走りだしたという。

両選手はそのまま手をつなぎ、歩幅も合わせて並走。「二人三脚のような様子」(目撃者・談)でゴールまで進み、ビデオ判定もできないほど一致したタイミングでテープを切った。
そのハートウォーミングな光景に、ゴール地点の一部からは大きな歓声が上がったという。だが、別名「鉄人レース」と呼ばれるトライアスロンの熱闘を期待して集まった多くの観衆は対応に戸惑い、まばらな拍手に終始したとのこと。

レース後、スキナーとストーンの同着金メダルとなった最終順位を大会委員会が問題視。「競い合う、スポーツとしての性質を無視したレース結果は五輪の精神に反する」と判断し、両選手の失格と、3位だったアレクトマニスの繰り上げ金メダルを決定した。
これに対して両選手は「手をつないだのは、五輪憲章に掲げられた『スポーツを通じた平和と友好』を体現したまでだ。争いはやめよう。順位付けなどいじめの温床」と抗議している。

近代五輪とオリンピズムに詳しい、鷹の台産業大学身体文化研究室の中村審一郎教授は、「順位をつけない最近の日本の運動会じゃあるまいし、大会委員会は妥当な判断だろう。失格という毅然とした判断が無ければ、全員が横一列で手をつないだ陸上100m決勝が今後起こる可能性があった。もっとも、ボルトはそんな空気読まないと思うけど」と話した。
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by remarkabler | 2012-07-30 03:52 | スポーツ:進藤進

ボルト、100mでフライング ―上空300mまで飛翔し失格/世界陸上最終日

 韓国・テグで開催されている世界陸上男子100メートル決勝で、波乱が起きた。9秒58の世界記録保持者で、今大会でも金メダル候補筆頭だったウサイン・ボルト(25、ジャマイカ)が、まさかのフライング。失格となった。

 100メートル決勝、スタート合図のピストルが鳴り響いた瞬間のボルトは「初速232キロ」(世界陸上計測委員会公式発表)でスタートした。すると、空気抵抗を全く受けないまま、圧倒的なスピードを動力に「離陸」。その後、競技場の3万人の観客、そして決勝出場選手らが見守る中、上空300メートルまでフライングした。
 その後、ゆっくりと着陸態勢に入ったボルトは、ゴールラインを大きく超えた地点に着地。得意の「矢のポーズ」を披露したが、スタッフに促されて大会実行委員会へと連行されている。

 現在の陸上競技規則では、フライング(飛翔)に関する規定は無いが、「このような事例を容認すれば、100メートル走のアイデンティティを失う」「ボルトにはこの新しい競技を極めてほしい」(世界陸上関係者)などの声が多く聞かれた。100メートル走とはもはや別物と化したボルトの「走り」の扱いについて、議論が紛糾することは必至だ。

 ボルトはこの件に関し、「飛んでる時、ムロフシのハンマーが横を通過してビビったぜー。普段は、飛ばないように力をセーブしてるんだけどな。ちょっと本気出し過ぎたぜ、ヒュー」と語り、失格ながらもファンキーに語った。
 
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by remarkabler | 2011-09-08 02:36 | スポーツ:進藤進

尖閣諸島をW杯候補地に? 鳩山氏が示唆

民主党の鳩山悠紀夫元首相は18日、クラブW杯が開催中のUAEを訪れ、FIFAのブラッター会長と会談した。会談後に会見を開いた鳩山氏は、「尖閣諸島で2026年以降のW杯を開かせて頂きたい、という思いを提案をさせて頂いた」と語り、日中双方で問題化する尖閣諸島で世界最大のスポーツイベントを開く考えを明かした。

自身が代表を務める「世界スポーツ友愛議員連盟」の特使としてUAE入りした鳩山氏は、ブラッター会長と2時間に渡って会談。「ほとんど『宇宙の素晴らしさ』について語っていた」(関係者筋)というが、最終的には尖閣諸島を2026年以降のW杯開催候補地とし、日中両国で共同立候補する考えを表明したという。

日本は2022年のW杯開催に立候補していたが、政府保証などの面から落選した経緯がある。「それが念頭にあった」(前述の関係者)という鳩山氏は、政府方針として尖閣諸島開催を推進する案を温めていたと見られる。

会見では「友愛のスポーツイベントを開く道筋が見えた。頑張れ、という声援もたくさん頂いている」と語り、明るい展望を示した鳩山氏。しかし一部の民主党関係者からは「全く知らされていない」「勝手にやっていてほしい」との声も聞かれるなど、先行きは不透明だ。また、日中両国での世論の動きも見えていない。

ブラッター会長はこの件に関して、「彼は何者だ?政治家というジョークは笑えなかったよ」とだけ述べた。

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写真=日本領・尖閣諸島
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by remarkabler | 2010-12-18 17:37 | スポーツ:進藤進

世界フィギュア、女子はチョチールが優勝 -ケージの「4分33秒」演じきる

世界フィギュア選手権最終日は27日(日本時間27日)、イタリア・トリノで女子フリープログラムを行い、チョチール・イヤカンテルス(ガボルテンドラグ共和国)が優勝した。2009年大会から2連覇。
2位は日本の高田由里、3位はブルガリアのハジだった。

前日のSP(ショートプログラム)が1位のチョチールは、フリーで奇抜な新プログラムに挑戦した。
ジョン・ケージの名曲「4分33秒」※をモチーフにした構成で、演技開始から4分33秒間、氷上で微動だにしなかった。中でも中盤に決めたストップ・ジャンプは素人目には全く動いていないように見えるが、実際に全く動いていないという大技だ。
直立不動のままノーミスで演技を終えると、前日のSPと併せ255点を記録、圧倒的な優勝となった。

日本の高田は3Aを2回取り入れ、ほぼノーミスで演技を終えたが、採点は伸びずに合計197点となった。

【表現力の差】

1位と2位の差がこれだけ開いたことについて、フィギュアに詳しい金山哲治さん(大阪第三産業大学氷上演舞学教授)は、「チョチールが「曲の解釈」で10点加点された一方で、高田は(曲の解釈が)マイナスとなったことが響いた」と指摘。前衛音楽であるジョン・ケージの「4分33秒」を採用したことを「英断」と讃えた。
「何もしないでこの点数なら、ジャンプなどを取り入れた他の選手はどうしようもないのでは」との質問には回答を得られなかった。

この結果に、高田は「まだまだ私の表現力や技術が足りない。応援してくださっている方々の声援を力にして、たくさん練習して、次の大会は1位を目指したいです」と語った。

技術以上に、表現力や曲の解釈に重点を置く現行の採点傾向を如実に反映する結果となった。

※ジョン・ケージが作曲。4分33秒間に亘って無音で構成される。
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by remarkabler | 2010-03-28 02:09 | スポーツ:進藤進

サッカー2

アンドレイ・アイマノビッチ・ヤンベルスキ Andrei Aimenovich Janberski MF 1976年、ロシアのソロエヴィエロ生まれ。9歳でモスクワへ移住し、ロシアリーグ1部の強豪ゲセル・マリンへ入団した。下部組織で順調に経験を積むと、92年にU—16ロシア代表へ選出。以降、体幹の強さと無尽蔵のスタミナ、激しいタックルによるハードマークを武器にして、またCBやSBもこなせる守備的選手として、地位を確立していった。 18歳でトップチームへデビューすると、控えながらもシーズン23試合に出場。ECC準決勝へ進出したチームを支える働きを見せた。このプレイが目に留り、96年にイタリアのウダイセクタCCへ移籍。名将グラム監督の下で重用され、97年には21歳でリーグ優勝を経験した。イタリアでは、従来の守備的要素だけでなく、サイドへ流れての攻撃参加などを習得。プレイ範囲の広さを生かして、試合中にポジションを頻繁に変えることも出来るようになり、「グラム戦術の申し子」との評価を得た。 一方で、そのプレイスタイルやラフプレイ、試合中の暴言なども合わせて「ロシアの闘犬」と呼ばれていた。イエローカードが多かったが、一発退場は意外にも少なかった。 代表へは、96年に初選出。97年に初得点を決めるなど、チャンスを確実に物にしていった。代表では97年から00年にかけて、DMFとして不動の地位を確立。特に、00年のヨーロッパ選手権予選ではことごとく相手の攻撃の芽を摘み、守備で貢献している。本大会出場はならなかったが、強烈な存在感を放っていた。 しかし、このヨーロッパ選手権予選敗退の批判の中心となったことやケガ、戦術の変化で出番が限られるようになっていく。 00年のヨーロッパ選手権後、イタリアの強豪ベナーロへ移籍。ウダイセクタ時代にリーグ優勝2回、国内カップ優勝1回、ECLベスト4など輝かしい実績を挙げたが、移籍直後の練習試合で右足を骨折。結果、シーズン中の復帰はならなかった。その後01年に実戦復帰するものの、調子を上げるタイミングが遅れて02年WFC選出はならなかった。このケガ以降、攻撃面での負担が大きいDMFではなく、CBで守備に専念することが増えていった。 03年、ポルトガル1部のフィルッカへ移籍。主にSBとしてプレイした後、05年はゲセル・マリンへ復帰。代表にも復帰し始めるが、若手選手の台頭やプレイベートでの不祥事などがあり、代表・クラブ共に定位置確保はならなかった。 07年、出場機会を求め、パラグアイリーグのエル・コペルニシオスへ一年間のレンタル移籍。シーズン40試合を戦い抜き、リーグ優勝に貢献。遠ざかっていたDMFへも復帰し、長いスランプを抜け出した。 08年にロシアへ戻ると、キレのある動きで監督の信頼を獲得。3年ぶりに代表へも復帰し、同年のヨーロッパ選手権では控えながらも本大会メンバーに選出されている(2試合出場)。 この活躍を受け、09年に恩師グラム監督が率いるサシャーユリーグFCポンレッチェ・クリムセーラへ移籍。監督自らの説得で移籍を決意したという。 ポンレッチェでも以前のような激しい当たりは健在で、DMFとしてチームの快進撃を支えている。攻撃面での貢献も大きく、再び「ロシアの闘犬」として評価は上がっている。 08年以降の代表からは遠ざかったが、本人は意欲的に復帰を狙っている。 カルパー・チークル Karuper Cheecle FW 1960年、サシャーユの首都サシェリア生まれ。少年時代は水泳に熱中し、サッカーを始めたのは15歳と非常に遅かった。だが、脚力を生かしたジャンプ、一瞬のスピードが評価され、77年にタリヌペイ・リンベルースFCへ入団した。 細い体ながらも得点という結果を残し続け、79年にトップチームデビュー。すると、そのシーズン26試合で18得点を記録し、いきなりトッププレイヤーとなった。中盤のパスの出し手が豊富なタリヌペイにあって、一瞬で抜け出しボールをダイレクトに合わせる技術で得点を量産。リーグ中位に甘んじていたチームを、屈指の攻撃的強豪クラブへと成長させた。 81年にはリーグ戦全試合に出場し、34得点で得点王を獲得。82年にも得点王となった。 79年、パレッチ監督の下で代表に選出。若手選手を重用する監督の嗜好もあって多くの試合に出場したが、連携面で噛み合わず、なかなか結果は出せなかった。 87年、イタリアのハミケーレへ移籍。 アーノルド・エリクビッチ・ベランベローション Arnold Erickbich Veranvuerosson FW 1977年、オーストラリアの首都シドニー生まれ。父親はスウェーデン移民、母親はクロアチア移民の家系に育った。 少年時代はクリケットやラグビーに熱中し、サッカーを始めたのは中学に入ってからだった。地元のアマチュアチームで体格を生かしたFWとしてプレイした。15歳でU-16オーストラリア代表に選出されると、スイスで行われたU-16国際大会へ出場。6試合3得点の活躍が認められ、1994年、17歳でドイツ1部シュベットブルグへ移籍した。 シュベットブルグでは下部組織で経験を積んでいたが、95年にドイツ2部のケイルハリエへレンタル移籍。ここではトップチームで7試合に出場し、プロデビューを果たした。 98年、復帰と同時に再びレンタル移籍が決定し、イングランド2部のホワイトキャッスルへ移籍。ここではレギュラーの座を獲得し、194cmの体格を生かしたポストプレイと強烈なヘディング、高い足下の技術で得点を量産し、27試合14得点を挙げた。 その後シュベットブルグへ復帰するが、00年にホワイトキャッスルへ完全移籍。01年には17得点を挙げ得点ランク2位となり1部昇格に貢献。02年は1部で30試合に出場し、14得点を挙げる活躍を見せた。 代表では、97年にA代表デビュー。父親の出身国スウェーデンでの代表選出の可能性もあったが、早くからサポート体制を敷いていたオーストラリア代表を選択した。同じく選出されたU-23代表でも活躍し、不動のエースとして活躍した。 その後もオセアニアで開催される大会の多くに、日程や地理的状況が難しい場合でも可能な限り出場していた。オーストラリア代表の屈強なサッカーを体現する存在である。 03年に腰痛を発症し、継続的な出場が難しくなったが、パワープレイでの投入などで得点を挙げ続けた。05年、出場機会を求めてイングランド2部のマイルビーチへ移籍したが、腰痛で2試合の出場に留まった。 06年はドイツのシュベットブルグへ復帰し、腰痛が癒えた後半戦から定位置を獲得。11試合で3得点と復活の兆しを見せた。 その後の07年、心機一転を図りサシャーユリーグのヘラルドセンゲンへ移籍。FWの中心に据えられ、08年には自身8年ぶりとなる二桁得点の11点を記録した。 06年WFCにはオーストラリア代表のエースとして出場し、日本戦でも得点を挙げている。オーストラリアがAFCへ転籍して出場した07年のアジアカップでは、本大会だけで3得点を挙げている。 イ・ギョンボム Lee Gyong-Bum MF 1981年、韓国の京蔵道生まれ。14歳でサッカーを始め、景原高校時代には、97年赤球大会へ出場。ストライカーとして6得点を挙げている。 こうした活躍を受け、U-16、19代表を経験。シドニー五輪代表からは漏れたが、アテネ五輪を目指すU-23代表では中心選手として活躍した。 高校卒業後、珍塔ベアーズへ入団。恵まれた体格を生かしたポストプレイと無尽蔵のスタミナを武器に、一年目から7得点を挙げる活躍を見せた。01年にはレギュラーとして30試合に出場し、11得点を記録している。 この活躍を受け、01年には翌年のWFC出場を控える韓国A代表に初選出。限られた出場機会で結果を残し、本大会メンバーにも選出された(2試合出場)。 大会後に海外移籍を希望したが不調に終わり、03年に日本の清水エスパルスへ移籍。04年は横浜Fマリノスでプレイし、15得点を挙げた。 04年はアテネ五輪に韓国代表の中心選手として出場し、グループリーグのトーゴ戦では2得点している。 05年、02年当時の韓国代表でコーチを務めていたグラム監督に招かれ、オランダのヘッテルセDVCへ移籍。しかし、自慢の体格も海外では平均的であり、活躍できない日々が続いた。しかしシーズン途中、強引な突破力とスタミナを生かすため、SMFへコンバート。サイドから縦横に切り込んで攻撃面の仕事をするスタイルに嵌り、結果的に後半戦は14試合にフル出場している。 韓国代表としても、アテネ五輪後はA代表に継続的に招集。FWとしてプレイしている。04年アジアカップ、06年WFCにも出場し、WFCでは先発したトーゴ戦で1得点を挙げた。 クラブでは、07年にグラム監督が退任すると出場機会が減少。08年はオランダ下位のエクシュルファンサールへ移籍。 09年、グラム監督が率いるサシャーユのポンレッチェへ移籍。SMFとしてプレイしている。 その後の代表では、07年アジアカップを始め、10年WFCへ向けた予選などでFWとして活躍。29歳ながら、経験と実績で若手をリードする存在となっている。時にはSMFでも出場するようになり、代表の攻撃バリエーションを豊富にするキーマンである。 ハン・ギヒョン Hon Ki-Hyeon DF 1984年、韓国の網岳山生まれ。94年WFCを見て10歳でサッカーを始めると11歳でヨーロッパへ留学。オランダのBCKアテークカートの下部組織でプレイするなどした。当時はストライカーであり、敏捷性とテクニックで他を圧倒していたという。 96年に帰国後は育成施設で経験を積み、高校は国内の強豪エールテセンタ高校へ入学。エリートを徹底して育てる教育方針の中で、ストライカーとして同級生と切磋琢磨したという。17歳でU-17韓国代表候補にも選出されたが、同年、無理なトレーニングに取り組み過ぎた影響で膝を故障。高校3年の間は公式戦出場0という屈辱を味わった。 高校卒業後、プロ入りの夢は果たせず近洞大学へ進学。大学サッカー部ではボランチに転向し、敏捷性で攻撃の芽を摘み、テクニックでパスを供給する役目を担った。ユニバーシアード代表としても2試合に出場している。この働きが評価され、04年に日本の大分トリニータへ入団した。 大学を休学して本格的に日本でプレイを開始した05年は、31試合に出場。試合に出続けながら体力強化にも励み、182cm、79kgの屈強な肉体を手に入れた。トップ下やCBでもプレイすることが出来、高い評価を受けた。 日本での活躍が報じられると、05年は韓国A代表に初選出。06年WFCメンバーには選出されなかったが、予選も含めて3試合に招集された(2試合出場)。 07年のアジアカップメンバーには選出され、3位決定戦の日本戦に出場した。 06年WFC終了後、オランダのヘッテルセDVCへレンタル移籍。韓国代表コーチ経験もあるグラム監督の下、6ヶ月間で24試合に出場した。 07年に大分へ復帰すると、チーム事情もあってWBやCBでプレイ。ボランチに拘りを持つ本人の意に反して、サイドを機転に攻撃を構築するプレイで、WBとして高い評価を受けた。献身的に動き回ってボールを奪取し、一瞬の動きでパスを出すなど攻守に活躍している。 08年に韓国のソウル・シーガルズへ移籍。ここでもサイドで起用され、献身的な動きとサイドからの攻撃を期待されてSBへ転向している。 代表としては、07年から継続的に招集を受けている。安定したパフォーマンスと、守備的なポジションは殆どこなせるユーティリティー性で重用され、WFCアジア予選ではSBとして不動の地位を確立している。10年WFCメンバーにも選出された。一方で、代表では攻撃意識の低さが指摘されている。 09年、グラム監督が率いるサシャーユのポンレッチェへ移籍。SBとしてプレイする。 ダヴィド・フランコ・レテイタ David Franco Rateita MF 1978年、スペイン南部のウチリコーティ生まれ。7歳でサッカーを始めると、10歳で地元のセミプロクラブ、ウチリコーティFCへ入団している。 その後マドリードへの移住などを機に、14歳でレード・アルミーロの下部組織へ移籍した。当時はCBであり、小柄ながらも読みとカバーリングの能力が高く評価されていた。下部組織ながら、その統率力と守備力で中心選手となり、93年には15歳でU-16カテゴリのキャプテンに就任している。 将来を嘱望された選手であり、93年にU-15スペイン代表へ選出。数々の国際大会に出場した。その後、有名選手を次々と獲得するトップチームへの昇格が果たせないと感じ、17歳でアルトウェーボへ移籍した。 ここでもCBとして活躍し、179cmの体格のハンデを感じさせない働きを見せた。96年から97年にかけては、U-19スペイン代表にも選出され、欧州選手権などで活躍した。特に、97年のU-19欧州選手権では強豪国のFW相手に一歩も引かず、常に高い守備ラインを形成して貢献。隙を見ての上がりにも定評があり、準々決勝のポルトガル戦ではヘディングで一矢報いる得点を決めている。 この大会での活躍を受け強豪クラブへの移籍も囁かれたが、トップリーグで活躍するDFとしては身長が小さかったこと、大会後に精神面で不調を訴えたことで短期間の休養に入った。常に上のカテゴリでキャプテンや責任を負う役目におり、ストレス疾患と診断されている。 この休養により、内定していたレード・アルミーロへの復帰も無くなり、98年まで故障者扱いとなった。その後98年中盤に復帰したが、直後に2部ライモンテへレンタル移籍している。 99年、ライモンテで試合勘を取り戻したが、当時のアルミーロのメッカ監督は「一瞬のミスで多くの責任を負う守備でのプレイに無意識の不安を感じている」とし、復帰は最後までまとまらなかった。それに応えるように、守備に専念するのではなく、自ら結果を生み出すべく一列ポジションを上げ、DMFでのプレイに取り組むようになったという。 01年、1部のオレスナへ移籍。徐々に出場機会を増やすと、チームが5位に躍進した04年は、中盤の底で徹底したカバーリングをしつつ、攻撃面では思い切りの良いパスや上がりを見せて復活を印象付けた。05年のミルセボン(フランス)、07年からの2部デッカリを経て、08年にサシャーユ2部のツーリオ・サルディへレンタル移籍。いきなり30試合に出場し、変則的な守備ラインを見事に統率、カバーリングで高い評価を受けた。クラブは2位で昇格も達成している。 09年からはサシャーユに完全移籍を果たし、1部での戦いにおける中心選手として、活躍が期待されている。 マサヴァド・アウコレイム Masavad Aucoraim MF 1980年、イラン北部のチュテラン生まれ。6歳でサッカーを始め、14歳の頃には「チュテランで最もサッカーの上手い男」と呼ばれていたという。 その後、15歳で首都テヘランのプロクラブ、テヘラン・アジェイドFCへ入団。当時はそのテクニックを生かした技巧派のMFとして知られ、17歳の頃には、主にトップ下で攻撃のリズムを作り上げていた。 97年、U-19イラン代表候補へ飛び級で選出。アジアで行われた数々の国際大会へ帯同したが、本戦出場選手ではなかったため、最後まで出場することは出来なかった。 その後、18歳でトップチームへ昇格し、中心選手として活躍。99年、UAEのアル・ハイーダへ移籍した。19歳にして40億円の移籍金が支払われ、この破格の移籍金により、国際的な注目を浴びた。アル・ハイーダでは、前線へ集まる各国代表、元代表選手たちの競争に破れ、次第に位置が下がり、DMFやCMFでのプレイが増えていった。 その後、01年は同じくUAEのラウディアへ移籍。ここでもOMF、守備的MF共に定位置は奪うことが出来ず、また膝のじん帯損傷の大ケガを負い、出場機会は殆ど無かった。 02年、カタールのアル・ミダデルキSCへ移籍。このクラブでも、前線のタレントからはみ出るようにCMFとしてプレイ。それでも腐らずプレイを磨き続けた結果、04年はCMFながらも攻撃面でのプレイが目立ち、7得点6アシストを記録している。 05年からは、トップ下での起用が増えていった。守備的MFとして培ったボールキープ能力と他人を活かすプレイをトップ下で発揮し、この年は初出場のACLでベスト8に進出した。 代表としては、CMFとしての04年の活躍を受け、イランA代表へ初選出。国際親善試合のアイスランド戦で先発出場を果たした。同年のアジアカップでも本大会メンバーに選出され、中国戦で先発している。なお、アジアカップは07年にも出場した。 その後、本職のOMFでプレイするようになり、06年WFCメンバーにも選出。グループリーグの3試合で先発フル出場している。 WFC後、サシャーユのバンザウェイ・ヘンデリッターズへ移籍。3試合連続得点など攻撃面でインパクトを残したが、シーズン途中に戦力構想から外れ、スペイン2部のデッカリへレンタル移籍。ここでは再び中盤でのプレイが多く、シーズン終了後に自ら復帰を熱望した。 07年、同じくサシャーユリーグのNEZヘラルドセンゲンへ移籍。トップ下の位置で全幅の信頼を寄せられ、降格から救う貴重な得点などを挙げている。パスの精度には磨きが掛かり、またFKにも定評がある。 08年はクラブ、代表ともに多忙であり、一年間で69試合に出場している。この疲労の影響で、09年は開幕から2ヶ月間休養していたが、その後は復活している。 代表としても不動の地位を確立したが、10年WFC予選は敗退している。 クリスティアーノ・アルマンテ Christiano Armonte DF 1982年、ポルトガルの首都リスボン生まれ。11歳でサッカーを始めると、ストライカーとして活躍したという。アマチュアクラブを経て、14歳でリスボン・エーレミーレFCへ入団。下部組織でもFWとしてプレイした。 その後、クラブのU-15選抜としてユース大会などへ出場。その中で手薄だったCBへ回ることが多くなり、17歳で本格的に転向した。 00年、2部のフィラメント・エスコーラへ移籍。激しい当たりが持ち味の戦術で鍛えられ、192cmの長身で不動の地位を築いた。 02年にエスコーラが1部へ昇格すると、その後も中心選手として活躍。昇格一年目にして6位に食い込む原動力となった。 持ち味は体格を生かした空中戦の強さと、素早い寄せ。1対1には絶対に自信を持ち、体ごと止めにいく守備を得意とした。 02年はU-23ポルトガル代表に選出。アテネ五輪を目指すチームで、守備の中心となった。 こうした活躍が認められ、03年はイングランドのトッタム・アイスパーズへ移籍した。移籍直後こそ7試合連続出場したが、しかし、不注意なパスミスや不用意に激しいプレイの悪癖が増え、連携も深められないまま出場機会を次第に失っていった。 04年、リスボン・エーレミーレへレンタル移籍で復帰。ECCへ出場するクラブの中で貴重なCBとしてプレイし、シーズン終盤にはレギュラーとなっている。この頃には集中力を90分間持続することと、不用意なラフプレイは減り、DFとして大きな成長を見せた。この頃からは冷静に試合の流れを読んで試合をコントロールする術に長け、早くからキャプテンを任せられている。 04年のアテネ五輪代表にも選出されたが、直前のケガでレギュラーから降格。守備陣のケガが相次ぎ、9失点でグループリーグ敗退を喫した。 05年にエーレミーレへ完全移籍し、06年にはリーグ2位に貢献している。 その後、07年にサシャーユのサシャーユFCへ移籍。それまで不安定だった守備陣でレギュラーの座を勝ち取り、3年連続で30試合以上に出場を続けている。 08年にはポルトガルA代表にも選出され、10年WFC予選にも出場。本大会メンバーにも選ばれるなど、代表でも地位を確立している。 パトリック・フェルテマーク Patrick Vertemark DF 1976年、オランダ北部の漁村ユーティリア生まれ。6歳でサッカーを始めると、当初は前線でのプレイに喜びを感じ、主にFWやMFでプレイしていた。 14歳で強豪ユーティック・アクセルシュールへ入団。攻撃的な才能豊かな選手が集まる下部組織で、切磋琢磨したという。 前線の選手不足を解消するため、16歳でGKへ転向。その後守備に楽しさを覚え、17歳でCBへ本格的に転向した。当時の身長は181cmで、DFとしては平均的な体格ながらも、前線へのフィードと素早い寄せで評価を上げていった。 19歳でDECジュールメントへ移籍。この頃の身長は191cmであり、当時の薄かった守備陣を支える存在として期待された。若干20歳でレギュラーとなると、下位に沈むチームで孤軍奮闘し、残留に貢献している。 代表歴としては、95年にU-20に選出。ワールドユースでは1試合に出場した。 その後、98年に強豪フェーレンヤンへ移籍。定位置は奪えなかったが、ECLでも2試合に出場するなど着実に経験を積んでいった。だが、出場機会は限られていた。 状況を打開する為、00年のエクセルファンサール移籍を経て、01年にフェーレンヤンのライバルクラブ、オーレンヴァルデへ移籍。定位置を勝ち取り、31試合に出場した。 この活躍で代表待望論が生まれたが、02年WFC予選を戦っていたオランダ代表で連携を深める時間が無いと監督判断、招集はされなかった。結果、代表は予選敗退を喫している。 03年、イングランドのアルベールへレンタル移籍。04年に復帰後もレギュラーだったが、腰痛を発症して戦線を離脱。復帰の目処が立たず、戦力外構想となっていた05年にサシャーユのエミールジュールへ移籍。 06年に復帰すると、豊富な経験と強いリーダーシップを発揮し、CBのレギュラーとなった。それ以来、腰の万全のケアを契約内容に盛り込むことで連続出場が可能となり、常に守備の中心選手である。現在はキャプテンとして精神的支柱とも言える存在であり、07年の3位躍進の立役者となった。そのキック力は強力で、稀にFKでの弾丸シュートを決める。 現在も代表候補には何度も選出されているが、正式に招集されたことは一度も無い状態である。 ナイレフ・バグラントス Nailuh Vagorntoz MF 1984年、トルコのアッティアト生まれ。6歳でサッカーを始めると、ブンデスリーガを見て育ったという。地元のアマチュアクラブでプレイを続けていたが、16歳でプロクラブ、ティカルルFCへ入団した。 ティカルルFCでは体の細さをテクニックでカバーしながら、MFとして攻撃的なポジションを担った。主に下部組織で活躍していたが、安定したトップチーム昇格はならなかった。 決定的なパスを出すセンスと基本的技術の安定感は評価されていたが、レギュラー選手を押しのけるほどのストロングポイントは無かった。01年にU-17トルコ代表にも招集されたが、参戦した大会において出場機会は無かった。 02年のWFCでトルコ代表が3位に入賞したことで若手選手の海外移籍が活発になり、自身も海外志向が強くなっていく。当時国内リーグ3連覇中と絶対的強さを誇ったティカルルFCでの出場機会はその後も増えず、03年、トルコで若手の発掘をしていたサシャーユ2部FCアントレフェールトへ移籍した。 当時のアントレフェールトは高齢化するレギュラーと若手選手の併用が進まず、世代交代に失敗して2部へ降格。若手選手の獲得が急がれていた。特に攻撃の中心だったユーリア(ロシア)はシーズンを通しての出場が難しく、その後継として絶大な期待を寄せられた。特にパスセンスには当時のブリューグマイン会長が絶賛して惚れ込んだと言う。 当時この移籍はサシャーユ、トルコ両国で大きな注目は集めなかったが、本人はユーリアのプレイを間近で体験し成長。交互にトップ下を務めて成果を出し続けた。これまでの攻撃的センスに加え、常に万全の体調維持する安定感と、1試合フルに走り続けるスタミナは高く評価された。168cmと小柄で華奢なユーリアからは、華奢な体を上手く使って接触プレイをいなす技術や球離れの良さを習得。05年にユーリア引退後は後継のレギュラーとしてチームの攻撃を率い、同年のカップ戦では2部クラブとして唯一、ベスト16へ進出している。 こうした活躍で、05年にU-21トルコ代表に選出。直後にはA代表にも選出され、オーストラリア戦でデビューを果たした。代表ではSMFでのプレイが多かった。 その後、クラブではSMFやSBを経験しつつ、本職のOMFで結果を残している。チームも徐々に力を付け、08年には10年ぶりに1部へ復帰を果たし、リーグ8位、カップ戦では史上最高成績の準優勝となった。アントレフェールトのプレスとポゼッション志向のサッカーはリーグに旋風を巻き起こし、その中心選手として一躍注目を浴びた。 09年からはキャプテンとしてもプレイしつつ、課題だった決定力アップにも成功した。また、CMFにも挑戦し、中盤の底からパスを配給する働きも高いレベルを見せている。パスの受け手と出し手をこなせる選手として、国内外のクラブから注目を集めた。 現在は代表でも攻撃的ポジションを任せられており、08年ヨーロッパ選手権でのトルコ旋風に貢献。09年はWGとして起用されるなど新境地を開拓している。正確無比な長短のパスとスタミナで、攻撃のリズムを作り出す存在である。 アラン・ペルエ Alain Perruer MF 1979年、フランス南部のジェルメルエ生まれ。10歳でサッカーを始め、13歳の頃には既に国内有力クラブから獲得の打診があったという。 その中から南部に本拠地があるメルニーヨルテへ入団。下部組織でプレイを磨いた。 当時はSMFやSBとして主にプレイしていたが、サイドよりも中央でのプレイを好み、次第にCMFやOMFでの出場が増えていった。特に攻撃参加の意識が強く、その運動量と左足からの高いシュート技術で着実に結果を残した。 16歳で、若手育成に定評のあったエラセナへ移籍。ここではCBとしても起用され、その高い戦術眼と試合時のバランス感覚を手に入れたという。18歳でDMFとしてトップチームにもデビューを果たし、強豪マリワイユ戦では途中出場ながら、ヘディングで得点も挙げた。 97年にはU-18フランス代表に選出され、守備の中心選手としてプレイ。数々の大会に出場している。当時の身長は172cmと大きくはなかったが、MFで培ったカバーリング能力と読みが冴え、SW気味に守備を担っていた。 その後のトップチームではCBや、攻撃面でリズムを変えたいときに投入されるCMFとして起用されていた。99年には26試合に出場したが、守備と攻撃の両立に悩み、次第にポジションを失っていく。 00年から2年間の2部グルベーニュ移籍を経て、03年にエラセナへ復帰。するとフランス代表MFジャカエのケガにより、SMFでの出場機会を得た。そこで左サイドから中央へ切れ込む動きで決定的な仕事を何度も成功させ、監督の信頼を勝ち取った。 この年はジャカエを控えに押しやり、SMFやOMFとして公式戦37試合に出場。MFながら19得点を挙げた。 FW然とした超攻撃的な動きと守備意識の低さに批判も上がったが、得点という結果で黙らせるプレイを続けた。04年には初出場したECLでも4得点し、世界的な注目を集めた。これらの活躍により、国内外の強豪クラブへの移籍も噂された。 この働きで、03年は代表に選出。攻撃面での活躍を期待され、親善試合のポルトガル戦でデビュー(初得点)。04年ヨーロッパ選手権でも2得点し、脚光を浴びた。 だが、05年のイタリア戦で悪質なタックルを受け、膝を故障。年内に復帰したが、以降ケガをしがちになり、またチームの戦術変更(堅守)と共に出場機会を失っていく。 その後の2年間は治療と復帰を繰り返し、17試合の出場に留まった。完全復帰後もレギュラー奪取はならず、08年に下位のルエンへ移籍。安定したパフォーマンスを発揮し続けるには厳しい状態だったが、徐々に体力も回復していった。 09年は心機一転を図り、サシャーユのFCエスペリオへ移籍。圧倒的な攻撃面での貢献を期待され得点も挙げたが、チーム事情の中でCMFやCBでも出場する柔軟性で重用されている。シーズン終盤には連携も深まり、以前のような切れ味鋭い攻撃参加が見られる。 ユルゲン・エウカメケ Jurgen Ehucamkke DF 1981年、ドイツの首都ベルリン生まれ。8歳でサッカーを始めると、11歳で2部グラツム・シュベントバッハへ入団。当時はMFとして中盤から攻撃を率い、中心選手として活躍した。 15歳で既にU-18カテゴリでプレイするなど、早くから才能を期待されており、97年にはU-16ドイツ代表にも選出されている。この頃には突破力に加え、1対1の強い守備力が評価されてSMFでの出場が主だった。 99年にトップチームデビューを果たし、18歳にして26試合に出場。守備力を生かす為にSBに本職とし、思い切りのいい攻撃参加とシュート、豊富な運動量による献身的な守備でチームの躍進に貢献した。00年にはリーグ戦でフル出場を果たし、チームも2部で優勝を達成している。 その後02年に再び降格するまで1部でプレイを続け、170cmと小柄でも十分に通用することを証明した(02年は3得点6アシスト)。 代表としてはU-16以降も各年代で招集され、U-18、20で試合に出場している。01年にはU-20WFCでプレイし、ベスト16に貢献した。 03年、強豪ダッケン・グランデッヒへ移籍。ここではSMFとしてもプレイし、戦術のバリエーションを増やした。ECCにも初出場し、無尽蔵のスタミナと強靭なボディバランスで、ヨーロッパ各国のクラブから注目を浴びている。 04年、ECCでの活躍を見たイングランドのハバールヒューズFCへ移籍。大きな期待を持って迎えられたが、熾烈なレギュラー争いの中で安定した結果は出せず、05年に戦力外となった。ここではSMFとして構想されており、本職のSBでの出場は少なかった。 06年、ドイツ国内クラブの争奪戦の末、マンハイム・ゼキューラーへ入団し、チーム事情からCMFでプレイ。一定レベルのプレイを見せたものの、この起用法に不満を抱いたことで監督と反発。出場機会を与えられず、ベンチ外も多くなっていった。 こうした経緯から「20歳前後までの急速な成長の反面、その後伸び悩んでいる早熟の典型」という評価が付き、移籍を模索した。 07年、サシャーユのCDヴェクオンへレンタル移籍。薄い選手層の中においてSBで継続的に起用され、堅守を伝統とするチームに貢献した。この活躍で08年は完全移籍を果たしたが、体調不良により離脱を繰り返し、シーズン終盤からは長期離脱を経験した。 09年に復帰後は再びレギュラーとなり、左SBとしてプレイしている。持ち味の対人の強さに加え、近年は目立たなかった攻撃参加も再び見え始めている。 代表歴はU-20代表以降無いが、03年と04年にU-23代表候補に選出された。 ジョバンニ・ボルチェロッティ Giovanni Bolcherotti 1978年、イタリア北部のカタルツィア生まれ。7歳でサッカーを始め、10歳の頃には地元選抜チームに選ばれ、DFとして県大会に出場した。 15歳で地元のセリエC2のプロクラブ、CCカタルツィア入団。DFやMFを経験した後、FWとしてプレイするようになった。 当時のプレイの特徴は切れ味鋭いドリブルで、強引に敵陣に入り込んでシュートするパターンが多かった。17歳でシーズン8得点を挙げると、96年はC1のダーイオテーレへ移籍。下部組織が主ながら得点を量産し、将来が期待された。 97年にトップチームデビューを果たすと、チーム事情によりMFとしても出場機会を得ていく。中盤からドリブルで攻撃のリズムを作るプレイが評価され、最終的に14試合で6得点を記録。チームのセリエB昇格に貢献した。 その後99年にセリエBの強豪、フィジリオCCへ移籍。攻撃的MF、シャドーストライカーとして起用され、味方を活かすプレイも身につけている。シュート精度に難があったが、積極的な姿勢でシュートを放つため、評価は高かった。 シーズンで27試合に出場(11得点)した00年は、シドニー五輪を目指すU-23代表イタリア代表候補にも選出されている。 01年は、セリエC1のキオリーニャへの半年移籍を経て、スコットランド1部のハイハーミアFCへ移籍。ここではFWとしての起用が増え、シュート技術の向上に取り組んだ。当たりの強いリーグで強引な突破は通用せず、少ないチャンスを確実に決めていくプレイスタイルが出来上がっていく。 03年、FWとしてリーグ戦30試合に出場。24得点で得点ランキング2位になっている。この頃は、チャンスメークはもとより正確無比のシュート精度を武器に、5試合連続得点も記録した。 04年にサシャーユのCDテームスへ移籍したが、6得点と浪に乗れなかった。その後05年にイタリア、セリエBのソノミコーリへ移籍した。 その後の07年、サシャーユのエミールジュールへ移籍すると、攻撃の軸として機能。29試合で17得点を挙げ、チーム内得点王に輝く活躍を見せた。得点を狙う為の積極的な動きとシュート精度は衰えず、降格危機にあったチームを救う働きだった。08年は一転、若手FWの台頭でスーパーサブとしての起用が増えるが、それでも11得点で意地を見せている。 09年は出場機会を求め、エルナントへ移籍。豊富な攻撃選手を抱えるクラブにあって、少ない機会で結果を残し、後半戦はレギュラーの座を確保している。 なお、187cmと長身ながらもヘディングは得意ではない。 コメイリ・イレオ Comeire Iireo MF 1982年、チュニジアのジエリコ生まれ。10歳でサッカーを始め、16歳で地元名門クラブ、フェルチュ1907へ入団した。177cmと平均的な体格だが、アフリカ人特有のずば抜けた身体能力と、北アフリカ伝統の高いテクニックを兼ね備えたMFとして、17歳でトップチームデビューを果たした。 01年には攻撃の要として全試合にフル出場を果たし、11得点15アシストを記録。得点力とチャンスメークの両面で高いレベルにあることを証明した。 こうした活躍を受け、飛び級で01年にA代表へ招集。デビュー戦となったエジプト戦でいきなりの得点を決めるなど、高い期待と評価を受けた。 02年にはWFCメンバーにも選出され、日本戦で先発出場を果たしている。 02年のWFC終了後、エジプトのサインツへ移籍。準レギュラーとして過ごした後、03年途中からドイツのヨーイェル・セミグラッハへ半年間レンタル移籍。一定の活躍を見せたが、04年にフェルチュへ復帰した。 代表では、04年のアテネ五輪に出場した。ドリブル、シュート、パスをの高い個人技で攻撃のリズムを生み出す選手として注目されている。同年のアフリカ選手権は控えで選出され、優勝に貢献。06年大会では予選で活躍したが、本大会はケガで辞退した。 05年にはフェルチュでキャプテンとなり(23歳での就任はクラブ史上最年少)、CAFチャンピオンズリーグではクラブ史上最高のベスト4進出に貢献した。 ただしその後は伸び悩み、自身が望む自由度の高いプレイを表現できなくなった。チームの組織戦術化が進み、個人に依存しない戦い方の中で埋没、次第にプレイに精彩を欠いていく。 徐々に出場機会も失い、06年末にはキャプテンも返上。激しい気性が影響して私生活での騒動なども加わり、下部組織落ちやベンチ外も経験している。 06年のシーズン途中、ドイツやフランスの複数クラブが関心を示したが条件面で折り合わず、最高評価をしたサシャーユ2部タリヌペイ・リンベルースへレンタル移籍。わずか半年の移籍にも関わらず、攻撃的なタレントのいなかったチームで存在感を発揮し、11試合6得点で昇格に貢献。そのまま07年に完全移籍すると、靭帯損傷で半年間の離脱を経験するものの、チームの中心として安定したプレイを発揮した。 しかし、08年にチームの規律を重視するメイレ監督が就任すると、それに反発。フランスのクラブへの移籍が決定しかけたが、メイレ監督との話し合いを通じて改心。チームプレイに徹するようになり、この年はCMFやSBでも出場した。特にCMFとしては攻守で期待に応えるプレイを見せ、新境地を開拓している。ボールキープ能力が高く、「溜め」を作ると同時に、そこから自分で攻撃に発展させる独特のリズムを持っている。 09年は開幕直後に足を骨折したが、奇跡的な回復を見せて1ヶ月で復帰。チークル新監督の下ではFWで先発するなど、1部残留を目指すチームに書かせない戦力となっている。 代表では、07年のケガ以降招集は無い。 ジルベルト・ジュルー・マインニッチ Gilbert Jurier Mainnich FW 1984年、ブラジルのサンテアクロス生まれ。6歳でストリートサッカーを始めると、11歳で地元のプロクラブへ入団。その後、14歳の時には弁護士を営む父親の伝手で、州都ベザルゴを本拠地とするベザルゴBCCへ移籍した。 15歳にして試合中の駆け引きに長け、大柄ではないもののFWとしてポストプレイ、高い足下の技術と決定力で出場機会を増やしていった。17歳でトップチームデビューを果たすと、アマパー州選手権で12得点を挙げ、得点ランキング5位に食い込む活躍を見せた。 この成績で、02年はミネイロ州選手権のアトレチコ・アッテーリアへ移籍。しかし、満足な成績は残せず、04年にベザルゴBCCへ復帰した。 復帰後は、FWの軸として全試合に出場。27得点を挙げて得点王に輝いた。この活躍を受け、05年の半年間はブラジル全国選手権3部のヴァレーン・アトレチコでプレイ。05年の後半は4部のピルベルト・サントスへ移籍し、シーズン途中の加入にも関わらず、7得点を挙げている。このクラブでは中盤に下がってのゲームメイクも高く評価された。 06年の全国選手権1部FCポルティージョ移籍を経て、07年は2部のシカタFCへ移籍。ここではCFだけでなくWGとしてもプレイしたが、決定力の高さを見せつけ18得点を記録した。パスで味方を活かす前に自分で決める姿勢が結果に結びつき、FWの柱としての信頼を勝ち取った。斜めへの動き出しは予想不可能な展開をし、DFを手こずらせた。スピードに乗ったシュート力は非常に強く、ミドルからのシュートの決定力も高かった。 08年、サシャーユのエルナントへ移籍。一年目からFWの即戦力に期待され、17得点を挙げている。 ダニエル・アルメロ Daniel Almelo FW 1979年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス生まれ。7歳でサッカーを始めると、11歳でセミプロクラブへ入団。14歳で2部に所属するブエノスアイレスSCへ移籍した。 当時は長身を買われてDFであったが、次第にポジションを前目へ移動。17歳の頃にはCMFとして下部組織のキャプテンを担っている。激しいボール奪取能力と当たり負けしない体幹の強さで評価を高めたが、18歳でFWへ転向を直訴。結果、FWとしての起用をしない監督と衝突し、98年に2部のフレミオFCへ移籍した。 移籍後はFWとしてプレイし、トップチームにもデビュー。99年には17試合に出場を果たし、5得点と期待の若手として注目された。 すると、00年にクラブは1部昇格を達成。昇格を決める試合では貴重な勝越し弾を決めるなど、大きな印象を残している。 昇格後はFWの軸としてプレイを続け、02年には5試合連続を含むシーズン9得点などを記録した。だが、02年末に故障した左足膝を始め、それから数年間は故障に悩まされる日々が続いた。03年の腰と足首、04年の靭帯と膝の悪化と満足な出場が出来ず、05年に2部グラシオスへ移籍となった。 そこでの半年間の療養を経て、05年の後期シーズンに復帰。2年ぶりの二桁出場を果たし(18試合)、10得点と復活を印象付けた。 06年、以前から熱望していた海外挑戦として、サシャーユのトリーニョへ移籍。控えとして出場機会は限られたが、印象的な場面で得点することが多かった。特に国王杯の準々決勝で、サシャーユFC相手に延長戦後半ロスタイム決めた40mシュートなどは、その年の「トリーニョ最優秀得点」に選出された。 その後、出場機会を求めて07年にスペインのヨルベロアへレンタル移籍。その後、07年の後半からはサシャーユFCへ完全移籍した。トリーニョのライバルクラブだけあってブーイングを浴びたが、紳士的な振る舞いで対応した。サシャーユFCではSTを担い、前線でのボールキープと高い決定力で貢献している。07年に14得点、08年は24得点と欠かせない戦力である。 セイム・フリオ Seimu Furio FW 1986年、ガーナのリャヌメ生まれ。5歳でサッカーを始めたと言い、10歳でプロクラブ、ハインツFC入団が認められた逸材だった。 身体能力の高いアフリカ選手の中でも、当時から抜群のスピードを武器にFWとしてプレイ。15歳でトップチームデビューを果たすと、16歳でレギュラーとなっている。03年、シーズン19得点で得点王に輝くと、04年にイタリアのウダイセクタCCへ移籍した。 イタリアでもチーム1の俊足を武器にDFを翻弄し、下部組織では得点を量産。173cmと小柄ながら、評価を高めていった。 代表歴としては、03年にU-17ガーナ代表、04年にはU-20代表へ選出された。U-20代表ではU-20WFC出場を狙ったが、アフリカ予選で敗退している。 その後05年にトップチームデビューを果たすものの、シュート精度の低さとスピード一辺倒のプレイしタイルが見破られ、結果を出せなかった。 06年に半年間ハインツFCへ復帰するが、シーズン途中でサシャーユFCへ移籍。下部組織で徹底的にテクニックと基本技術を教え込まれ、サシャーユU-23全国選手権に出場。7得点で得点王に輝くなど、次第に力を付けていった。 07年、トップチームへデビュー。抜群のスピードと改善の見られるシュート技術で4得点を挙げ、スーパーサブとして活躍した。08年には定位置を確保して自己最多となる14得点を挙げた。 ただし、調子の浪が激しいことと、パス精度などの点で苦言を呈されることがある。 代表では、08年に初招集。運動量が見込まれ苦しいときに投入される役割を果たし、10年WFC出場へ貢献。本大会メンバーにも選出された。
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by remarkabler | 2010-02-17 03:08 | スポーツ:進藤進

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