最新の嘘NEWS。このブログの記事はすべて虚報ですのでご了承ください。移転しました→ http://news-lie.net

by 編集主幹

記事ランキング

カテゴリ

全体
コラム
小説:植山青彦
経済:大村兼
政治:中島良平
芸能: 水野亜紀
翻訳ニュース:木田彩加
スポーツ:進藤進
社会:十階堂将也
国際:英子クリス
文化:鴨原蘭
科学とコンピュータ:小野将吾
支局長:モリシタ
今日の一枚
書く:香春嘉子
パズル:ハタケイタ
特集
社からお知らせ
社説
ニュース速報
海外支局通信
広告:承ります
April Fool !
未分類

検索

カテゴリ:未分類( 22 )

「今年の就活生は近年で最高の出来」 就職活動が解禁、各地でイベント

大学生の就職活動が解禁となる12月1日、全国各地でイベントが行われた。ある企業の人事担当者は「今年の就活生は出来がいい。過去最高と呼ばれた昨年も上回り、ここ数年で一番」と期待を寄せる。
 
今年は劣悪な環境での労働を強いるブラック企業問題がクローズアップされたこともあり盛り上がりが懸念されたが、就職を希望する学生の数は平均並みだという。就活に詳しいエンナビの倉田さんは「ネットではブラック企業を叩いても、実際には就職活動をしないわけにはいかないのでは」と分析する。
 
東京都内の居酒屋チェーン「亜民(アタミ)」では、午前0時の解禁に合わせて同社社員と飲み会ができる「就活解禁飲み」を実施。一足先に社会人気分を味わってもらおうと、上司役の社員とともに同社の社訓を通して交流を深める狙いがある。参加費は4000円(割り勘不可)で、「一昔前は上司が奢っていただろうが、今はどこも懐が厳しい。こういう現実を身を持って知ることが大事」(亜民の担当者)という。
 
また、大手広告代理店の電博では「キラリ☆シュウカツドラフト」を開催する。企業の人事担当者500人を前に学生がステージに登壇、プロフィールや特技をアピールし、「面接を受けさせたい」と感じた学生を指名するイベントだ。学生は指名企業との「優先面接権」を獲得するが「内定とは関係ない。面接がうまく行かなければ何度でも参加してほしい」(電博の担当者)という。参加費は2万円(年間)。
 
最近では大学で就活を専門的に学ぶ「就職学部」ができたほか、企業も就活に積極的にかかわるケースが増えている。倉田さんによると、圧迫面接を実地訓練する企業主催のスクールも人気があるという。
 
ある企業の人事担当者は「就活はそれ自体が企業にとって仕事のうち。少しでも収益を上げようと、ビジネスとして就活に取り組んでいる」と明かした。


[PR]
by remarkabler | 2013-12-01 01:07

冷凍庫が寒すぎて健康被害 大学生がコンビニ提訴

冷凍庫に入ったため風邪を引き、就職活動などを辞退せざるを得なかったとして、千葉県の大学生(24)が12日、コンビニに対して損害賠償を求める訴えを千葉地裁に起こした。

訴状によるとこの大学生は今年7月20日、退屈だったことからバイト先のコンビニ「オハヨーマート」(駒野市)のアイス用冷凍庫に入り、その様子を撮影してツイッターに掲載した。

冷凍庫に入っていた時間は5分程度だったが、「直後から悪寒がしてやる気がなくなった」ことからバイトを自主判断で早退。その後も体調は回復せず、卒業単位の取得がかかった期末試験や、予定されていた就職面接を辞退せざるを得なくなったという。

10日後、風邪の診断書を持ってバイト先に説明を求めたが、10日間の無断欠勤を理由に解雇を言い渡され「将来の可能性、夢実現への足がかりを失った。自分探しをするための世界一周卒業旅行の資金も稼げない」ことから提訴に踏み切った。

大学生は「冷凍庫はマイナス20度に設定されており、寒すぎる。店側の管理が不十分ではないか」と話し、一連の経過をツイッターで報告。冷凍庫に入ってダブルピースでエビぞりする写真は1万リツイートされるなど拡散している。

提訴について「オハヨーマート」は、「ゆとりもここまで来たかと正直、驚いている。冷凍庫のアイス入れ替えにかかった費用や、クリーニング費用の損害賠償を検討している」とコメントした。
[PR]
by remarkabler | 2013-07-12 22:41

「革命」企てた中学生を逮捕 間一髪で阻止

京都府警は24日、国家転覆を狙い「革命」を企てたとして、神奈川県在住の男子中学生(15)を内乱陰謀罪の疑いで逮捕した。男子生徒は修学旅行で京都を訪れていた。

調べによると、生徒は同日午後2時ごろ、京都市内を走行中のバス車内で革命を起こそうとした疑い。友人とトランプゲームに興じていると、突然「俺は今から革命を起こす」「ルールをひっくり返してやる」「俺が大富豪だ」などと話したという。友人が携帯電話で通報し、バスが目的地に着いた時点で駆けつけた警察官に現行犯逮捕された。

突然の逮捕劇に現場は一時騒然。交通規制も行われ、数万人に影響が出た。生徒は取り調べに対し、「大貧民になりそうだったので、革命を起こすつもりだった。準備もしていた。ハートのKがあれば革命できたはず」と容疑を認める供述をしているという。

国分寺産業大学で心理学を教える名越崇彦教授は、「生徒が供述した『ルール』とは社会の価値観のことで、『ハートのK』は何かのメタファー。おそらく鬱屈した学校生活を送っていたのだろう。その原因は社会にあると思い込んで革命思想を持った、という犯行理由は想像に難くない」と話す。

バスで生徒と一緒に大富豪をしていたという友人は、「彼は革命を何度も起こして、あだ名は『革命家』だった」と話しており、警察は余罪もあるとみて捜査を開始した。今後、自宅パソコンを押収して分析するほか、よく通っていたという猫カフェにも聞き込みする方針。

【用語解説】
◎内乱陰謀罪…内乱の予備又は陰謀をした者は、1年以上10年以下の禁錮に処する(内乱予備罪・内乱陰謀罪。刑法78条)。暴動に至る前に自首したときは、その刑を免除される。内乱陰謀罪を教唆した者は、5年以下の懲役または禁錮に処される。
◎革命…トランプゲーム「大富豪」のルールの一つ。同じ数字4枚をそろえると、カードの役(やく、強さのこと)が逆になる。一気に形勢が逆転することから、この名が付いた。
[PR]
by remarkabler | 2013-02-24 22:42

ギリシャ、ユーロを離脱 「音楽性の違い」理由に

 ギリシャは17日、ユーロからの離脱を正式に表明した。国民による総選挙やり直しの結果を受けたもので、古代ギリシャからの民族音楽を志向する「歴史音楽党」が勝利。フランスを中心としたユーロがプログレッシブロックを基本路線とする中で、「音楽性の違い」は修復不可能なレベルに達したと判断した。
 選挙戦に勝利したダスカルディス党首は「これが新たな一歩。これからは本当の意味で自由な音楽表現ができる」と満足げに話した。ギリシャはこれまでユーロのパーカッションを担当してきたが、国内でパーカッション人気は高まらず、人員不足が深刻な問題となっていた。

 これまでもくり返されてきた、「音楽性の違い」によるユーロ不参加・離脱。結成時には、イギリスがビートルズの流れを組んだロックミュージックを主張して不参加に。近年では、オペラへの原点回帰を主張するイタリアなども離脱を考えているという。

 7月にワールドツアーを予定していたユーロは、ギリシャの穴を埋めるべく、スペインをカスタネット専属から配置換え。しかしそのスペインも道具の維持費用が原因で深刻な財政不足に陥っており、先行きは不透明なままだ。
[PR]
by remarkabler | 2012-06-18 23:26

海外club

海外クラブ

 

イングランド

アンバークラウンFC 76-8079ECL優勝、80ベスト8

セルバーリー(04年に昇格後、一気に強豪へ)

ハバールヒューズFC

キンバリースター・ユナイテッド(屈指の名門)

ハッパースルーFC 79-90(中堅→強豪82年準優勝83ECL出場。→中堅)

ハーマンレーカーズ

テルファーFC(強豪)

アルベール(強豪)

リーベンパール(名門)

ベイゲート・リール

バーハンダFC

ケールスワードFC

FCカクラス・シティ

エディクソン・トルータス(古豪、中堅。近年は9604ECC準優勝)

ホワイトキャッスル(00年代前半2部)

マイルビーチ(05年に2部)

トッタム・アイスパーズ

ブルック・ダンズ(2部)

サウザン・ユーティリス(2部)

ヘイント・ジェファーソンズ(2部)

スミス・カプルチーズ(2部)

ノース・カイルティング(3部)

ウィークルカイルFC3部)

 

スペイン

ベルセーナ(常勝軍団)

レード・アルミーロ 80-88(強豪。83 84年リーグ優勝、ECL優勝、86ECL準優勝)アトレチコ・リバリア 68-82(強豪。76年リーグ優勝)

ベルガボラ

アルトウェーボ 79

オレスナ(中堅)

ヨルベロア

コルドバ

トルド・アトレチコFC

クールマルス

アルフェルト・マディアール

ペルキント 83(下位)

ライモンテ(2部)

デッカリ(2部)

アントレミーゴ(2部)

セスーナ(2部)

アルコン(00年代初頭2部、04年に昇格後は1部中位上位を維持)

ウチリコーティFC(セミプロ)

 

イタリア

ポクリティス(上位)

ベナーロ 84-8783ECL出場。現在も強豪)

ウダイセクタCC90年代後半に強豪。現在は財政破綻による降格を経て中堅)

チッコリーネ 80-82

バジリオンネ 81

カンポーズ

CASAローマ

SSCパドヴァ

トリエステ・デFC

ハミケーレFC

ナポリFC

セロゼーナ

フィジリオCCBの強豪)

ソノミコーリ(B

シリーニア

ダーイオテーレ(C1B

チッコリーネ(B

キオリーニャ(00年代初頭C1

CCカタルツィア(C2

 

ドイツ

ダッハウ・シュベリーセスガー 73強豪

マンハイム・ゼキューラー 76-78中堅

オッフェン・ブルーガFC 79-82リーグ上位強豪

ハルシールAFC

サインツ・ベルリン

ベルリン・ハウザンハイムFC

ダウケン・グランデッヒ 75-76リーグ下位

ハインベルグ・ネッヘン 80-81

シュテーク・ザルテヘイン 82-83

グラツム・シュベントバッハ(00年代はエレベータークラブ、弱小)

ケイルハリエFC90年代後半2部)

SCシュベットブルグ

ヨーイェル・セミグラッハ

ベルリン・アテークカッツ(85年にセミプロで創立。現在はプロ化し2部)

FCザーウカイツァル

シュテッカーFC

シュトゥットガルト・ブナキジウム

VfBヴォルムス

 

フランス

メルニーヨルテ 80

ミルセボン

エールイール

エラセナ

ヴォーエ

セルーゼ

サンテシュミーラー

スキップ・アルニク

パリ・ルーベルタン(古豪、04年に2部降格も現在は1部上位)

カジョーFC(下位)

ルエン(下位) 84-86

FCモンテサンテル(古豪)

ショートルFC90年代2部)

グルベーニュ 87-882部)

ユーベルポッケ(2部)

 

オランダ

フェーレンヤン 72-75(強豪)

ユーティック・アクセルシュール(強豪)

オーレンヴァルデ(強豪)

ヘッテルセDVC

NAVオデマタイン

エクシュルファンサール(下位)

DECジュールメント(下位)

BCKアテークカート 69-712部)

セルファイン・フェルカーク(2部)

レックスアーゼン(2部→1部→2部→3部)

 

ロシア

ゲセル・マリン(強豪)

ペゼル・ベルガナード 82-8581ECC優勝)

 

ポルトガル

リスボン・エーレミーレFC 71-75(強豪)

デミーオミーオ 中堅 86-90

フィルッカ

サッカローネ

フィラメント・エスコーラ 69-732部)

レアシーア 91-922部)

ポルト・コルティック・エミールジュール(3部)

 

スイス

FCスヴェルコフ

FCフェールスブルグ

 

スコットランド

ハイハーミアFC

セント・カイル

マーカンソー(3部)

 

ウェールズ

クイナーズ・ベルトマンFC(強豪)

 

スウェーデン

ハルカストFC 82-84

ポールセンキFC

 

ユーゴスラビア(現在は消滅)

ヤヴェル・ドモイツォイFK(名門)

 

セルビア・モンテネグロ(現在は消滅)

ブヴェットFK

 

セルビア

ゴニール・カプレコ

 

ポーランド

シュキポルドニツクSK

リムーデ・クロセフ(強豪)

 

ノルウェー

オネールFC

ホルンピーカーズ

 

ギリシャ

ステアナコスATK 85-86

タニクパイルス

AZKベルキオン

セリコナイアスFC

カッサニロキ

 

ブルガリア

カテラスラFC(強豪)

 

ラトビア

ユニーズ・キラスティア(強豪)

ボル・ミセント

 

アイルランド

ボウストカンFC

 

トルコ

ティカルルFC

センルースールFC

シュクタス(上位)

 

ブラジル

サントミオFC(全国1部の名門)

FCヴェーゲルサント(全国1部の名門)

FCポルティージョ(全国1部)

センカナインホール(全国1部)

シカタFC(全国2部)

リンデーラ・ポストミーナ(全国2部)

タナカFC(全国2部)

デジャ・クリエトFC(全国2部)

ヴァレーン・アトレチコ(全国3部)

ビルベルト・サントス(全国4部)

アトレチコ・アッテーリア(ミネイロ州1部)

アトレチコ・エルジーニョ(ミネイロ州1部)

ベザルゴBCC(ベザリーゴ州1部)

サボラFC(エルバイーア州3部、育成目的)

 

アルゼンチン

ストイーチコ・パレーツ

セルフィーニャ

チーバ・ガーリバFC

ブエノスアイレスSC2部)

フレミオFC2部)

 

コロンビア

デポルテス・ト・ナガリート

デポルティーボ・ハキントコス

 

パラグアイ

エル・コペルニシオス

 

ペルー

リヴァン・テレカンテFC

 

アメリカ

ウィーラーSC 83

 

メキシコ

マレイヨ 89

アノーキ・スキットリトSC

カンティゴレス(強豪)

アントレー(中堅)

 

グアテマラ

グアテマラ・レニーニャFC

 

日本

ジェフユナイテッド市原

名古屋グランパスエイト

清水エスパルス

館山ブルーマリンズ(07J209年昇格)

 

韓国

珍塔ベアーズ

ソウル・シーガルズ

 

イラン

テヘラン・アジェイドFC

 

UAE

アル・ハイーダ

ラウディア

 

カタール

アル・ミダデルキSC05ACLベスト8

 

クウェート

ファジ・イリヤ

サンニ・アルベオ

 

ベトナム

ヒャンルー・チムチャン 89-91

 

チュニジア

フェルチュ1907(強豪。05CAFCLベスト4

 

エジプト

サインツ(強豪)

 

ガーナ

ハインツFC

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[PR]
by remarkabler | 2010-02-17 03:27

19782

フィリップ・オリベルト Philipe Olivelt MF 23歳 1955年、サシャーユ西部の工業都市ハインリ生まれ。12歳で地元フェルナンドスの下部組織に入団。その後72年に2部エルナントへ移籍すると、73年には早くもトップチームデビューを飾った。その試合で初得点を記録し、彗星の如く現れた若手として注目を集めた。 しかし、その後ケガなどで悩み、スランプに陥る。この間はひたすら肉体強化を目指してトレーニングを続け、優れたボディバランスと強靭な肉体を手に入れた。 すると75年、数少ない出場機会で結果を出して初のレギュラーに抜擢。183cmと大柄な体格と肉体強化の成果により、空中戦などでは絶対的な強さを発揮した。パス技術は超一流では無かったが、ボール奪取能力と守備陣統率は高いレベルにあった。 この年は、2部所属ながらも代表に初選出。だが、当時のボランチには絶対的存在のアルマンダがいたため定位置を奪うことはできなかった。それでも代表戦には選出され続け、アルマンダが大ケガで負傷離脱した際はその穴を感じさせない働きで、代表での不動のボランチとなった。78年WFCでも4-2-3-1のシステムで右のボランチとして活躍した。 そして、80年にドイツのハインベルグ・ネッヘンへ、82年には、スウェーデンの強豪ハルカストFCへ移籍した。スウェーデンリーグへの移籍は、サシャーユ初であった。ここでは屈強な肉体を評価されてCBとしてもプレイした。 代表へは78年WFC後も選出され、82年大会へ向けたチームの主力だった。しかし、予選敗退を喫してサシャーユの3大会連続、自身の2大会連続出場はならなかった。 85年になると、ギリシャのステアナコスATKへ、当時のギリシャリーグ最高額で移籍。しかし、直後に負ったケガの影響で満足なプレイは出来ず、ベンチを温める日々が続いた。また、肉体改造に関わるドーピング疑惑が持ち上がり、一年間の出場停止仮処分を受けてしまう。本人は無実を主張したものの、当時の科学技術の精度では真偽の判定が非常に困難で、現在も有罪は確定していない。しかし、仮処分を重く見たギリシャリーグや代表チームが出場機会を与えることは無くなり、86年に催された引退試合を最後に引退した。 引退後は勉強を重ね弁護士資格を取得、スポーツ選手に関わるドーピング問題に尽力している。06年には国際スポーツ選手裁判弁護会を設立し、会長職である。 フェルナンドス 67-71 0試合0得点 エルナント 72-79 152試合5得点 ハインベルグ・ネッヘン 80-81 53試合7得点 ハルカストFC 82-84 98試合6得点 ステアナコスATK 85-86 3試合0得点 代表 51試合6得点 通算 357試合24得点 セマルコス・ヴァラーニ Semarcos Varrani DF 29歳 1949年、サシャーユの首都サシェリア生まれ。少年時代から恵まれた体格を生かし、サッカーではあらゆるポジションでプレイしたという。高校卒業後の68年、プロテストを受けて当時2部のハワードヘリーFCへDFとして入団した。この時の身長は191cmである。 入団当初はプロの厳しさについていけずに出場機会が限られ、翌年は同じく2部のプルードへ移籍。その年からは徐々にトップチームでの出場が増えていった。長身に似合わないかなりの俊足が持ち味で、空中戦と競り合いには安定感があった。 71年になると、チームでレギュラーCBに定着。この活躍が1部のクラブであるアントレフェールトの監督の目に留まり、若手CBの補強のために73年に移籍を果たした。移籍後すぐにレギュラーの座を奪うと、3バックと4バックの切り替えなどの戦術にも柔軟に対応。戦術面の事情から途中出場することになっても試合にスムーズに入り込める戦術理解能力なども高く評価された。当時のアントレフェールトは優れたDFが多く守備重視だったが、その中でも早くから自らの地位を築いた。 代表への初選出は77年。当時のCBはトリオレスとセンソンが絶対的レギュラーだったものの、バックアッパーとして大きな信頼を置かれた。78年WFCへ向けた予選にも5試合、本大会でも1試合に出場を果たしている。前評判は低かったが、高いレベルでこなした。 82年WFC予選では主力だったが、DF陣の高齢化の影響などで敗退後に召集は無かった。 大会後は、経験と実力のあるCBのバックアッパーを探していたサシャーユFCへ移籍。控え選手として三年間在籍した後、82年からはドイツのシュテーク・ザルテヘインへ移籍。84年にはフランスのルエンでプレイした。最後まで現役にこだわり、ルエンを退団した87年にはフランス2部のグルベーニュへ入団、89年にメキシコのマレイヨで現役を引退した。 引退後はルエンでGMを務め、優れたスカウティング能力で多くの若手選手を発掘した。その後はメキシコ時代の人脈を生かした中南米選手の代理人形を開始。現在はサシャーユを拠点に様々なスポーツ選手の代理人業を担っている。 ハワードリーFC 68 2試合 プルード 69-72 62試合2得点 アントレフェールト 73-78 177試合2得点 サシャーユFC 79-81 44試合1得点 シュテーク・ザルテヘイン 82-83 21試合1得点 ルエン 84-86 13試合 グルベーニュ 87-88 13試合2得点 マレイヨ 89 7試合0得点 サシャーユ代表 28試合 通算 367試合8得点 ショーナ・ミラエ Shona Mirae DF 32歳 1946年、サシャーユのポルコ生まれ。少年時代から闘志溢れるDFとして知られ、65年に2部のポンレッチェとプロ契約した。ボランチやCBとして徐々に出場機会を得て行き、68年には史上初の2部全勝優勝を果たす原動力となった。 代表としては、67年に2部クラブから唯一代表入り(出場は無し)。将来を嘱望されたものの、悪質なファールを犯してしまうなど伸び悩み、その後は長らく召集されなかった。 ポンレッチェで優勝して69年に1部へ昇格すると、チームは多くの選手を獲得。その影響でレギュラーでは無くなったが、守備的ポジションはすべてこなせる器用さが重用された。 そんな中、72年に出場機会を求めアントレフェールトへ、一年後にはエルナントへ移籍した。しかしレギュラー定着はならず、74年は2部のウォーリバヤンでプレイしている。 そうした時、75年に移籍したメハカーリョでオイヤン監督と出会う。モチベーターや選手育成に定評のあるオイヤンの指導によって自信を取り戻すと、この年はチームの危機を救う数々の活躍を見せて復活を果たした。激しい気迫で相手に向かい、しつこく追い回す守備は相手を手こずらせた。ケガを滅多にしないことも強みで、長期離脱は一度も無かった。 その後はレギュラーの地位を確立し、77年からはキャプテンを任されている。 長らく代表とは縁が無かったが、78年WFCへ向けた最終予選で守備のバックアッパーが駒不足になり、77年末に急きょ選出された。コンビネーションで不安が多く、ぶっつけ本番とも言える状況だった。だが大きなミスも無く、大会後の80年まで選出されている。 クラブでは、79年にワラルースへ、80年には2部のジュロ・イヴァータへ、81年からは3部に相当する全国1部リーグのハリート・エマーソンズでプレイし、82年に現役引退した。 現在は故郷のポルコでレストランを経営している。 ポンレッチェ 65-71 65試合7得点 アントレフェールト 72 4試合 エルナント 73 7試合 ウォーリバヤン 74 28試合7得点 メハカーリョ 75-78 88試合2得点 ワラルース 79 14試合1得点 ジュロ・イヴァータ 80 10試合 ハリート・エマーソンズ 81-82 27試合5得点 代表 15試合 通算 243試合26得点 ヴァンディ・ヴォドン Vanddy Vodone FW 31歳 1947年、サシャーユのカルデミラ生まれ。11歳で地元のカルデミラ・フミーラFCへ入団すると、攻撃力が注目されて17歳でトップチームデビュー。FWとしては1トップ向きではなく、選手同士の連携や泥臭く得点を狙うプレイを見せたが結果は出ず、66年に2部から昇格するヘルマーへ移籍。「天才」と呼ばれ将来が期待されたが、ケガをしがちであり、レギュラー定着はならなかった。 69年、オランダ2部のBCKアテークカートへ移籍。がむしゃらなボール奪取力が見込まれて主にCMFとして起用された。数度のケガも克服しMFとして一定の評価を得ると、FW起用を熱望。72年にオランダ1部の強豪フェーレンヤンへ移籍し、3トップでプレイした。その後、75年は前年に負った初代表戦でのケガが影響し、開幕当初は出遅れた。だが、復帰後は14試合で11得点と大活躍。これで世界的な注目を浴び、76年にイングランドの強豪テルファーFCへ移籍した。77年は主にウイングとして出場し、27試合で10得点を記録。「この年は自身初めてケガ無く過ごし、充実したシーズンだった」と語っている。 だが、海外でレギュラーを獲得していたが、当初は代表に選出されなかった。当時のシステムは1トップであり出場機会が限られたこと、中盤に多くの選手が固まっていたこと、ケガをしがちなことなどから評価は低かったからである。74年になって初召集されたが、このときに試合中にケガをし、1試合のみの出場でWFCメンバーの選考から外れている。 しかし、77年のクラブでの活躍が見込まれ、この年から代表へも再び召集。控えながらも、点の欲しい後半やパワープレイなどで積極的に起用されて結果を残した。78年WFCのメンバーにもスーパーサブとして選出された。初選出から6試合でのWFCメンバー選出はサシャーユ史上最速(当時)である。 その後はケガで出場機会が減り、79年に1部昇格したBCKアテークカートへ移籍。しかしケガを再び負って戦力外となり、80年は全国1部リーグ(3部相当)まで降格したカルデミラへ復帰。ケガから復帰後は81年の2部昇格に貢献し、この年限りで引退を表明した。その後は株で資金を成し、04年にカルデミラを買収。強化に着手した。 カルデミラ・フミーラFC 58-65 6試合0得点 ヘルマー 65-68 23試合2得点 BCKアテークカート 69-71 56試合8得点 フェーレンヤン 72-75 56試合19得点 テルファーFC 76-78 52試合14得点 BCKアテークカート 79 4試合0得点 カルデミラ・フミーラFC 80-81 14試合7得点 代表 14試合4得点 通算 225試合54得点 ロベルト・ウォール Robert Whole DF 21歳 1957年、サシャーユのポカン生まれ。少年時代から地元のアマチュアクラブでサッカーを始め、10歳の時にスペインリーグの強豪アレトニコ・リバリアのテストに合格した。その後、11歳でアレトニコの下部組織へ入団している。 スペインでは鋭い読みとスピードが評価され、DFとしての基礎を叩き込まれた。下部組織では主にSBとしてプレイし、76年にレギュラーSBの代役としてトップチームへ昇格した。 彗星の如く現れたウォールは、アレトニコの攻撃スタイル(サイドからの徹底した攻撃)に縦へのスピードと前へ置くトラップ技術などが見事に適合。76年はシーズン途中からレギュラーの座を勝ち取り24試合に出場、5得点を挙げ5年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。 この活躍を受け、77年から代表にも選出された。WFCを翌年に控えてチームの基盤は出来上がっていたものの、SBの控えとして積極的に招集されている。代表デビューは77年の親善試合だったスペイン戦で、見事なミドルシュートを決めている。 78年WFCのメンバーにも順当に選出され、直前にケガを負ったものの2試合に出場した。 その後、クラブでレギュラーとして活躍し、79年には再びリーグ優勝を経験。サシャーユを代表するSBとして、「代表のSBは10年安泰」とまで言われた。だが、連戦の疲れか80年ごろから精彩を欠き、次第にレギュラーの座から遠ざかっていく。 そして83年にはついに放出という形で同リーグ下位のペルキントへ移籍。やや復活の兆しを見せたものの、翌年にはサシャーユのバンザウェイへ移籍している。バンザウェイでは、スピードの衰えを補うためにワンタッチでのボール捌きを生かしてボランチやトップ下でのプレイも身に着け、重用された。87年と89年にはECL予備選、本戦にも出場した。 代表では78年以降は常時招集されていた。だが、起用法で迷走を続けたパレッチ監督は80年に更迭。後任のアルモンネ監督からは、自身の不調もあって召集されなかった。82年WBC後も召集されず、86年のWFC予選に向け85年に復帰したが、予選敗退を喫している。その後、90年WFCの予選を突破。本大会には控えのボランチとして選出された。 92年に現役引退後はバンザウェイのコーチに就任。95年に退任後は解説者、実業家として活動していたが、00年にバンザウェイの経営委員入り。財政危機にあったクラブを立て直し、リーグ屈指の集客と黒字経営を誇る盤石体制へ変貌させた。 アレトニコ・リバリア 68-82 167試合17得点 ペルキント 83 14試合1得点 バンザウェイ・ヘンデリッターズ 84-92 215試合32得点 代表 57試合6得点 通算 453試合56得点 カレオ・フラッペ Careo Frappe GK 26歳 1952年、サシャーユのトリーニョ生まれ。幼いころから地元のトリーニョCDでプレイし、67年に正式に下部組織へ入団。当時はFWとしてプレイしていた。だが、同期入団のポダーが結果を出し続け、FWとしては伸び悩んでいた。 その後、驚異的なジャンプ力が高く評価され、69年にGKへ転向。当時の身長は179cmと小柄だったものの、下部組織の正GKとしてユースカップ準優勝などを経験した。 71年、身長が181cmまで伸びたころ、鉄壁の守備と恐れられたトップチームへ昇格。ウィークリー・カップなどの少ない出場機会で着実に結果を出し続け、高いレベルの守備システムを会得。しかし正GKは遠く、リーグ中位クラブの第2GKとして辛抱の時期が続いた。 そして74年、185cmになった身長に加えてジャンプ力と瞬発力に磨きをかけた。新加入の元フランス代表GKカシューが不調に陥り、レギュラーに抜擢されると好プレイを連発。74年WFC後には代表にも初選出された。 その後はクラブで驚異的な成績を残し続け、上位進出に貢献。76年には8試合連続無失点を記録。ECLでもグループリーグ無失点の好成績を残した。 代表では75年に正GKへ大抜擢。経験不足との声もあったが、不動の守護神として活躍した。守備の選手が確定しない中でもサシャーユのゴールマウスを守り続けた。78年WFCの予選は右足首の骨折で出場できなかったが、本大会では復活して3位入賞に貢献した。 その後も正GKとして81、85年のヨーロッパ選手権などに出場し、86年に代表を引退。 フラッペはそのジャンプ力と瞬発力が最大の武器で、相手のパスに果敢に飛び出した。最後までそのスタイルは変えずケガは多かったが、大ケガは77年の骨折だけであった。 クラブとしては、79年にスペインのアルトウェーボへ移籍。翌年は同リーグの強豪レード・アルミーロFCへ移籍。ECL常連クラブの正GKとして、83年はリーグ優勝、84年はリーグとECLの二冠、86年はECL準優勝などの結果を残した。 89年はトリーニョへ復帰し、90年にリーグ優勝したが現役を引退した。91年からはGKコーチに就任し、94年には監督解任により暫定監督も務めた。現在もトリーニョでGKコーチを務め続けており、堅守のトリーニョを完成させた立役者である。だが、契約も09年末で終了することが明かされ、今後の去就が注目されている。 トリーニョCD 67-78 156試合 アルトウェーボ 79 41試合 レード・アルミーロFC 80-88 284試合 トリーニョCD 89 70試合 代表 108試合 通算 659試合 セマルコス・サシャエル Semarcos Sashael MF 23歳 1955年、サシャーユの首都であるサシェリア生まれ。サシャエルの名は古代においてサシャーユ領主だったためとされる。 13歳でサシャーユ本島とは離れたメルキア島の名門学校に進学し、地元のプロクラブであるメルキアFC(5部相当の地域2部リーグ)に入団。16歳の時には14試合に出場し5得点を挙げた。この年クラブは地域リーグ1部(4部相当)へ昇格し、一躍注目を浴びた。 その後、74年に学校卒業後は両親の反対を押し切ってサシェリアFCとプロ契約。サシェリアFCは古豪として知られたが、当時は1部と2部を行き来するなど下位に低迷していた。しかし、73年はマイケル・ゼファン監督の指揮で国王杯準優勝を経験。74年には退任したゼファン監督自らが、サシャエル獲得を熱望したという。サシェリアFCでは2年目から出場機会を増やし、75年には17試合に出場するなど、試合での経験を積んだ。 持ち味は独特のリズムを持ったドリブル。ボールを取られないバランスのとり方が絶妙で、FWと中盤のほとんどのポジションをこなせるセンスや、運動量が重用された。シュートセンスも優れ、ループシュートは達人級と評され、意表をついたプレイが多かった。 75年、20歳にしてゼファン監督の率いる代表に初選出。出場機会の少ない中で結果を出し、78年WFCメンバーに選出された。82年、86年のWFC予選などには選出されていない。 その後、再び下位に低迷したチームは10代の若手選手の積極的な育成へ着手。監督の方針もあって途中出場が多くなり、中堅選手としての居場所を求めて79年にリードンへ、83年にはワラルースへ移籍した。ワラルースではトップ下でレギュラーとして活躍し、83年の4位躍進へ貢献した。この年は自身初のベスト11にも選出されている。 84年、イングランド2部のヘイント・ジェファーソンズへ移籍。2年間プレイしたが、1部昇格は果たせず帰国。ワラルースへ復帰したが、足首を痛め87年に引退した。 その後はテニス界に進出し、テニス大会のプロモーション等を経験。しかし負債を抱えた後、一切手を引いている。94年にワラルースのメインスポンサーであるクツフルツ自動車へ入社。現在はアジア担当のディーラーとして活動している。 メルキアFC サシェリアFC リードン ワラルース ヘイント・ジェファーソンズ ワラルース 代表 通算 サシャーユ代表歴代監督 アーマル・ディレイクト Armal Direycte 1908−11 サシャーユ出身。サシャーユ代表の初代監督であり、当時存在したコルト代表との統合を行った人物でもある。詳細な経歴は不明だが、プロ化以前のクラブチームで選手兼監督を経て、00年代初頭に選手を引退。07年に初開催された国王杯で優勝したアントコールFCを率いた実績を買われ代表監督に就任したという。同クラブの選手を中心とした編成で08年ロンドン五輪に出場したが、8ヶ国中7位に終わっている。 翌年の国王杯初開催はこの惨敗の反省の上になされたと言われ、ある意味プロ化に影響を与えた人物である。 採用フォーメーションは当時の主流であった2−3−5であった。 フレデリック・ハーバートン Frederick Harbarton 1911−17 イギリス出身。当時世界最強とされたイギリス代表に長らく関わり、08年ロンドン五輪で優勝した同チームにも帯同していた。イギリス国内で監督を務めた後、就任。 就任直後から協会と話し合いを続け、年内にリーグ戦を開始させた。イギリス式の練習法や戦術を植え付けたとされ、2−3−5のフォーメーションで多くの国際試合に参加した。6年間に渡る長期体制の中でサシャーユサッカーのレベルは飛躍的に上昇し、国際的な水準に引き上げた功績は名高い。 12年のストックホルム五輪では12ヶ国中5位と、着実にレベルアップを果たしている。 ヨーゼフ・コンシリア Joseph Koncila 1918 オーストリア出身。詳細は不明だが、オーストリアで監督業に携わっていたとされ、当時としては破格の大金で一年間だけ指揮を執った。 戦術は2−3−5を用いていたが、選手交代や疲労の蓄積などの知識は低く、事実上の解任で代表監督から去ったという。 ミラー・シューダ Miller Shuda 1919−22 サシャーユ出身。イギリス留学を経てプロサッカー選手となり、引退後に監督業を開始。サシェリアFCを率いた経験もあり期待されたが、一身上の都合により3年間で退任した。 戦術は2−4−4を好んでいたが、結果は芳しくなかった。 20年に開催されたアントワープ五輪に出場したものの、15ヶ国中12位と篩わなかった。 カーター・フォーナー Carter Forner 1922−24 イギリス出身。イギリス国内の名門クラブで監督やコーチを務めた経験があり、前年まではアントコールFCの指揮を執っていた。 緻密な戦略を武器に、アントコールFCの選手を中心とした代表で結果を出したが、選出の偏りを指摘されたことで協会と衝突、世論も巻き込んだ議論となった末に辞任した。 2−3−5だけでなく実験的なフォーメーションも用い、24年のパリ五輪では一回戦から出場、最終的に6位に入っている。 セイマン・ダンゲル Saiman Dangerl 1924−30 サシャーユ出身。25年にヨーロッパクラブカップで準優勝したアントコールFCを率いていた知将。2−3−5を基本としながらも若手選手やベテランを巧みに采配し、30年の第一回WFC出場へ向けて強化を進めた。 28年に行われたアムステルダム五輪は4位と史上最高成績を残し、WFCでの活躍が期待されたものの、政治的・資金的問題から断念することとなり、30年に辞任している。 サクール・イシュジマ Sakurle Ishujimer 1930−32 サシャーユ出身。現役時代はオーストリアのクラブでプレイしたといい、攻撃的なサッカーを好んだ。 3−2−5のフォーメーションを基本とし、「サシャーユ史上最も面白いサッカー」とも呼ばれている。 キャテルン・ハインゼ Caterun Hainze 1932—39 56—58 サシャーユ出身。イギリス留学などを経てサッカーを学び、1932年に代表監督へ就任。緻密な戦術と豊富なタレントを武器に34年WFCでは準優勝に導いた。 その後、56年に17年ぶりに結成されたサシャーユ代表監督に復帰。戦時中はイギリスで生活しており、そこで学んだ近代サッカー理論を代表に植え付けた。だが、戦後直後の復興期において充実した戦力は得られず、またサッカー協会の資金不足もあって強化は進まず、58年WFC出場はならなかった。 用いた戦術としては、30年代は3−2−5、50年代は4−2−4と時代に沿ったオーソドックスなスタイルだった。 フレデリック・カマン Flederickk Camene 1959-62 70-74 イタリア出身。62年に28年ぶりのWFC出場を果たした時の代表監督でもある。この時期イタリアサッカー協会との連携を強め、その一環として就任した。現役時代はDFで、引退後はイタリア国内で、主に2部クラブの指揮を執っていた。なお、67年から2年間はブルガリアで代表監督を務めている。 就任当初からFWはゴメス・ビショッパという1人で得点できる選手がおり、前線は自由さを重視する分イタリア伝統のカテナチオを念頭に置いた守備に力を入れた。3-4-1-2のシステムで、中盤でのプレスは徹底して激しく指導。60年ヨーロッパネイションズカップは予選ラウンドで大敗して敗退したが、WFC予選をヨーロッパ予選参加国中最少失点で勝ち抜き、28年ぶりとなるWFC出場を果たした。だが予選終盤になって顕著になった守備偏重やビショッパの不調もあり、グループリーグ敗退を喫した。 2度目の就任となった70年からは、堅守からテクニックを生かした速攻を指向。4-5-1を採用し、時には5バックとなった。高い技術を持つ選手が多く、体格を生かした相手には脆さを見せたが、技術でカバーした。72年ヨーロッパ選手権は予選敗退したが、74年WFCでは洗練された攻撃を披露。イタリアに敗れ予選リーグで敗退したが「予選リーグで最高に美しい敗退国」と呼ばれた。 サシャーユでの実績によって本国で再評価され、77年からはイタリアの強豪ウダイセクタの監督に就任している。 リックメル・チークル Rickmele Cheecle 1962-64 サシャーユ出身。イタリアで戦術を学び、カマンの下で代表コーチを務めていた。退任に伴い内部昇格し、堅守路線を受け継いだ3-5-2で戦った。しかし体の強さを重視するサッカーに合うだけの肉体を持った選手が集まらず、空中分解。途中からテクニック路線へ変更したが、戦術を徹底しきれず連敗を重ねた。チーム状態が崩壊した結果、64年ヨーロッパネイションズカップは不参加となり、辞任した。 ケイト・メリエス Kaito Merriese 1964-70 サシャーユ出身。戦時中にオランダへ渡り、オランダでサッカーを学んだ。オランダリーグ2部で選手としてプレイした後24歳で監督へ転身。トータルフットボールの前身となるサッカーを身近に体感した経験を買われた。 技術と戦術理解度の高い選手に恵まれ、4-3-3を採用しながら支配率を重視したサッカーを指向した。68年ヨーロッパ選手権ではグループリーグ予選を初めて突破。しかし肉弾戦を得意とする相手に脆さを見せ1回戦で敗退。70年のWFC予選敗退でも敗退を喫した。結果は伴わなかったが、フィジカルサッカーからの脱却とサシャーユサッカーの方向性を定めた監督である。 マイケル・ゼファン Michael Zefan 1974-78 サシャーユ出身。オランダで監督業を学び、3大会連続のWFC出場を目指すため就任した。 就任前は国内クラブを率いており、当時の国内リーグの主流だったイタリア式堅守戦術を一新した。システマチックでチーム全体の連動性を重視した戦術を徹底。しかし選手個人の発想力までは制限せず、特に攻撃面では多くのタレントを抱えて観客を魅了した。守備もメンバーの固定が遅れたもののコンパクトに整え、「万能サッカー」と評されるチームを作り上げた。高い技術を持った中盤の選手によるパス回しと、最終ラインからの速攻、素早いパスによるダイレクトなプレイと波状攻撃は、サシャーユサッカー界に大きな影響を与え、現在でも「完成型」の一つとして目標と伝統となっている。76年ヨーロッパ選手権をベスト8に達して迎えた78年のWFCでは、戦後のサシャーユサッカー復興を印象付ける3位入賞を果たした。20代前半の選手が多く起用された。 モル・パレッチ Mol Paretti 1978-80 サシャーユ出身。72年にECL準優勝のタリヌペイを指揮した監督だった。78年のWFCで3位に入賞した時の若手選手の成長に期待し、メンバーを固定した連携の徹底を行った。しかし、若手に期待しすぎるあまりベテラン戦力の発掘に遅れ、先発選手と控え選手の連携面で大きな差を生むこととなった。主に4-1-4-1を採用したが、システムのバリエーションは少なかった。それでも80年ヨーロッパ選手権は本戦出場を決めている。予選敗退結局連携面の不安は解消せず、直後、ケガ人の発生などもあって82年WFCの3次予選の途中、2連敗して更迭された。 フェルナンド・アルモンネ Fernando Allemonne 1980-82 サシャーユ出身。予選途中で更迭されたパレッチの後任として、急きょ就任。現役時代はイタリアでプレイし、就任直前までサシャーユサッカー協会で国際交流委員を務めていた。強豪での監督経験が無く実力が不安視されたが、絶望的と言われたWFC3次予選を突破して一躍喝采を浴びた。しかし78年WFCの主力DFを中心とした守備陣の平均年齢は高く、また前任からの問題である連携を解消できないまま最終予選で敗退した。 当時国内、代表ともに主流から外れつつあったイタリア式の堅守をベースとした3バック3ボランチを基本に戦ったが、攻撃面の迫力に欠けた。 クリスティアン・ボンメボラ Christian Bonmebole 1982-86 サシャーユ出身。74年にサシャーユFCを率い、ECL準優勝を果たした監督。限られた戦力でチームを立て直す手腕で知られ、スペインのクラブから引き抜かれた。 前任が構築した守備的戦術・選手選考を一掃するために一年間を要している。最も国内で浸透していた4-4-2を用い、中央からシンプルに前線へ運ぶカウンター攻撃を目指した。新戦力の発掘にも熱心で、多くの若手選手も発掘している。84年ヨーロッパ選手権は予選で敗退したが、最後までイングランドと1位を争った。しかし選手の相次ぐケガや、最後まで核となる選手を見つけられなかったことで、WFCは最終予選でまさかの敗退となった。 だが、ボンメボラの目指した中盤での安定したパス回しによるポゼッション重視や、速攻をベースとしたダイレクトサッカーは、今日におけるサシャーユの伝統である。 ゴンザレス・クルカック Gonzalez Cullcack 1986-90 スペイン出身。国際的な評価は皆無だったが、サシャーユリーグ2部のクラブを数年で1部の強豪に育てた手腕が評価された。サッカー協会の資金不足により大物監督を呼べなかった影響もある。 就任後は、3-3-3-1のシステムを使用。ポジションチェンジを繰り返しながらの波状攻撃で、柔軟性に富んだ布陣を持っていた。88年のヨーロッパ選手権は予選で敗退したが、 サシャーユFCが達成したECLでの好成績も後押ししてWFC予選を突破。豊かな戦力を駆使して2大会ぶりの本大会出場を果たし、ベスト8の好成績を残した。 ペレース・グランドニア Perez Grandnia 1990-92 スペイン出身。現役引退後はスペインの強豪レード・アルミーロFCなどで監督を務めた。同クラブの80年代の黄金期の土台を作ったと評される名監督だった。 就任当時は中盤にタレントが揃い、それを生かすために4-1-4-1を採用。3バックから4バックへの移行に苦しんだが結果は出していた。しかし、92年に病気のため退任。 カール・シュルーマ Karl Shuruma 1992-95 サシャーユ出身。88年のECL優勝を達成した、ベル・キオラ率いるサシャーユFCでヘッド・コーチを務めていた。前任の退任によって急きょ就任した。 4-2-3-1的な4-2-1-3を基本とし、下がり気味のウイングの運動量を必要とする攻撃サッカーを標榜した。時にはFWを5人出場させるこの采配が決まり、92年のヨーロッパ選手権は本戦出場。WFC予選はプレーオフで出場を狙ったが、敗退した。 世論は続投に批判的だったものの、短い期間で結果(ヨーロッパ選手権ベスト16)を残した実績が評価されてWFC後も続投。その後は起用法などで選手との間に軋轢を生み、95年に解任された。 トルナルド・ゼッキ Tolenardo Zekki 1995-98 サシャーユ出身。シュルーマ監督の解任に伴い就任した。弟は78年WFCメンバーのアルチェロ・ゼッキ。イングランドやドイツのクラブで監督を務め、94年にはECCで優勝した実績を評価された。不和が囁かれたチームを「仲間」の名称で呼び、崩壊を食い止めた。だが、戦術を浸透しきれなかった96年ヨーロッパ選手権は予選で敗退している。 システムは4-3-3や4-2-3-1を使い分けたが得点力不足に悩まされ、手堅い戦術に終始した。前時代的なイングランドサッカーの信奉者であり、そうした批判も多かった。 主力選手にケガが相次ぐ不運や、所属クラブで出場機会の得られない選手が多かった。ベストコンディションにほど遠い場合はセットプレイの精度を上げてやり繰りしたが、96年ヨーロッパ選手権は予選で敗退、WFC最終予選でも3度の零封を喫して敗退した。 ベル・キオラ Bell Quiora 1998-2000 サシャーユ出身。かつてサシャーユFCを復活させた手腕を見込まれて就任。若手育成に評価のある監督だが、当初から健康面で不安があって2年契約となった。 就任前の数年間はチームの平均年齢が上がり、ベテラン陣のケガが多発。そこで積極的に新戦力を発掘し、時には2部のクラブからも招集した。その結果、若さの溢れたアグレッシブな姿勢が出来上がった。 1トップ気味の4-3-3のシステムを使用し、スピード感溢れる攻撃サッカーを標榜した。柔軟な戦術変更や選手交代が持ち味で、00年のヨーロッパ選手権は戦後最高のベスト4に導いた。この試合を最後に、契約通り退任。 ステファン・ヤロックシュガー Stephan Jarockshuger 2000-02 ドイツ出身。当初は88年にECLで優勝したサシャーユFCのスタッフを中心に人選したが、土壇場でヤロックシュガーが抜擢された。サシャーユサッカーには馴染みが薄く、初のドイツ人監督という人選は不評を買った。経歴としては、ドイツのクラブで長年に渡り監督を務め、97年には地方クラブを率いてECLで数々の番狂わせを演じている。 就任当初は自身も経験の少ない3バックを基本にし、3-4-1-2を採用。しかし選手からの戸惑いが相次ぎ、4-3-3へ変更している。システムで混乱を引き起こしたものの、人心掌握術に長け団結力を生んだ。キオラ前監督の流れを受け継ぎつつも1対1の守備を徹底するなど超守備戦術で独自色を強め、02年WFCの予選を突破した。本大会は堅守で期待されたが、ケガとチーム内不和でグループリーグ敗退を喫した。 ロベルト・ミラーズ Robert Millers 2002-06 サシャーユ出身。往年の名選手ケラー・ミラーズの息子。監督としてはトルコやスペイン、東欧で経験を積み、92年はサシャーユFCで監督を務めた。96年からはU-18、20、23世代のサシャーユ代表監督を務めた。 基本システムは4-2-3-1で、4-3-3や4-1-4-1なども併用する。サイド攻撃のためボールを散らす中盤の底を重要視し、ハミック・レンジョンらを発掘した。サシャーユだけでなくヨーロッパにおいても若手の知将として知られ、戦況を瞬時に理解し、選手交代で劇的に流れを変える手腕の評価は高かった。サシャーユサッカーの伝統だったダイレクトプレイの多い速攻に、遅効のアクセントを効果的に取り入れた。 04年のヨーロッパ選手権は予選敗退を喫したが、06年のWFC予選を突破。カシオ・カリアンらのタレントを擁し期待され、ベスト16に進出した。 アワーシュー・ガルソン Awarshew Gareson 2006- サシャーユ出身。23歳からスペインやオランダで監督業を学び、94年からU-17、20サシャーユ代表監督などを経験。99年からは日本のクラブで監督を務め、次期日本代表監督の期待が高かった。00年からエルナント監督に就任し、ユース強化委員長も兼任。リーグ2連覇を達成。ECCベスト8など、国際経験も豊かだった。 ボランチを2人置き、低い位置からのボール保持を重要視するサシャーユの特徴を徹底して指導。選手には更なる技術と運動量を求め、独特の練習方法などで注目を集めた。攻撃パターンを多様化し、伝統の速攻をベースとしたポゼッションサッカーに磨きをかけた。08年のヨーロッパ選手権は強豪を倒して本戦出場。若手選手を積極的に起用している。 しかし10年WFCは最終予選、プレーオフで敗退した。だが、協会は12年まで契約を延長。 ワールドカップ成績 ○=出場 ●=予選敗退 △=不参加 ×=棄権 30 △不参加 34 ○準優勝 38 △不参加 50 △不参加 54 ×棄権 58 ●ヨーロッパ予選敗退 62 ○予選ラウンド敗退 66 ●ヨーロッパ予選敗退 70 ●ヨーロッパ予選敗退 74 ○グループリーグ敗退 78 ○3位 82 ●ヨーロッパ予選敗退 86 ●ヨーロッパ予選敗退 90 ○ベスト8 94 ●ヨーロッパ予選敗退 98 ●ヨーロッパ予選敗退 02 ○グループリーグ敗退 06 ○ベスト16 10 ●ヨーロッパ予選敗退 出場 7回 準優勝 1回 3位 1回 ベスト8 1回 ベスト16 1回 ヨーロッパ選手権(ヨーロッパネイションズカップ)成績 ○=出場 ●=予選敗退 △=不参加 ×=棄権 60 ●ヨーロッパ予選敗退 64 △不参加 68 ○予選ラウンド敗退 72 ●ヨーロッパ予選敗退 76 ○グループリーグ敗退(ベスト8) 80 ○グループリーグ敗退(ベスト8) 84 ●ヨーロッパ予選敗退 88 ●ヨーロッパ予選敗退 92 ○グループリーグ敗退(ベスト8) 96 ●ヨーロッパ予選敗退 00 ○ベスト4 04 ●ヨーロッパ予選敗退 08 ○グループリーグ敗退 12 初期においては「ドリームチーム」と自画自賛するサッカーを展開し、サッカー後進国でありながらも初出場の34年大会で準優勝を達成した。その後戦争などの影響で不参加を続けたが、58年から再び復帰を果たしている。 62年に28年ぶりの本大会出場を決めると国民は熱狂的盛り上がりを見せた。 その後はコンスタントに出場を続け、特に70年代は豊富なタレントを抱えてW杯の常連となり、78年大会では3位に入賞している。 一転80年代は2大会連続で出場を逃して低迷したものの、国内リーグの復興と共に力をつけて90年以降は再びヨーロッパサッカー界の表舞台に登場した。 縦へ早い緻密なパスサッカーは伝統とされ、現在の代表チームでも継承されている。高い技術のある選手を揃え、パスワークと縦へ早いダイレクトプレイによる速攻を得意とする。 ワラルース・コルティックス アンバリン・フェルナンドス VARDフローアローズ サンイト・レジーナ FCケラノ エルミア・ハルエチコ チェストンファン コルティック・ハインリ カーロン・アンダレード ルルージュFC ジュロ・イヴァータ ハワードへリーFC アキーノCD ウォーリバヤン FCヘルマー メリテヤFC アリタス・ルーマ・ケロクロ CDセミナール ブルード サシャーユサッカー ベスト11 監督 マイケル・ゼファン 1978年のWFC3位に導いた名監督 GK ジュニオ・セーラ 第一線で活躍し続ける現代表の守護神。06年WFC出場。 カレオ・フラッペ 78年WFCの正GK。80年代も活躍し、ECL優勝などを経験。 ミチェーレ・シウダン 戦後のサシャーユサッカーを支えたGK。79年ECL優勝。 DF セイメス・トリオレス 70年代はECL活躍。小柄ながらスピードやジャンプ力に優れた。 マイケル・センソン 体格を生かした攻撃に優れ、代表通算25得点。 イハラ・アキダツマ 90年代を代表するDF。198cmの長身で鉄壁を誇った。 アルチェロ・ゼッキ 70-80年代、サイドバックとして攻守で活躍。 カレマン・ハリードベリゼ 左サイドバックとして活躍。 MF ケラー・ミラーズ ケイナンティ・アルマンダ マイケル・バイナー スコラ・ヤンクテール セイメス・イカンソン ジョシュ・リッカーマン ケイティ・イカンソン ジェルキ・ポルリア クリスティアーノ・ディジェーゴ FW ゴミス・ビショッパ オズワルド・タリードナストベリゼ カーラ・ポルター アイシンド・ジェッファー アリアス・ハポネス ハミック・レンジョン
[PR]
by remarkabler | 2010-02-17 03:24

19781

1978年WFC3位メンバー 監督 マイケル・ゼファン GK カレオ・フラッペ 26歳 カシオ・カンノ 24歳 ミチェーレ・シウダン 36歳 DF セイメス・トリオレス 30歳 マイケル・センソン 28歳 アルチェロ・ゼッキ 28歳 セマルコス・ヴァラーニ 29歳 ロベルト・ウォール 21歳 ゴメス・バフラテット 28歳 ショーナ・ミラエ 32歳 MF マイケル・バイナー 32歳 スコラ・ヤンクテール 22歳 セイメス・イカンソン 23歳 レオナルド・ベーカー 27歳 フィリップ・オリベルト 23歳 カロナライナ・ポルター 26歳 セマルコス・サシャエル ジョシュ・リッカーマン 31歳 FW クリスティアン・ポダー 23歳 ダビド・ヴァネイサ 25歳 ヴァンディ・ヴォドン 31歳 オズワルド・タリードナストベリゼ 25歳 マルコス・オルセ 28歳 1978年WFC3位メンバー ポジション 名前 所属 監督 Michael Zefan GK カレオ・フラッペ カシオ・カンノ Michaele Ciudane DF セイメス・トリオレス マイケル・センソン アルチェロ・ゼッキ セマルコス・ヴァラーニ ロベルト・ウォール ゴメス・バフラテット ショーナ・ミラエ MF マイケル・バイナー スコラ・ヤンクテール セイメス・イカンソン レオナルド・ベーカー フィリップ・オリベルト カロナライナ・ポルター セマルコス・サシャエル ジョシュ・リッカーマン FW Christian Poder ダビド・ヴァネイサ ヴァンディ・ヴォドン オズワルド・タリードナストベリゼ マルコス・オルセ 4-1-3-2 4-2-3-1 マイケル・ゼファン Michael Zefan 1936年、サシャーユのトリーニョ生まれ。物心ついた少年時代は国内リーグが中断中であり、海外で活躍するサシャーユ人選手を見てサッカー選手を志したという。戦前のトリーニョ・コルケロを前身とするアマチュアクラブ、トリーニョCDに入団し、技術を磨いた。 51年、リーグの再開と同時にトリーニョCDはリーグへ参入。そのままDFとして、15歳でプロ入りした。 下部組織から54年にトップチームへ昇格したものの、生来小柄だったことやケガがちなこともあり、すぐに定位置確保は至らなかった。試合出場も少なく、55年にはプロの傍らでトリーニョ大学(体育生理学)へ進学している。 55年、イタリア人のファビオ・アルニコベーニが監督に就任。縦へのスピードを活かすべく、終了間際に投入されるトップ下へコンバートされた。これにより56年に4得点、57年は6得点と結果を残している(57年はリーグ優勝)。このことについて「DFとして終わりかけていた自分を、戦術とシステムで蘇らせてくれた」と語っている。 だが、58年に左足を骨折し、59年は腰痛を発症。復帰を目指したものの、61年に現役を引退した。 引退後は、アルニコベーニに憧れて指導者を目指し始める。61年に大学院へ進学して体育生理学と語学を学ぶと、62年からはトリーニョでフィジカル・コーチの経験を積んだ。 64年、退任するアルニコベーニと共に、オランダの名門フェーレンヤンへ所属。ここで監督を目指すようになり、近代サッカーの基礎を学んだ。65年はスペインのアルトウェーボへ出向き、二年間に渡ってアシスタントコーチ研修を受講。 67年にオランダへ戻ると、オランダ2部のレックスアーゼンを率い、68年には1部昇格を達成した。69年は1部で4位に食い込み、シーズン終了後に辞任している。 70年にサシャーユへ帰国すると、当時下位に低迷していたサシェリアFCの監督へ就任する。ここでは独自の理論でチームを構築、73年には国王杯準優勝に導いた。サシェリア監督はこの年で辞任。 74年、WFC後に代表監督へ就任した。一貫してこだわり続ける「最終ラインからの押上げ」「高い位置からのプレス」「ボランチの守備力」「流動的なポジション」「徹底したサイド攻撃」などを駆使し、「史上最高のひとつ」とまで称される「万能サッカー」を体現し、78年WFCでサシャーユ史上最高の3位入賞を果たした。この大会の代表チームは、準決勝での誤審がなければ決勝進出も可能だったと言われている(オフサイドで2得点取り消し)。 78年で代表監督を退任すると、フランスのメルニーヨルテ監督へ就任。しかし79年に解任されている。その後一年間の休業を経て、81年からはポルトガルやフランスのクラブを率いた。特に83年にフランスのエールイールでECLを制し、84年はイングランドのハッパースルーFCでECLを監督として連覇という偉業を達成した。 クリスティアン・ポダー Christian Poder FW 23歳 1955年、サシャーユの港町であるクロテア生まれ。62年に28年ぶりのWFCへ出場を果たしたサシャーユ代表に憧れ、地元のアマチュアクラブでサッカーを始める。 67年、テクニックの高さを見込まれサシャーユFCの下部組織へ入団。下部組織で順調に力を付けFWとして実績を残し続けた。74年にはトップチームで初出場し、この年はスーパーサブとして7得点を挙げるなど活躍。しかし、それ以降は控えとしてくすぶり続ける。 76年には開幕戦の先発を任されたが、結果が出せず再びベンチへ。これを機に、翌年はツーリオ・サルディへ移籍。FW不足に苦しむクラブで重用され、77年は9得点、78年には21得点を挙げてWFC代表メンバーに滑り込んだ。 77年に代表初選出後は結果を出し続け、78年WFC代表として2試合目のペルー戦に先発出場。サシャーユFC時代は息が合わなかったイカンソンとのコンビは抜群の輝きを見せ、2得点を挙げた。その後、準々決勝でも先発し、決勝では後半から出場を果たしている。 大会後、サシャーユFCへ復帰。代表で培ったコンビネーションを発揮し、80年には23得点で得点王に輝いた。俊足や体格に恵まれた訳ではなかったが、ワンタッチやヘディングでの得点、マークを外す動き出しに優れ、2トップの一角やSMFとして活躍した。 しかし、当時の攻高守低状態だったリーグでの得点感覚が代表試合になると発揮できず、その後の2大会連続WFC予選敗退の戦犯の一人となった。 そうした批判を避けるように、86年に代表引退を宣言してポルトガルのデミーオミーオへ移籍。世界的に見れば決して強豪とは言えないこのクラブでは結果を出し続け、88年EURO杯3回戦出場や、90年ポルトガル国内杯準優勝に貢献した。 91年にはポルトガルリーグで2部降格の危機にあったレアシーアへ移籍。2年間に渡って在籍し、レギュラーとして1部残留に尽力する働きを見せた。 93年になると、日本のJリーグ開幕に合わせて名古屋グランパスエイトへ移籍。一年間FWやMFとしてプレイした後、現役引退した。 引退後は解説者などを経て、現在は家業(文具店)を継ぐ傍ら、サシャーユ地域リーグ1部のカゼオール・ジブリでコーチ兼GMを務めている。 サシャーユFC 67-76 34試合9得点 ツーリオ・サルディ 77-78 54試合30得点 サシャーユFC 79-86 207試合103得点 デミーオミーオ 87-90 86試合28得点 レアシーア 91-92 39試合13得点 名古屋グランパスエイト 93 17試合4得点 サシャーユ代表 57試合17得点 通算494試合204得点 ミチェーレ・シウダン Michaele Ciudane GK 36歳 1942年、ドイツのブルーグバウデンでサシャーユ軍人ヘルメの父の息子として生まれた。戦局の悪化でドイツや東欧諸国を転々とする幼少時代を過ごしたという。46年にサシャーユ国内のゲリラが全面的に降伏して「完全なる終戦」を迎えたが、父親の戦争犯罪疑惑で入国できない日々が続いた。 50年、疑惑は晴れて入国すると、サッカーを始める。高校を卒業後、61年にエスペリオのテストを受け合格し、入団。196cmの長身を見込まれ、GKとしていきなりトップチームデビュー。コースの読みや動きだしに優れ、64年にはリーグ戦7試合連続無失点を記録し優勝、「サシャーユの石砦」と呼ばれた。 GKの人材不足はサシャーユサッカーにとって戦後の大きな問題点だったため、代表デビューは22歳の64年。初の出場となったソ連戦では5失点してしばらく選出されない時期があったものの、66年に代表復帰し、67年からは正GKに定着。70年以降はキャプテンを務めあげ、同年のWFC予選ではスペイン、ポーランド、ドイツという「死のグループ」でも最終戦まで本戦出場の可能性を残す大健闘を見せた。この大会では、グループリーグ敗退チームの中から唯一、ベストプレイヤーズチームに選出された(第三GK)。 74年WFC大会でも正GKだったが、78年大会では新鋭フラッペがレギュラーとなり、第三GKとして選出。大会直前のチームの内紛を治めるなど、プレイ以外の貢献も目立った。 クラブでは72年にエミールジュールへ移籍。74年からはサシェリアFCでプレイした。そして76年、経験と実績を買われ、イングランドのアンバークラウンFCへ移籍。ここではGKコーチも務めながら守護神として活躍し、79年のECL優勝に貢献した。ちなみに、アンバークラウンにおいて外国人として初めて正GKとなった人物でもある。 なお、79年リーグ戦でPKを決め、イングランドで唯一得点したサシャーユ人GKである。 サシャーユサッカー復興期を支え、実績を残した名GKである。ケガの影響で80年に現役引退後は、エスペリオやサシャーユFCでGKコーチを務め、90年にトルコのシュクタスの監督に就任(~92、91年リーグ連覇)。99年にはサシャーユU-23代表監督、00年からはアンバークラウンの監督としてECCベスト4、06年にはトーゴ代表を率いてWFCへ出場するなど、ヨーロッパでも知られる「偉大な監督」である。 ただし近年は3−5−2システムに固執するあまり結果が出せず、半ば引退し解説業が多い。 エスペリオ 61-71 347試合 エミールジュール 72-73 60試合 サシェリアFC 74-75 80試合 アンバークラウンFC 76-80 134試合1得点 代表 127試合 通算 750試合 ダビド・ヴァネイサ David Vanaiz FW 25歳 1953年、サシャーユのポカン生まれ。12歳でトレンド・ファンの下部組織へ入団すると、ストライカーとしての才能が開花。果敢なドリブルが持ち味で、Bチームでは出場のたびに結果を残すものの、素行の悪さが原因でレギュラー定着はならなかった。このときの記録としては、72年に26試合出場31得点(Bチーム)などがある。 74年、新監督マシュー・レッチの下で精神的に成長し、レギュラーに定着。チームは14位に沈んだものの、チームトップの7得点と気を吐いた。75年には14得点を挙げ、一躍若手の点取り屋として注目を浴びた。その後、76年に若い才能に目を付けたセリエAのカンポーズへ移籍。当時は珍しい試合中ずっとサイドに大きく開いたポジションでプレイ。クロス精度に難があったものの、果敢なドリブル技術と無尽蔵のスタミナが評価された。 この年から代表にも選出され、代表では中央でボールをキープするなど幅広いプレイを得意とした。 78年のWFCに向けては、予選から参加。77年末のケガで試合から遠のいたが、本大会メンバーに選出。本番ではグループリーグ第1戦のパラグアイ戦にサイドのMFとして先発すると、第2戦のデンマーク戦では後半にFWとして出場。この試合で再びケガを負い、以降この大会での出番は無かったが、持味を発揮して「サイド攻撃」を体現した。SBからSMF、WG、CFと多くのポジションをこなせることもあり、多くの監督に重用された。 その後、WFCでのケガが長引いてクラブでは調子を落とした。完全復調後も、奔放な性格が災いして監督と確執を生み、カンポーズでの出場機会は減少。82年にロシアリーグのペゼル・ベルガナードへ移籍した。この年のECC(ヨーロッパチャレンジカップ:各リーグからの任意参加クラブによる総当たりカップ戦)を制したロシアの名門であったが、ここでは数年前を思わせる動きのキレを見せ、また、CFとして中央からドリブルして点を決めるスタイルも復活した。 その後、33歳でトレンド・ファンへ復帰。87年は離婚問題に絡む弁護士暴力事件で半年間の出場停止処分を受けるなどしたが、88年に現役を引退。 現役引退後もプライベートの問題で世間を度々騒がせ、現在はテレビタレントである。 代表としては、80年代以降に7試合に召集されたものの、WFCといった主要大会メンバーには縁が無くなった。最後の出場は85年の親善試合だった韓国戦である。 トレンド・ファン 65-75 47試合24得点 カンポーズ 76-81 101試合21得点 ペゼル・ベルガナード 82-85 87試合37得点 トレンド・ファン 86-88 28試合6得点 サシャーユ代表 27試合4得点 通算 263試合93得点 マルコス・オルセ Marcos Olse FW 28歳 1950年、サシャーユ北部のバケラス生まれ。サッカーを始めた当初はMFだったが、背の高さからポストプレイを望まれ、19歳でのプロ入りと同時にFWへ転向した。きっかけは、地元に新設される新クラブ(ヘンデリッカーズ)の選手不足で、全国的知名度は無かった。 プロ入り一年目は24試合に出場したものの、無得点と期待に応えられずにチームも創立一年目は最下位に沈んだ。翌年もレギュラーとして多く先発を果たしたものの、体の細さが影響して結果は出せず、チームもこの年から始まった入れ替え制の影響で2部降格となっている。72年シーズン途中に同じく2部のクラブへ移籍。74年には3部相当の全国1部リーグへも移籍している。この時まで身長は伸び続けており、191cmになっていた。 ヘンデリッカーズへ復帰した76年、長身ながらもポストプレイではなく、下がり目で自分が生きるプレイを身に着けて得点を量産。27試合で11得点と、チームの1部昇格へ大きく貢献した。足元の技術が高く、長身ゆえのスピード不足を補うプレイを見せた。 77年も中心選手として結果を残し、1部で8得点を決め、残留を果たしている。 この年、故障などで長身選手のコマ不足に陥った代表にも初選出。代表では慣れないポストプレイを要求され、また、下位クラブの選手として当初の評価は低かった。しかし、ポストプレイも無難にこなし、印象的な場面で活躍している。負ければ予選敗退の78年WFC最終予選デンマーク戦(77年)では、2得点を挙げる(2-1)など活躍は「記憶」に残った。 78年のWFCでは、先発FW陣の好調もあり準決勝で初出場(後半から出場)となったが、ここでも貴重なゴールを挙げている。以降出場はなかったが、国際的な評価を上げた。 大会後、80年にイタリア2部のチッコリーネへ移籍。当初は即戦力としてレギュラーが確約されていたが、ケガの影響などもあってレギュラー定着には至らず、83年にアメリカのウィーラーSCへ移籍となった。ケガにはその後も悩まされ、84年にヘンデリッカーズへ復帰、翌85年に現役引退を発表した。現在はアメリカでサッカースクールを開いている。 代表としては82年WFCの予選に召集されていたが、不調の影響でその後は遠ざかった。 ヘンデリッカーズ 69-72 69試合5得点 ウォーリバヤン 72-73 22試合4得点 ナイエル・バヌージャ 74-75 23試合6得点 ヘンデリッカーズ 76-79 110試合38得点 チッコリーネ 80-82 23試合4得点 ウィーラーSC 83 21試合5得点 ヘンデリッカーズ 84-85 2試合0得点 サシャーユ代表 27試合6得点 通算 293試合65得点 オズワルド・タリードナストベリゼ Oswald Talidnastbellize FW 25歳 1953年、スペインのバルセロナ生まれ。父親が貿易商の関係で、スペインで育った。13歳でスペインリーグの名門ベルナシオFCのユース組織へ入団している。 16歳の時にサシャーユへ帰国すると、ベンチャコ・エルミオレの下部組織へ入団。当時はMFであったが、テクニックの高さと加速力で得点を量産した。当時のクラブ最年少記録となる17歳でトップチームへ昇格すると、FWとして27試合出場7得点と活躍し「黄金少年」と呼ばれた。FW転向は、「得点を挙げる快感に目覚めたから」と語っている。 この70年、メリエス代表監督の大抜擢でA代表デビューも果たしている(対ポルトガル戦)。70年WFC予選にも出場し最終予選で3得点を挙げたが、本戦出場はならなかった。。 その後、73年にはドイツの名門ダッハウ・シュベリーセスガーへ一年間の移籍。翌年に国内復帰すると27得点で得点王に輝き優勝、サシャーユを代表するストライカーとなった。 76年にドイツのマンハイム・ゼキューラーへ移籍後は、レギュラーとして実績を残している。77年には得点ランキング2位(22得点)に食い込むなど、世界的な評価も高かった。79年に強豪オッフェン・ブルーガFCへ移籍後も、常にレギュラーとしてプレイした。 代表としては70、74、78年と3大会連続でWFCメンバーに選出され、エースとして活躍。特に3位入賞を果たした78年大会は中心選手として5得点。代表通算50得点は歴代3位である。国内では海外挑戦のパイオニアとして、国外ではサシャーユを代表するストライカーとして知られた。人望も厚く、チームをまとめる統率力は天性のものと言われる。 82年WFC予選でも選出されていたが、ケガや不調で次第に遠ざかった。 82年は前半戦でケガを負い、中断期間にタリヌペイへ移籍。しかし以前のような運動量は見られず、テクニックだけでは全盛期の輝きはならなかった。出場機会は激減し、85年に現役を引退。86年の引退試合は78年WFCのメンバーや世界的スター選手らが集まった。 引退後は解説者を務め、01年にサシャーユサッカー協会常任理事に就任。06年からはサッカー協会会長に就任し、2018、22年W杯招致を進めている。 ベルナシオFC 66-68 0試合0得点 ベンチャコ・エルミオレ 68-72 114試合36得点 ダッハウ・シュベリーセスガー 73 11試合2得点 ベンチャコ・エルミオレ 74-75 58試合48得点 マンハイム・ゼキューラー 76-78 85試合69得点 オッフェン・ブルーガFC 79-82 91試合33得点 タリヌペイ 82-85 59試合12得点 サシャーユ代表 138試合50得点 通算556試合250得点 カシオ・カンノ Kacio Kanno GK 24歳 1954年.サシャーユ西部のアリタ生まれ。サッカーの特に盛んなこの地方で早くから競技に親しんだ。GKとして、7歳で地元のアリタ・メハカーリョの下部組織へ入団している。高校卒業後、メハカーリョでプロ入りを果たすと、182cmと決して大柄でないものの、ハイボールの目測や敏捷性が高く評価されて早くからトップチームに昇格した。 当初は控えだったものの、数少ない出場機会で結果を残して21歳で正GKに定着。下位に低迷していたチームを守備から鼓舞し、76年にはリーグ終盤戦まで優勝争いをしている。 代表歴は早く、20歳でA代表を経験 (74年のWFC予選で2試合に選出。出場は無し)。76年頃になると、正GKフラッペが大ケガで長期離脱した影響を埋める存在として、WFC予選で7試合に出場。この7試合で3失点と最終予選突破のキーマンとなった。 78年WFCではフラッペが復帰したため3位決定戦のみの出場だったものの、初のWFCメンバーに選出されてサシャーユを代表するGKとなった。 その後、79年はドイツのシュテッカーFC、80年はフランスのメルニーヨルテ、81年からはイタリアのバジリオンネへ移籍し国際経験を積むと、82年にメハカーリョへ復帰した。 海外移籍期間はクラブでの出場機会は少なかったが、この間も代表ではコンスタントに選出され、(正GKではないものの)ヨーロッパ選手権などにも出場している。86年にフラッペが代表を引退後は、正GKとして90年WFCに36歳で出場(2度目)。この大会では5試合中4試合に出場し、ベスト8進出に大きく貢献している。 そんな中、92年にクラブに20歳のジュニオ・セーラが昇格し、華々しい活躍を目の当たりにした。これに衝撃を受けて一旦引退を決意したが(実際に代表はこの年で引退している)、日本のJリーグ関係者の熱心な勧誘で、Jリーグ開幕と同時にジェフユナイテッド市原へ入団。2年間に渡って正GKを務め、94年に引退した。 引退後は01年からのサンフレッチェ広島の監督やオーストラリアのクラブチーム監督、メハカーリョのGM、IFFA技術委員などを歴任。07年にはEUFA技術委員会常任理事に就任した。その後IFFAへの出向を経て09年に離職。10年からはIFFA技術評価委員長とIFFA理事に就任し、政治力を強めている。 メハカーリョ 61-78 91試合 シュテッカーFC 79 7試合 メルニーヨルテ 80 4試合 バジリオンネ 81 21試合 メハカーリョ 82-92 247試合 ジェフユナイテッド市原 93-94 63試合 サシャーユ代表 38試合 通算 471試合 ジョシュ・リッカーマン Josh Rickerman 31歳 MF 1947年、サシャーユのサシェリア生まれ。幼少時代は国内リーグが中断しており、ラジオで聞く海外リーグに熱狂したという。その後、55年に国内リーグは再開。サシャーユFCの下部組織のレッスンに通い、プロを目指すようになった。 この頃からMF以外にも多くのポジションを経験し、19歳のときにはトップチームとプロ契約を果たしている。多くのポジションをカバーできる能力を買われ、重用された。67年には若干20歳にして31試合に出場。大物選手が海外でプレイした国内リーグ再開初期において、国内期待の若手選手として確かな活躍を見せた。なお、この年のタリヌペイのECL準優勝をきっかけに、国内外の大物選手がサシャーユリーグへ移籍するようになっていく。 代表へは、68年に初選出。海外でプレイする選手の所属クラブとの日程調整がうまくいかないときなどは、空いた重要なポジションで先発することが多かった。70年WFC予選には中心選手として7試合に出場したが、出場が懸かった最終戦はケガで欠場した。 70年を過ぎると、クラブと代表ではボランチでプレイすることが多くなっていく。187cmの長身で当たり負けしない強さや鋭い読みが発揮され、豊富なスタミナからの献身的なプレイで、しっかりとした守りを重要視する当時のサシャーユ代表のサッカーに欠かせない存在となった。この時の代表監督はフレデリック・カマンで、不動のレギュラーだった。 しかし、74年WFCで守備偏重のサッカーに陥り攻撃陣が不調に終わると、リッカーマンはカマン監督の守備サッカーの代名詞として批判されるようになる。以降、1年間に渡って召集は無かった。 そんな中、ゼファン監督は守備のベースを確立するため、75年からボランチにリッカーマンを指名。定評のある守備に加え、攻撃面でのリスクを恐れないプレイを発揮。78年WFCでは3位入賞に大きく貢献し、「MVP級の大活躍」と言われている。代表としては82年WFCの出場を逃して以来、選出されていない。 クラブでは、76年と79年にECLでベスト4、リーグ優勝5回を達成した。守備力が評価され「砦の門番」と呼ばれるなど、サシャーユサッカー史上に残る名ボランチとなった。たまに攻撃的な位置で起用されることもあり、確かな攻撃力で結果を残している。サシャーユ一筋で507試合に出場し、83年に現役を引退した。 その後はサシャーユFCのフロント入りし、アシスタントコーチ等を経験。監督にも3度(87-90、94、00-02年)就任したが、芳しい成績は残せていない。現在は同クラブの下部組織でコーチ兼スカウトとして活躍し、数々の若手を育てあげる手腕には定評がある サシャーユFC 66-83 507試合47得点 代表 68-82 171試合15得点 通算 678試合62得点 マイケル・バイナー Michael Bainer MF 32歳 1946年、サシャーユの商業都市エルミアで生まれた。少年時代の遊びはもっぱらサッカーで、65年には当時弱小だったエミールジュールの入団テストを受けてプロ入りした。 高校時代は全国的に名の知れたFWで、171cmと小柄ながらセンスが高く評価されていた。 その後は、身長の変化や高いプロの壁にぶち当たって自身のプレイスタイルに悩み、MFやDFにも挑戦。67年までの三年間で、トップチームでの出場は7試合に留まった(0得点)。 そんな中で、攻撃的な位置でのMFとしてのプレイに喜びを感じるようになった。かつての名選手ケラー・ミラーズ監督のサッカー哲学の上で、バイナーの攻撃的MFの位置は重要なポジションとなった。4-3-3のシステムで、バイナーは中盤の中央でプレイ。FW時代に見られた飛び出しと、MFとして培ったパスセンスで、ゲームメーカーとしてチームに欠かせない存在となっていく。70年には、チームでただ一人リーグ戦全試合にフル出場を果たし、23得点16アシストを記録。「サシャーユ史上最高のMF」として評価を不動のものとした。69年から背番号10を背負い、クラブの象徴的存在でもあった。クラブは着実に力をつけ、この年はリーグ戦4位、カップ戦3位となっている。 代表には70年に初選出。70年WFC予選から不動の存在となり、74年、78年大会でも活躍した。78年WFCではスペイン戦で2本のFKと絶妙のアシスト。大会合計でも3得点4アシストと、自身最高の成績を残して大会ベスト11にも選出されている。 クラブでは74年にサシャーユFCへ、76年には一年間ツーリオ・サルディでプレイし、77年にドイツのマンハイム・ゼキューラーへ移籍。81年からはイタリアのハミケーレでプレイし、背番号10を外国人として初めて着用、85年まで背負い続けた。ECLなどでサシャーユ勢との対戦が多く、名勝負を演じた。 その後も代表とクラブで重要な戦力としてプレイ。しかし83年の代表戦でアメリカと対戦し、右膝を骨折。84年まで療養を余儀なくされている。84年に本格復帰後はよりパスの精度を磨くことでプレイを続けたが、「天才」は85年に引退した。93年からエミールジュールで4年間監督を務め、後に解説者、テレビタレントに転身。感覚を重視する解説で人気を集めたが、00年からはサッカー協会顧問に就任した。03年に辞職し、アメリカへ移住。 エミールジュール 65-73 192試合52得点 サシャーユFC 74-75 77試合13得点 ツーリオ・サルディ 76 38試合8得点 マンハイム・ゼキューラー 77-80 119試合23得点 ハミケーレ 81-85 79試合31得点 代表 103試合32得点 通算 549試合137得点 レオナルド・ベーカー Leonardo Baker MF 27歳 1951年、サシャーユ南部のセセリア生まれ。少年時代は陸上選手として名が知られ、短距離走では当時のサシャーユ記録を連発した。 高校入学と同時にサッカーを始めると、快速ウイングとしてプレイするようになった。 70年、ツールへ入団。サイドから敵陣へ切り込むスタイルが評価され、三年目からレギュラーとして起用されている。サイドならどのポジションでもこなせる器用さに加え、クロスの精度も年々磨きがかかっていった。 その後、75年にジュロ・イヴァータへ移籍。代表への初召集は、ジュロ・イヴァータのリーグ優勝した76年だった。移籍後もレギュラーとしてプレイし、この年はウイングとして活躍。6得点と攻撃的才能も見せつけた。75年は3試合に召集されている。 リーグではその後も安定してレギュラーを守り続けたものの、クラブの成績は急降下。それと同時に代表とは縁が無くなった。77年に召集されたのを最後に代表へは呼ばれなかったため、78年WFCのメンバーに入った時は「サプライズ選出」と言われた。78年WFCでは出場機会は無かった。 その後、80年にジュロ・イヴァータは2部へ降格が決定。古巣ツールへ復帰した。81年は心機一転してのプレイを求められたものの、シーズン直前に靭帯を損傷する大ケガを負い、一年間のリハビリを余儀なくされている。復帰後はケガの影響を感じさせない活躍だった。 84年にエスペリオへ移籍し、85年にはトリーニョへ移籍している。サイドのスペシャリストとして長年に渡って活躍し続け、86年のシーズン途中で引退した。 引退後は解説者を務めていたが、89年にベトナムで現役復帰。当時アマチュアだったヒャンルー・チムチャンで3年間プレイしてサッカーの普及に貢献した。現在もベトナム在住。 ベトナムで結婚した妻(現在は離婚)との間に生まれた息子ハル・ベーカーは20歳のプロサッカー選手で、父親譲りのスピードを武器にするベトナムU-23代表FWである。 自身はその後、ベトナムで監督やGMを経験。現在もベトナムサッカー界で活躍している。 代表は78年WFCを最後に選出されていない。 ツール 70-74 57試合7得点 ジュロ・イヴァータ 75-80 141試合20得点 ツール 81-83 29試合2得点 エスペリオ 84 26試合1得点 トリーニョ 85-86 14試合1得点 ヒャンルー・チムチャン 89-91 24試合21得点 代表 7試合0得点 通算 298試合52得点 セイメス・トリオレス Saymas Toriolez DF 30歳 1948年、サシャーユのサシェリア生まれ。7歳にして、サシャーユFCのユース戦後第一期生へ入団し技術を磨いた。この第一期生には長身選手が少なく、178cmのトリオレスが最も身長が高かった。そのため、本人の希望であるFWではなくDFにされたと言う。 下部組織で順調に経験を積んでいったトリオレスは、17歳でトップチームへ昇格。17歳での昇格は、長年に渡ってクラブ最年少記録だった(97年に息子アイバンが14歳で更新)。 178cmとCBとしては小柄ながらもジャンプ力やヘディングに優れ、空中戦でも安定した守備を見せた。FWに負けないスピードが武器で、素早い寄せやカバーリングや確かな足元の技術は高くSBもこなせた。また、気迫の籠った大声でチームを鼓舞することから「守りの矛」と呼ばれ、並みいるライバルを押しのけて69年からレギュラーに抜擢された。ただし、SBとCBの併用で、そのスピードを生かすためにほとんどはSBで先発している。 71年にはCBに専念してリーグを最少失点で優勝し、翌年は連覇。国内を代表するDFとして名を知らしめている。74年はECL準優勝、76年にはECLベスト4に進出している。 代表への初召集は、クラブでレギュラーに定着した69年。大柄なCBが相手に置いて行かれることの多かった守備陣再編のため、初出場の親善試合ポルトガル戦で先発(CB)を任された。ここで完封勝利に貢献し、WFC直前で代表に欠かせない存在となった。70年WFCへ向けた予選では、SBとして6試合に出場している。 その後、74年、78年WFC出場にも貢献し、この2つの大会はCBとして活躍した。なお、代表131試合出場はDFとして歴代3位である(単一クラブでの500試合出場は歴代2位)。 クラブではその後、内紛や監督の連続解任などで自分たちのスタイルを失い、数年間の低迷期に陥った。同時に自身もケガやスピードの衰え、システム変更に戸惑って調子を落とし、代表チームも2大会連続でWFC出場を逃した。しかし、87年に就任したベル・キオラ監督によってサシャーユFCはシステム、世代とも一新。「サシャーユサッカー史上最強の一つ」とまで呼ばれるまでに復活。レギュラーでは無かったものの、精神的支柱として88年の国内リーグ、カップ戦、ECL優勝、89年の国内リーグ連覇とECL準優勝などを経験した。 精神的支柱として90年WFCメンバー選出が期待されたが、「自らのプレイは選ばれるべきレベルに無い」として現役から引退した。600試合以上に出場したにも関わらず、現役で一度も大ケガをしなかった。 監督やコーチには就かず、現在はサシェリア郊外で農業に勤しんでいる。 サシャーユFC 55-90 500試合11得点 代表 131試合7得点 通算 631試合18得点 マイケル・センソン Michael Sensone DF 28歳 1950年、サシャーユのポルコ生まれ。少年時代は特に目立った活躍は無く、地元のアマチュアクラブでプレイした。プロ入りする夢を持ち、高校卒業後にポルトガルリーグ2部のフィラメント・エスコーラFCへ練習生として入団。188cmの恵まれた体格を見込まれ、3年間に渡ってDFとしての基礎を叩き込まれた。三年目にはリーグ戦にも出場している。 その後、72年に正式にフィラメント・エスコーラとプロ契約。同年、チームは1部に昇格を果たした。しかし、昇格に伴いDFを多く獲得したため出場機会は減り、帰国を決意した。 74年に帰国後は、テームスへ入団。持ち味は粘り強い守備で、決して足は速くないものの、マンマークによる空中戦や読みに優れた。CBやDMFとして二年間に渡ってプレイし、代表にも選出される活躍を見せたもののチームは2部へ降格。これを機に、優勝を狙えるデミンガムへ移籍した。入団後の76年、77年と2年連続で2位になっている。 代表としては、74年は数試合のみの出場でWFCのメンバーからも漏れている。しかし、ゼファン新監督に重用され、以降、トリオレスと共にCBを務めた。78年WFCでは、全試合に出場しヘディングで得点も決めている。得点はヘディングがほとんどで、重要なシーンで決めることが多かった。FWとしてもプレイが可能で、先発した試合もある。 その後もデミンガムでレギュラーだったものの、深刻な連係不足やシステムの混乱によって得点力不足に陥り、一度も2部降格の無かった名門も81年に2部へ降格。すると、降格と同時にツールへ移籍。しかしファンの熱い要望により、83年に2部のデミンガムへ復帰した。その後は新監督によってチームは改善し、84年は1部に昇格している。 その後、36歳で引退するまでデミンガムでプレイを続けた。75年には、リーグ戦9得点とDFとして圧倒的な得点力を見せつけている。 代表ではその後、81年の環境の変化(クラブの2部降格)で体調を崩し、WFC最終予選敗退。これ以来、代表引退を表明した。DFとして代表通算25得点は歴代3位である。 引退後はイングランドで代理人業を開始した。現在はサシャーユ地域リーグ1部のテルミアのオーナーとして広報活動に力を入れる傍ら、サッカー雑誌多数に緻密な分析による戦術解説を連載。データを多用した内容は高く評価され、データを売買する副業も行う。 フィラメント・エスコーラ 69-73 27試合4得点 テームス 74-75 50試合10得点 デミンガム 76-81 157試合11得点 ツール 82 21試合1得点 デミンガム 83-86 96試合2得点 代表 74試合25得点 通算 425試合53得点 スコラ・ヤンクテール Scholar Janctale MF 26歳 1952年、サシャーユのカルデミラ生まれ。サッカーを始めたのは5歳の時で、11歳で地元のカルデミラ・フミーラFCへ入団した。このクラブはアマチュアながらも、戦前は国王杯の本戦出場経験のある古豪だった。 このクラブでサッカーの基礎を学び、18歳の時には44年ぶりに国王杯本選出場を果たした。この時は右サイドのMFとしてプレイし、そのゲームメーカーぶりが全国に知れ渡る。結局クラブは準決勝まで進み、アマチュアクラブとしては戦後初めてのベスト4となった。 この活躍を機に、71年、アントコールFCへ入団。二年目まではなかなか出場機会を得られなかったものの、73年は全試合に出場してリーグ2位に貢献。アシスト王にも輝き、その絶妙なスルーパスと正確なピンポイントクロスなどは「国内最高」とまで呼ばれた。 この年から代表に選出され、右サイドで大活躍を見せた。最終予選中に代表に加わったものの、コンビネーション抜群に相手へ合わせるパスを多用。連携が深まってくると、相手の動きだしを読んだスルーパスも使いこなし、チームに欠かせない存在となった。 しかし、パス以外のドリブルは並の選手レベルであり、運動量の低さにも難がある。そのため、守備重視のフレデリック・カマン監督の戦術は、ヤンクテール以外の選手に多くの守備的プレイを課すこととなった。その結果、74年のWFCでは内紛だけでなく守備網自体も最後まで調子が合わず、戦犯の一人となった。 その後、75年にはドイツのダウケン・グランデッヒへ移籍。高いパスセンスを見せたが、運動量の低さが露呈し、クラブでも絶対的な存在にはなれず代表からも遠ざかった。だが、徹底した運動量強化練習を行い、代表復帰した76年からは大活躍を見せている。その後、肉体強化を目的に77年、イングランドのアンバークラウンFCへ移籍し、攻撃の中心へ抜擢。78年WFCでは5本のアシストを成功させ、FKも1本を決めるなど活躍、一躍世界の注目を浴びた。その後は82、86年WFC予選にも参加したが出場を逃した。 クラブでは、アンバークラウンFCで絶大な支持を受け、サポーターからも愛された。79年にはECLで優勝、80年にはベスト8を経験した。しかし、右足の慢性的な痛み、腰痛の影響で、81年に29歳で引退している。 その後は早くから監督修行を始め、84年にアンバークラウン下部組織の監督に就任。緻密な采配で成果を挙げ90、96年にアンバークラウンFCの監督に就任した(98年リーグ優勝)。 04年からのマイルビーチ監督を経て、09年、中国代表監督に就任した。 アントコールFC 71-74 64試合9得点 ダウケン・グランデッヒ 75-76 60試合6得点 アンバークラウンFC 77-81 311試合31得点 サシャーユ代表 63試合8得点 通算 435試合54得点 カロナライナ・ポルター Caronalina Poltter MF 26歳 1952年、サシャーユのサシェリア生まれ。15歳の時、エミールジュールの下部組織へ入団。当初はDFとしてプレイしていたが、17歳の時にツーリオ・サルディ移籍後に体の強さを見込まれて、守備的MFにコンバートされた。 その後はMFとしての才能を開花させ、19歳でトップチームデビューを果たすと、今度はトップ下でのプレイも経験。この位置でのプレイで結果を残し、75年には4得点7アシストを記録している。翌年はリーグの強豪だったトリーニョへ移籍した。 76年からはゼファン監督によって代表にも選出。絶対的存在だったバイナーと同じポジションで出場機会が少ないながら、バイナー不在時にはしっかりと代役を務めあげた。また、守備的MFやDFでのプレイも可能なことから、「万能サッカー」に欠かせない存在だった。 78年WFCではバイナーの位置(4-1-3-2の3の中央)でのプレイはなかったが、多くのポジションで途中交代出場した。攻撃的布陣の4-2-1-3では抜群のキープ能力を見込まれて1の部分で出場し、3位決定戦の西ドイツ戦では強烈なミドルシュートで得点を挙げた。また、パスを散らす技術にも優れ、攻守の両面でその才能を発揮した。 その後クラブでは絶対的レギュラーとして、代表ではバイナーのバックアッパーやユーティリティープレイヤーとしてプレイした。在籍期間は長くないものの、79年のECC優勝などを誇ったトリーニョの黄金時代に欠かせない存在と言われる。 80年にはルルージュFCへ移籍し、活躍した。 代表では80年にバイナーが大ケガで離脱すると、本来のトップ下でプレイする機会を得て活躍。80年のヨーロッパ選手権では本戦出場を果たし、82年のWFC出場が期待されたがまさかの最終予選敗退。同時にバイナーが復帰し、代表での先発は再び少なくなった。 その後、86年のWFC出場へ向けた予選は主力から漏れ、代表引退を表明した。バイナーの存在で、才能の共存ができなかった例としてサシャーユサッカー史に語り継がれている。 86年は、2部のアキーノCDへ移籍。1部昇格を目指したものの、88年に現役引退した。 現在はスペインでサッカー学校を主宰する傍ら、日本の九段丘高校でも指導に当たっている。 エミールジュール 67-68 7試合0得点 ツーリオ・サルディ 69-75 48試合8得点 トリーニョ 76-80 145試合39得点 ルルージュFC 81-85 140試合32得点 アキーノCD 86-88 29試合1得点 代表 54試合15得点 通算 379試合95得点 セイメス・イカンソン Saymese Iickanson MF 23歳 国内リーグ中断時にポルトガルリーグで活躍した父を持ち、1955年にポルトガルのリスボンで生まれた。16歳の時、リスボン・エーレミーレFCの下部組織へ入団。MFとして19歳でプロ契約した。20歳の時にはリーグ戦で18試合に出場、MOMにも選出されている。 その後、75年末にサシャーユの名門・サシャーユFCの若手育成プロジェクトからオファーを受け帰国を決意。この時、ポルトガルサッカー協会からは帰化の打診もあったと言う。 サシャーユFCでは右サイドのスペシャリストとして期待され、ベテランスター選手エマーダとポジションを争った。突破力とシュート技術で次第に結果を残すと、77年にはエマーダをボランチへ押し退け、右サイドで不動のレギュラーとなった。ただし、なぜかFWポダーとの相性は悪かった。 77年、それまでの布陣のバリエーションとしての要素で代表に選出。従来の4-1-3-2から4-2-3-1変更時の交代要員としての扱いだったが、予選で活躍を見せて左サイドのレギュラーに定着。時にはSBとしてもプレイした。78年のWFCでは、サシャーユFCでは相性の悪かったポダーと抜群のコンビネーションを見せ、チームを3位に導いた。 しかし、82年と86年のWFCは、ケガの影響で最終予選に参加できずチームも敗退した。 78年WFC後はクラブでも左サイドでプレイ。緩急を付けたパスや積極的なシュート、献身的な守備などバランスのとれたMFとして、サシャーユFCの黄金期を支えた。しかし、80年代中頃からのサシャーユFCの低迷期は、ケガから復帰後したものの思い通りのプレイができず、結果も付いてこなかった。そんな中、88年はベル・キオラ監督に率いられてECL優勝。このチームのレギュラーとして大車輪の活躍で、復活を印象付けた。この頃になると中盤の底での汗かき役に徹し、ピンチの芽を摘み続けた。 代表チームでは、90年のWFCへ向けて予選に参加。本大会出場を決めたものの、若手選手との競争に敗れて本戦メンバーからは漏れている。この年で代表は引退した。 その後、サシャーユFCを象徴する存在とまで言われたが、「挑戦」のため93年に日本のJリーグ、清水エスパルスへ移籍。盟友ポダーとも対戦し94年に現役引退した。99年に二重国籍を保持するポルトガルへ移住しラジオ局経営に着手。現在は帰国しバーを経営している。 リスボン・エーレミーレFC 71-75 24試合2得点 サシャーユFC 76-92 387試合75得点 清水エスパルス 93-94 46試合16得点 代表 77試合14得点 通算 534試合107得点 アルチェロ・ゼッキ Aleuchero Zekki DF 28歳 1950年、アメリカのボストン生まれ。家族は戦時中、アメリカへ亡命していた。 サッカーを始めたのは8歳の時。サッカーの盛んでないアメリカではアマチュアクラブでプレイを続けた。11歳でサシャーユへ帰国後は、ローゼンの下部組織でプレイしている。179cmと決して大柄ではないが、的確なカバーリング能力とマンマークの強さ、攻撃面での貢献が評価されて21歳でトップチームへデビュー。ボランチとして活躍した。CBのバグマンの攻撃参加が頻繁で、そのカバーリングといったコンビネーションは抜群だった。 代表初選出は76年。当初は本職のボランチでの出場が多かったものの、ヤンクテールやイカンソンの攻撃参加時のカバーリングを期待されてSBへコンバート。当初は縦への突破が少なく批判も浴びたが、次第に攻撃参加も増えて右SBとしてレギュラーに定着した。78年WFCではDF登録され、全試合にフル出場している。 その後の代表は、WFCの予選敗退が決定した82年に引退している。 本職はMFながらもSBという新境地で活躍を果たすと、クラブでも柔軟にポジションを変えてプレイの幅が広がっていった。80年にヘラルドセンゲンへ移籍後はMFではなくDF登録され、SBだけでなくCBとしても数試合に出場している。身長は179cmとDFにしては小さかったが、高いボール奪取能力とMFとして培った足下の技術が重用された。82年には念願のリーグ優勝を経験している。 その後、83年はサシャーユ王者としてECLへ出場。グループリーグでのイタリアのベナーロ戦で守備と攻撃両面で活躍。これが注目され、84年にベナーロへ移籍した。レギュラーでの活躍が期待されたが、移籍後はケガとの闘いだった。先発出場は次第に減っていき、87年にケガを理由に引退を表明。 引退後はローゼンのフロント入りし、90年にはローゼンの下部組織の監督としてユースカップ優勝。90年代のローゼン黄金時代を担った選手の多くを育成、指導した。99年にU-18サシャーユ代表監督に就任し、01年のU-20WFCは準優勝。その後はローゼンやイタリアで監督に就任。04年にはベナーロをリーグ優勝、ECCベスト4に導くなど、結果を残し続けている。中堅チームを堅実に強化する手腕と経験が評価され、05年からはサシャーユサッカー協会のユース育成部門の顧問に就き、フル代表監督人事の際には常に話題に上る。ヨーロッパ屈指の戦術家として知られ、10年以降の代表監督就任が濃厚である。 ローゼン 61-79 234試合16得点 ヘラルドセンゲン 80-83 92試合9得点 ベナーロ 84-87 109試合7得点 代表 57試合4得点 通算 492試合36得点 ゴメス・バフラテット Gomez Bafrated DF 28歳 1950年、サシャーユ南部の漁村メリテヤ生まれ。サッカーを本格的に始めたのは中学からで、高校は地元の名門にサッカー推薦で入学するほどの実力だった。 当時のポジションは、快足を生かしたFW。高校では思ったような活躍とまではいかなかったものの、ワラルースのスカウトを受けて、69年にプロ入りした。 入団後はチーム事情もあって、サイドプレイヤーにコンバート。当初は攻撃意識が強すぎ、主にWBやSMFとして起用されていてもすぐに前線へ飛び出すことが多かった。このため、決して強豪とは言えなかったワラルースにおいても出場機会は少なく、多くの監督が起用法に頭を悩ませた。 その後、72年にかつてのイングランド名サイドプレイヤーで、ヨーロッパ屈指の知将と呼ばれるハワード・ベルキンソンが監督に電撃就任。FW然とした前線でのプレイが精彩を欠くことに悩んでいたバフラテット自身の要望もあり、ベルキンソン監督は徹底してサイドでのプレイについて伝授した。その結果、サイドはどのポジションでもこなせる高い順応性と快足を生かした縦への突破を身に付け、74年からはSMFのレギュラーで活躍した。 代表への初召集は75年。サイドで結果を出し、以降コンスタントに招集された。代表では、主に4-1-3-2の左SBとして出場し、前線への効果的な上りは大きな武器となった。 そして、78年WFCのメンバーに選出。この大会では5試合に出場した。 しかし代表への招集は79年以降無く、82年、86年大会への予選には出場していない。 78年WFCでの活躍が認められ、79年にイングランドのハッパースルーFCへ移籍。ここではWGとしても出場し、長年にわたってレギュラーとして活躍した。 ハッパースルーはイングランドの中堅で、ECLなどの大会にはなかなか出場できなかった。しかし、82年にリーグ優勝すると、83年には23年ぶりにECLへ出場。その大会でもバフラテッドはレギュラーとしてプレイし、歴史に名を残している。その後の現役生活はハッパースルーFC一筋に過ごし、サポーターからも愛される存在だった。 01年にはチーム創立100周年を記念した「ハッパースルーFC殿堂11」にも選出された。 90年に現役引退後は、ハッパースルーFCの下部組織で寮長を務めた。93年からは天性のデザインセンスを生かしてイングランド2部のデザイン担当に就任。04年からはハッパースルー(当時2部)のチーム専属デザイナーを務め、ユニフォームや1部昇格を果たした07年の記念旗を制作。現在は解説者、ライターとして活動している。 ワラルース 69-78 144試合14得点 ハッパースルーFC 79-90 327試合33得点 代表 36試合8得点 通算 507試合55得点
[PR]
by remarkabler | 2010-02-17 03:23

2009代表

監督 アワーシュー・ガルソン GK ステマンテ・プレカシュ 28 アクアニ(ESP) ガリオニアーズ・クスカリテ 26 トレンド・ファン (SYL) マルコス・ブレーマン 34 レムン(ENG) DF ルッカース・ミルデ・メルテス 30 FCアントレフェールト(SYL) イシュバン・アクソン 24 エルナントFC(SYL) オズワルド・クーダー 19 エルナントFC(SYL) マイケル・アリッキ 27 CFカンタフェ(ESP) オルササ・アリッチ CB 29 FCカクラス・シティ(ENG) リリー・ソッキ 30 サンフレッチェ広島(JPN) アイバン・トリオレス LSB 26 バンザウェイ・ヘンデリッターズ(SYL) MF クラーノ・クライス 27 セルバーリー(ENG) トルナルド・ビーシーア 21 ウダイセクタCC(ITA) ミチェーレ・エンドー 27 ローゼン・アントコールFC(SYL) イキリス・ポン 28 FCアントレフェールト(SYL) ジョナサン・アイデン・ハムト 22 サシャーユFC(SYL) へユード・チャム 23 FCトレンド・ファン (SYL) クリスティアン・ポイド 23 ハルシールAFC(GER) ハインティア・キュリス 25 トレンド・ファン(SYL) ハワード・エミン 31 サシャーユFC(SYL) FW エルミア・ユファン 28 ヘルワースFC(ENG) クリスティアン・セイン・イイー 26 ハヌート(ESP) エラディオラ・フルエータ 22 エミールジュール(SYL) カシオ・ジャーキー 31 ガルオン・ハテーウブルグ(RUS) ハワード・パルイスカ 26 FCデミンガム(SYL) ■■■■フルエータ■■イイー■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■キュリス■■■■■■■クライス■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■ポン■■エンドー■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■トリオレス■■■■■■■■クーダー■ ■■■■メルテス■■■アリッチ■■■■ ■■■■■■■プレカシュ■■■■■■■ ■■■■■■■■ユファン■■■■■■■ ■フルエータ■■■■■■■クライス■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■キュリス■■■■■■■エンドー■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■ポン■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■トリオレス■■■■■■■■クーダー■ ■■■■メルテス■■■アリッチ■■■■ ■■■■■■■プレカシュ■■■■■■■ ■■■■■■■■ユファン■■■■■■■ ■■■■■■■■キュリス■■■■■■■ ■■フルエータ■■■■■■エンドー■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■ポン■■クライス■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■トリオレス■■■■■■■■クーダー■ ■■■■メルテス■■■アリッチ■■■■ ■■■■■■■プレカシュ■■■■■■■ 2010年WFCへ向けた予選を、サシャーユは クリスティアン・セイン・イイー Christian Thane I-Ih FW 26歳 1983年、ブラジルの地方都市エルマデシャス生まれ。父親は弁護士、姉はヨーロッパで活躍するモデルと比較的裕福な家庭に育った。 幼い頃からサッカーに親しみ、10歳で地元のアマチュアクラブへ入団。スピードに優れ、翌年には地元の3部で、育成目的のクラブであるサポラFCへ入団した。だが、当時は細身な体のためレギュラーにはなれず、12歳の時には契約を解除されている。その後、数年間の間はアマチュアクラブを転々としながらサッカーを続けた。 98年、サポラFC以来となるプロ契約を全国選手権2部のリンデーラ・ポストミーナと結ぶ。このクラブでもなかなか結果が出せず苦労していたが、同クラブのフィジカルコーチを務めるアラン・ベルカーナに紹介され、サシャーユ行きを決意。ベルカーナはブラジル出身ながらも現役時代にサシャーユで活躍した選手であり、90年には帰化もしている。 99年、サシャーユ2部のカーロン・アンダレードへ移籍。3部のハリートFCへのレンタルを経て、カーロンへ復帰した02年からはベンチ入りを果たした。サシャーユリーグで経験を積むうち、ワンタッチでのプレイや飛び出しの技術を身に付けている。 04年にはスーパーサブとして26試合に出場、4ゴールを挙げてチームの1部昇格へ貢献。この年、アテネ五輪サシャーユ代表入りを目指し、またサシャーユ人女性との交際などを理由にサシャーユへ帰化。翌年には31試合で26ゴールと、才能が一気に開花した。 その後、06年にエルナントへ移籍し、08年からスペインのハヌートへレンタルされている。 代表としては、アテネ五輪代表は落選したものの、06年初頭から代表へ招集。SMFとしても出場しておりゴールも決めたが、同年のWFCサシャーユ代表には選出されなかった。 その後、一時の空白を経て08年から再び招集。10年WFCへ向けた予選では主力である。 サポラFC 94−95 21試合3得点 リンデーラ・ポストミーナ 98 23試合1得点 カーロン・アンダレード 99 3試合0得点 ハリートFC 00−01 63試合 15得点 カーロン・アンダレード 02−05 77試合34得点 エルナント 06−07 51試合12得点 ハヌート 08− 63試合27得点 サシャーユ代表 17試合6得点 エルミア・ユファン Elmira Yufane FW 28歳 1981年、サシャーユの首都サシェリア生まれ。幼い頃からサッカーを始め、9歳でサシェリアFCの下部組織へ入団した。 当初は中盤の選手だったが、次第にポジションが前に移動。14歳のときにはFWとして大成が期待される存在となる。 00年には、Bチームで34試合に出場し27得点を挙げる活躍を見せ、トップチームへ昇格。それ以降、数少ないチャンスを着実に生かし、結果を残し続けた。 プレイスタイルは典型的なCFW。185cmのがっしりとした体格でのボール捌き、一瞬のスピードに優れ、ヘディングも強い。 サシェリアFCでは、02年からレギュラーの座に定着。05年には10ゴールを挙げ、中位から下位に低迷しがちだったチームをリーグ戦5位に導いた。 代表歴としては、下部組織時代の97年にU—16サシャーユ代表へ初選出。その後も各年代に代表に選ばれ続け、00年にはU—20代表として国際ユースW杯でベスト4進出の原動力となった。この大会では7試合で5得点し、トップチーム昇格の時期を早めることとなった。この活躍を受け、各国の複数のクラブから移籍の打診があった。 だが、期待された04年のアテネ五輪にはケガのため出場を断念している。 A代表へは、04年に初選出。1トップを重視する戦術において、レギュラーであるハミック・レンジョンの控えとして重用された。しかし、ケガなどの影響で06年WFC最終メンバーからは漏れている。 06年以降は、FWの軸として期待され、10年WFCへ向けた予選で活躍。現在の代表チームでは数少ないポストプレイのできる選手として期待されている。 クラブとしては、09年にイングランドのアンバークラウンFCへ移籍。ECLへ出場する名門クラブの一員としてプレイしている。 サシェリアFC 90−08 237試合75得点 アンバークラウンFC 09− 23試合6得点 サシャーユ代表 31試合15得点 クリスティアン・ボイド Christian Boido MF 23歳 1986年、サシャーユ南部の都市ルルージェ生まれ。地元のアマチュアチームでサッカーを始め、FWとして活躍した。セイリューズ高校時代には全国大会ベスト4進出に貢献した。 高校を卒業した05年、1部へ昇格が決定した地元のルルージュFCへ入団。入団と同時に、スピードのあるドリブルとキック精度を買われて攻撃的MFへコンバートされた。 その後は19歳ながらもレギュラーの座を奪い、このシーズンは27試合に出場して3ゴールを奪う活躍を見せた。 この成績を受け、この年に北京五輪出場を目指して発足したU—20代表へ選出。代表デビューとなった05年12月の対U—20韓国戦では2アシストを記録し、代表にも定着した。 こうした活躍を見せながらも、クラブは06年に最下位に沈んで降格が決定。これを機に、オランダ2部のセルファイン・フェルカークへ移籍。激しいボディコンタクトの中で身体的にも成長を果たし、2部のアシスト王、ベストイレブンに選出された。なお、チーム内の平均評点は6.31とトップを記録している。 この頃は、元々評価の高かった切れ味あるドリブルとキック精度を高め、同時に2列目、3列目からゴールを狙う動きを身につけた。守備意識が低く批判されることもあるものの、攻撃面で決定的な仕事が欲しい時など、膠着状態を打破したい場合や攻撃的な戦術で重用されている。 そうして、08年にはA代表に初選出。その後は10年WFCへ向けたヨーロッパ最終予選にも出場を果たし、中心選手として期待されている。 また、2部での活躍を受けて、ドイツの強豪ハルシールAFCへの移籍が決定した。 ルルージュFC 05—06 63試合9得点 セルファイン・フェルカーク 07—08 68試合22得点 U—22サシャーユ代表 サシャーユ代表 オルササ・アリッチ Olseassa Arich DF 29歳 1980年、サシャーユ南部のエルジュア島生まれ。幼い頃は走り高跳びの選手として活躍し、小学生の全国大会3位入賞も経験している。だが、身長が伸びず断念。 サッカーを始めたのは中学校の頃。近所に住んでいた友人の兄がプロサッカー選手になったことがきっかけだった。その後はめきめきと頭角を現し、16歳で本土の都市レイシアへ単身移住。レイシアのサッカースクールで徹底的にトレーニングを行った。 そうした努力と、走り高飛びで培ったジャンプ力やスピード、体の使い方を見込まれ、99年にDFとしてエミールジュールへ入団した。 エミールジュールでは数試合に出場を果たしたものの定位置は確保できず、01年にツールへ移籍。ここではレギュラーとして抜擢され、CBとして守備陣を統率した。 すると、03年に代表に初選出され、06年WFCへ向けた予選でレギュラーに定着。見事に予選突破を果たした。 06年のWFCでは4試合に出場。2試合で完封し、チームのベスト8進出に貢献した。 アリッチの持ち味は、身長182cmと大きくない体格を完璧にカバーする驚異的なジャンプ力。空中戦には滅法強く、また空中での体の使い方により競り合いには絶対の自信を持つ。また陸上選手時代に学んだ一瞬の反発力を生かした走り出しにより、相手選手を封じるDFとしての才能、技術に恵まれている。 時には一つ前のMFとしてもプレイし、相手の攻撃の目を摘む役割を果たす。 こうしたツールや代表での活躍を受け、07年にイングランドのケールスワードFCへ移籍。新天地でもレギュラーとしてプレイし、09年度のECCの出場権獲得に貢献したものの、ケガの影響もあって退団。09年は同じくイングランドのFCカクラス・シティへ移籍した。 06年以降も代表には選出されWFC最終予選にも出場しているが、ケガがちである。 エミールジュール 99−00 3試合 ツール 01−06 174試合9得点 ケールスワードFC 07−08 29試合 FCカクラス・シティ 09— サシャーユ代表 32試合1得点 リリー・ソッキ Lili Socki DF 30歳 1979年、サシャーユの首都サシェリア生まれ。10歳でサッカーを始めると、翌年にはサシャーユFCの下部組織へ入団を果たしている。 落ち着いた対応と前線への推進力を発揮し、当初はボランチとしてのプレイが多かった。 その後、94年にポンレッチェへ移籍。95年にはボランチとしてU—17代表に選出された。 この頃になると、無闇に送る前線へのパス等が減り、守備意識が強くなっていく。下部組織で2ボランチのコンビを組んでいたセイン・シュミウォッカーが攻撃面で威力を発揮する選手だったため、バランスを取るため必然的に守備面での仕事に回ることが多かった。 中盤と前線に多くのタレントを抱えていた当時のポンレッチェにおいてなかなかトップチームでのプレイは叶わなかったが、99年に昇格を果たす。当時のボランチにはシュミウォッカーとヘンドミンが君臨しており、出場機会も限られていた。しかし、CBの故障が相次ぎ、そこに起用されることが多くなっていく。翌年は控えCBとして11試合に出場し、01年にはレギュラーとして31試合に出場。チームに欠かせない存在となった。 CBとしては、守備面での危機察知能力と落ち着いた対応、ボランチとして培った推進力を生かしたビルドアップの面で優れたプレイを見せた。そう言った点で、攻撃に転じた際にはボランチの前後までポジションを前目に取ることがある。 A代表には、05年に初選出。当初は控えCB扱いで、06年WFCメンバーから落選。しかし、それ以降は再び選出されている。 クラブでは06年にスペインのアルフェルト・マディアールへ移籍。その後は数カ国のクラブを渡り歩き、08年からはJリーグのサンフレッチェ広島でプレイしている。 サシャーユFC ポンレッチェ アルフェルト・マディアール センルースールFC タニクパイルス サンフレッチェ広島 サシャーユ代表 クラーノ・クライス Crarno Crise MF 27歳 1982年、サシャーユのアベレマン生まれ。17歳でエルナントの下部組織へ入団し、順調に経験を積んだ。FWやDFも経験したが、最終的にはMFとしてプレイしている。 しかしながら、2000年前後のエルナントはリーグ屈指の強豪であり、19歳でトップチーム昇格後も控えとしてベンチ入すらままならない状態だった。 そんな中、21歳でイギリスの古豪セルバーリーへ移籍。当時は2部から昇格したばかりのクラブにおいて、多くのポジションをこなせる器用さが重用され、レギュラーに定着した。 すると、フラーラン監督の下でチームも次第に力を付け、04年にリーグ2位、05年はついに優勝を果たした。この間はSMFのレギュラーとして多くの試合に出場し、ゴールやアシストを量産している。 20代前半はスピードやボディバランスと言った身体能力を強引に用いたプレイスタイルを見せていたが、近年は重要なプレイを確実にこなす高度なテクニックと判断力が加わり、MFとしてゲームをコントロールする選手へと成長した。 代表歴としては、10代の頃は各年代の代表選出は無い。そのため帰化でのイングランド代表入も打診されたが、サシャーユ代表選出を信じて固辞したと言う。A代表初選出は06年で、デビュー戦となったポーランド戦ではいきなり2ゴールと結果を残している。 06年WFCメンバーからはケガで落選したが、現在の代表では攻撃を仕掛けるスイッチ的な役割を担い、不動の地位を確立している。 セルバーリーでは07年から主将を務め、08年もリーグ優勝、ECLベスト4進出などサシャーユサッカー界において最も活躍する選手の一人である。07年と08年にはエル・マデール(世界最優秀選手賞)にノミネートされ、08年にはハミルトン卿杯(サシャーユ最優秀選手賞)を初受賞した。 現在はイングランドやスペインの強豪クラブからの移籍の噂が絶えない状況である。なお、サシャーユの伝説における「中世の偉大な王」と同じ姓を持つため、「皇帝」とも呼ばれる。 ミチェーレ・エンドー Michele Endo MF 27歳 1982年、サシャーユ西部の商都オルサカ生まれ。生まれてすぐに、南部のキャベマールへ転居し、サッカーの盛んなこの街で育った。 16歳で地元のセミプロへ入団し、18歳でプロクラブのキャベマール・シオタンゼ(2部)の下部組織へ入団。FWとして強引なドリブルを見せ、多くの大会で得点王に輝いている。 その後19歳でトップチームへ昇格するが、財政難等を理由にシオタンゼは2部から5部相当への降格が決定。これに伴い、多額の移籍金を提示したローゼン・アントコールFC(01年に1部へ昇格)へ移籍した。 移籍直後はMFに転向したが、戦術上の都合や細い体躯が影響してなかなかレギュラーになれず03年から05年までCDテームスへレンタルされている。空中戦やセットプレイを重視するチーム戦術の中で身体的に成長したという。 06年に復帰すると、それまで不動のボランチだったシーマーからレギュラーを奪い、中心として活躍。CMFやDMFとしてセンターに位置し、攻撃にリズムをつける選手として重用されている。最近はサイドに配置されることもあり、新たなスタイルも開拓した。 エンドーの特徴は、高いパスセンス。スルーパスやループパスに加え、フェイントをかけてからの意表を付いたパスも得意とする。FKも正確で、テクニックに秀でた選手である。 代表歴としては、04年にはアテネ五輪へU—23サシャーユ代表の一員として帯同している(出場は1試合)。アテネ五輪後一時期調子を落としてA代表選出はならなかった。A代表デビューを果たしたのは06年で、WFC後の新体制に選出。代表では主にCMFやOMFとして出場している。 クラブでは08年に7位に食い込む原動力となり、サシャーユFCやイングランドの強豪への移籍の噂がある。 キャベマール・シオタンゼ 00—01 17試合4得点 ローゼン・アントコールFC 02 4試合0得点 CDテームス 03—05 57試合6得点 ローゼン・アントコールFC 06— 88試合12得点 サシャーユ代表 31試合9得点 アイバン・トリオレス Aivan Triolez DF 26歳 1983年、サシャーユの首都サシェリア生まれ。父親は、78年WFC3位入賞に貢献した名DFセイメス・トリオレス。父親に指導によりサッカーを始め、9歳でサシャーユFCの下部組織へ入団した。 当時は小柄な体格を生かすためSTやSMFを主に務めていたが、次第に後ろ目の位置へコンバート。14歳でトップチームへ昇格し話題になるも、ケガ等の影響で定着はならなかった。 その後99年にバンザウェイへ移籍すると、カバーリングの能力と高いクロス精度を生かすためにボランチの位置でプレイ。中盤の底からボールを散らす働きでチームに勢いをつけ、トップチームに合流した03年には新人王に輝いた。センターでプレイをしながらも左右のサイドへ流れる動きも見せ、アシストも多く記録している。 代表歴としては、U—15、16のサシャーユ代表に選出経験があり、FWとして出場している。A代表デビューは04年。当時手薄だったSBとして抜擢され、以降は代表に欠かせない存在となっている。06年WFC代表にも選出され、全5試合に出場した。CBとのコンビネーションは抜群で、タイミングのいい攻撃参加も大きな武器となっている。 07年はリーグ戦序盤の大ケガで出場機会が限られたものの、現在も代表の主力である。 クラブではその後も中心選手として君臨。CMF、DMFとして活躍し、スタミナ不足も解消された近年はシーズンを通してプレイが可能に。08年はチームを5位に躍進させる原動力となった。「バンザウェイの至宝」とも呼ばれ、人気実力ともにトップレベルの選手である。 06、08年とハミルトン卿杯(サシャーユ最優秀選手賞)にノミネートされている。 サシャーユFC 92—98 9試合 バンザウェイ・ヘンデリッターズ 99— 216試合29得点 サシャーユ代表 42試合2得点 ヘユード・チャム Heyord Cham MF 23歳 1986年、ペルー北部の商業都市セラ・テンカーナ生まれ。父親がサシャーユ人の考古学者であり、母親はペルー人である。父親の発掘作業のためペルーで幼少期を過ごしたが、8歳の時に家族でサシャーユへ移住した。 ペルー時代にサッカーを始めて南米独特のサッカーセンスを身につけており、10歳でヴェクオンの下部組織へ入団。しかし、南米風のプレイスタイルが当時のヴェクオン下部組織の選手と噛み合わず、起用法が限られていた。そんな中でボディバランスを強化することで生き残りを目指し、186cmの長身と強靭な肉体でカバーするプレイを身につけた。 その後MFとして18歳まで在籍したが、ペルーの名門クラブであるリヴァン・テレカンテFCの誘いを受けて同下部組織へ長期のレンタル移籍。ここではテクニックを磨き、トップチームでの試合にも出場している。 06年にレンタル終了後、バンザウェイへ移籍。チーム事情の中でCBやSB等も経験したが、徐々に監督の信頼を獲得。07年の開幕戦で先発すると、そのシーズンは全34試合でフル出場を果たした。 特徴は圧倒的なボディバランスでボールキープしてからのスルーパスやボール捌き。ピッチ全体を見渡す広い視野も持ち、空いたスペースを有効に活用する。また攻撃面だけでなく、中盤でボールをカットする守備的な働きも高い評価を受けている。 サシャーユとペルーの二重国籍のため、04年にU—18ペルー代表でプレイ。その後はサシャーユ代表を選択し、U—23サシャーユ代表として08年北京五輪へ出場している。 サシャーユA代表デビューは07年。中盤の底に小柄な選手の多いサシャーユにおいて貴重な存在として注目されている。 ヴェクオン リヴァン・テレカンテFC バンザウェイ サシャーユ代表 エラディオラ・フルエータ Eldiora Flluieta FW 22歳 1987年、サシャーユ北部のスースラ生まれ。8歳でエミールジュールの下部組織へ入団する等、早くから才能が期待されていた。 下部組織では当初守備的MFとしてプレイ。しかし「シュートがうますぎる」ためにFWへコンバートされたという。12歳の時にはU—12スースラ選抜として、同郷のビーシーアとFWの座を争い、圧倒的な攻撃力を武器に全国大会で優勝を果たしている。 17歳でトップチームに合流も果たし(この年は4試合0得点)、順調にステップアップしていた。 だが、直後に左脚を骨折する大ケガを負い、2年間のリハビリ生活を体験。この間にビーシーアはイタリアで大活躍を果たし、そのギャップから一時は引退も考えたという。 06年に復帰すると、試合勘を取り戻すため2部のサンイト・レジーナへレンタル移籍。38試合に出場し、11ゴールを挙げる活躍を見せた。翌年はエミールジュールの保有するポルトガルの育成クラブでプレイした。 08年にエミールジュールへ復帰後はオビニア監督に抜擢され、32試合に出場。23得点で得点ランキング3位に食い込む大活躍を見せた。09年も21得点を挙げた。 この活躍を受け、08年にA代表デビュー。同時にU—23代表にも招集され、FWの軸としてプレイしている。A代表のエースとして期待されており、世界的な注目も集めている。 プレイスタイルは万能型。178cmと決して大柄ではないが、瞬発力を生かして距離を取り、体の使い方で相手を制する。高いシュートテクニックを誇り、咄嗟の判断力やラインを読んでの飛び出しも持ち味で、様々な戦術に対応できる。ドリブルも得意なためSMFとしてサイドから切れ込むことも多い。 09年はハミルトン卿杯(サシャーユ最優秀選手賞)を受賞した。 エミールジュール 95−05 4試合0得点 サンイト・レジーナ 06 38試合11得点 ポルト・コルティック・エミールジュール 07 35試合18得点 エミールジュール 08— 69試合50得点 サシャーユ代表 14試合9得点 イキリス・ポン Ikyrice Pone MF 28歳 1981年、サシャーユのトリーニョ生まれ。90年WFCに出場したサシャーユ代表を見て、サッカー選手を志したという。13歳でトリーニョの下部組織へ入団し、FWとしてプレイしている。しかし17歳で退団し、高校サッカーでプレイ。全国選手権出場を果たしている。 高校卒業後、リードンへ入団。ポストプレイを期待されたものの、下部組織でも満足いく結果は出せなかった。結局トップチームでの出場は2試合1得点に留まり、01年限りで戦力外通告を受けた。 退団後はサシャーユ中央大学へ進学し、弁護士を目指して社会法律学を専攻。一時はサッカーを引退する決意だったが、大学サッカー部監督の熱心な誘いで入部、再開した。 大学サッカーではFWやMF、DFもこなすユーティリティープレイヤーとして活躍。特に守備面では、元々FWだった経験を生かしての危機察知能力に優れていた。大学4年時には全国大学サッカー選手権に出場。ベスト4進出に貢献した。 次第にプロ再挑戦を目指すようになり、卒業後はアントレフェールトへ入団した。なお、弁護士資格は取得している(国内・海外両種)。 アントレフェールトではCMFとして初年から多く起用され、シーズン後半はヘルナンデスからレギュラーを奪取する活躍を見せている。 プレイスタイルの特徴は、無尽蔵のスタミナを生かしたハードワーク。また危機察知能力を生かした守備面での貢献だけでなく、攻撃時のオーバーラップ等切り替えの早さで中盤を取り仕切る。特にボール奪取能力はサシャーユ屈指のもので、激しいプレイを得意とする。攻撃時の思い切りの良いミドルシュートや大胆なポジショニングはアクセントとして心強い。 代表デビューは09年。08年シーズンのプレイが認められて選出されると、以降代表に欠かせない存在となった。代表でもCMFとしてプレイし、バランサーとして機能している。 リードン 00—01 2試合1得点 アントレフェールト 06— サシャーユ代表 ハインティア・キュリス Heintia Qlyze MF 25歳 1984年、サシャーユ西部のキュンベル生まれ。14歳で3部キュンベル・オルガメゾンFCに入団。小柄な体格の為なかなか試合に出場できなかったが、与えられたチャンスで結果を出し続けた。 16歳でサシャーユFCへ移籍すると、下部組織で才能が開花。ここではWGとしてピッチを走り回り、無尽蔵のスタミナで「ロケット」の愛称で親しまれた。02年にトップチームデビューを果たすなど、順調な成長を見せた。 しかし167cmと小柄な体格は成長せず、大柄な選手にポジションを奪われることが続くと、ベンチ外や下部組織降格を味わった。 その後、04年にトレンド・ファンへ移籍。ここでは位置を下げてMFでプレイし、圧倒的なボールコントロールとパスセンスでゴールを演出。06年には24試合で17アシストの記録を残した。 一方で、決定的な場面でも見方にパスを選択する等、決定力がやや弱いとされる。 06年、U-19以来となるA代表デビューを果たすと、攻撃的MFのポジションを獲得し、以降、初選出からの20試合連続先発出場記録を達成した。 だが、08年の代表対中国戦で右足首を骨折。4ヶ月間の長期離脱となった。 09年、復帰後は以前と変わらないプレイを見せ、10年WFC予選も主力として突破に貢献。クラブでもキャプテンをまかされる等、今後の活躍が期待される。
[PR]
by remarkabler | 2010-02-17 03:21

2009シーズン3

順位

チーム

勝点

試合

得点

失点

得失点

1

サシャーユ

 

34

26

4

4

67

25

+35

2

トリーニョ

 

34

24

4

6

75

35

+40

3

トレンド・ファン

 

34

 

 

 

66

 

 

4

エミールジュール

 

34

 

 

 

 

 

 

5

エルナント

 

34

 

 

 

 

 

 

6

テームス

 

34

 

 

 

 

 

 

7

ローゼン

 

34

 

 

 

 

 

 

8

アントレフェールト

 

34

 

 

 

 

 

 

9

ヘラルドセンゲン

 

34

 

 

 

 

 

 

10

バンザウェイ

 

34

 

 

 

 

 

 

11

ヴェクオン

 

34

 

 

 

 

 

 

12

デミンガム

 

34

 

 

 

 

 

 

13

ツール

 

34

 

 

 

 

 

 

14

エスペリオ

 

34

 

 

 

 

 

 

15

リードン

 

34

 

 

 

 

 

 

16

タリヌペイ

 

34

 

 

 

 

 

 

17

ワラルース

 

34

 

 

 

 

 

 

18

フェルナンドス

 

34

 

 

 

 

 

 

2

昇格チーム

 

34

 

 

 

 

 

 

1

ツーリオ・サルディ

 

34

 

 

 

 

 

 

2

ポンレッチェ

 

34

 

 

 

 

 

 


[PR]
by remarkabler | 2010-02-17 03:16

2009シーズン2

FCエスペリオ FC Esperio

 

昨季はまさかの残留争いで14位に沈んだエスペリオ。今季はアン・リーグのルネン(フランス)から元フランス代表MFペルエを獲得し、攻撃力アップで残留を狙う。

今季の目立った補強はペルエ以外に無く、昨季のレギュラーもそのまま残った。チームの中心となるのは26歳以上の中堅とベテランで、大崩れしないことが強みだ。

 

守護神のGKブレーマン(元サシャーユ代表)は今年39歳。昨季は終盤に正GKに復帰すると、残留を決定付けるスーパープレイを連発し代表復帰の声も根強い。

一方で、守備職人のMFケイラス(サシャーユ)が33歳で引退。代役は24歳のパーク(サシャーユ)か、今年U-19サシャーユ代表に選出された19MFカックリルか。

 

元々守備的布陣の戦術だったが、それが影響し、昨季のチーム総得点はリーグ17位の29得点。得点力不足の改善を目指し、久しぶりの大物ペルエの活躍に期待がかかる。

ペルエは、エラセナ(フランス)所属の0304年にはMFながらも19得点を記録し、代表にも選出された超攻撃的選手。05年のケガで近年は不調だが、今季は復活をかけて移籍してきた。年齢も30歳と円熟期に入り、キャンプもいい動きでチームを活性化。まだまだ連携は完璧ではないが、起点となってゴールにつなげるプレイが目立った。

 

戦術としては、これまでの442を徹底するなど大きな変化は無い。ボランチがサイドで駆け上がったり、逆にSMFが中央へ寄ったりと、走力でスペースを生み出していく戦術だ。

しかし、中堅とベテラン主体なだけに勢いの無くなる単調なプレイに終始することを懸念する声がフロントにはあり、シーズン中の若手補強もありえそうだ。

そんな中で、クラブユース出身で現在はセスーナ(スペイン2部)へレンタル移籍中のMFメルマーセイ(サシャーユ)の今夏復帰が有力。オールラウンドプレイヤーのメルマーセイは昨季、19歳にして15試合に出場すると2得点を挙げた。スペイン1部チームからのオファーもあっただけに、復帰が実現すれば新しい風を吹き込むことは間違いないだろう。

3年前に2部ハルエチコから移籍してきた25歳のMFノイーゼ(サシャーユ)のFW転向や、ブラジルのクラブへのレンタル移籍から復帰したMFドンボリ(サシャーユ)の成長など楽しみな要素は多い。

 

グランド監督(スペイン)は就任3年目の今季を勝負の年と位置づける。就任した1年目は10位、昨季は14位と順位を下げているだけに、今季が自身の進退にも影響するだろう。

近年はスペイン人監督が続いた影響で、スペイン流のショートパスを意識したポゼッションサッカーが伝統だが、限りある戦力でどこまで実践できるか期待がかかる。

 

2008年にはクラブ創立100周年を迎え、かつてはリーグ3連覇も達成した名門クラブだけに今年の成績は重要だ。

リードンFC Leedone FC

 

昇格組のリードンは最終戦に勝利し、15位で残留を決定。シーズン終盤に解雇されたエイシャン監督(サシャーユ)の後任が決まらず、コーチのハミルトン(スコットランド)が指揮を執ったが、今季はチームOBのクリントン氏(アメリカ)が監督に就任した。監督としての経験はあるが、大きな戦力補強の無かったチームをどう操るか手腕が期待される。

今季の至上命題も残留。守備的なチームなだけあり、確実に勝ち点を取る戦いが鍵だ。

 

苦しい経営事情もあったが、補強として入団したのは4人。降格したチェストンファンで控えだったGKカーツ(サシャーユ)と、サイドでスピードに乗るMFブルレノ(ブラジル)が入団し、ブラジル2部のセンテレオ・アストロからはMFカストロ(ブラジル)を獲得。ビッグネームとしては、リードンユース出身で「鉄人」の異名を持つMFパンテーラ(サシャーユ)がヴェクオンから10年ぶりに復帰した。

昨季14得点を挙げた20歳のFWチュエリ(サシャーユ)がフランスへ移籍し、クリントン監督はWG起用できる快足FWの獲得を望んでいた。結局獲得できず、CFタイプが並ぶ。ポストプレイヤーのクリス(サシャーユ)によるワントップが基本となりそうだ。

 

シーズン前には、4231の比較的攻撃重視の布陣で親善試合5試合を実施。サイド攻撃を徹底したこともあって、サシャーユから10の大金星を挙げたものの、残りの試合は4敗を喫している。サシャーユ戦ではサイドバックとボランチのポジションチェンジがうまく流れてクロスが多く上がったが、得点力不足は解消されず。最後の親善試合は4321の守備的布陣に戻している。新戦力であるブルレノとカストロの同時起用を基本としているが、シーズンで試合を重ねて修正していくほか無い。本来は守備からリズムを作っていくチームだけに、転換に苦しんでいる。

 

結局はこれまで通りに守備重視の戦術ではあるが、守備の戦力層は薄く、安心は出来ない。全員で守ってからのすばやいクロス攻撃を徹底することで、リスクの少ない試合運びが重要だ。堅守速攻と、1点を守りきるしぶとさを実現できれば、効果的に勝ち点を稼ぐことができ、残留がはっきりとしてくる。

 

キャプテンは昨季と同じくDFブリーマン(元ドイツ代表)。チーム内での統率力・影響力は抜群で、チーム一丸の意思統一が求められる。

また、6年前から1部チーム195試合連続フル出場中で、「鉄人」の異名を持つMFパンテーラが、DFニョンリ(元フランス代表、9097年にフランス、ギリシャリーグにかけて達成。217試合連続フル出場)の持つ世界記録更新なるか、注目だ。

ユースの生え抜き選手らの積極起用がキャンプ中には見られ、ブレイクする若手の登場でチームの勢いも変わってくるだろう。現段階では、17歳のMFスーラー(サシャーユ)と21歳のMFコーノ(サシャーユとクロアチアの二重国籍)がトップチーム入りしている。

タリヌペイ・リンベルースFC Tarinpay Lenverus FC

 

元サシャーユ代表でカリスマ的な人気を誇る、クラブOBのチークル(197786年、9701年。タリヌペイで現役引退。SYL通算162試合107得点、セリエA通算217試合151得点、代表通算87試合27得点)が監督に就任。強いカリスマ性で下位に沈むタリヌペイを復活させられるか期待がかかる。指導歴は無く、実力は未知数だ。

タリヌペイは昨季16位でシーズンを終え、23位のフローアローズと入れ替え戦に臨んだ。2戦合計00PK戦で勝利を手にいれ残留を決めただけに、今季の戦いも心許ない。

 

戦力面の状況では、FW不足が深刻。昨季はエースのオーコン(U21ナイジェリア代表)の1トップとMFシュトップ(アンゴラ)のやり繰りで過ごしたが、終盤での疲労は深刻だった。その影響か、オフにU21ナイジェリア代表合宿へ参加したオーコンは骨折し、全治5ヶ月の重症。開幕は間に合わない見通しだ。

 

ベルーム(トーゴ)やキンチャコ(マリ)といった期待のアフリカ出身の若手FWはほかのチームに引き抜かれ(ベルームはイングランドへ、キンチャコはエミールジュールへ移籍)、現在まで新しいFWは獲得できていない。キャンプでのFW登録はケガのオーコンと16歳のオカンガ・メンガル(トーゴ)だけで、財政的も苦しく攻撃陣の迫力不足は課題のままだ。放出して得た移籍金でアフリカの若手選手をリストアップすると同時に、確実性のあるサシャーユ人選手の獲得を目指している。現在はデミンガムで出番を得られない26FWグリマー(サシャーユ、06年に10得点)の名前が挙がっている。

 

チークル監督はキャンプで4231を用いた。1トップにはオカンガ・メンガルが入り、MFからもFW経験のあるシュトップやスライト(サシャーユ)、イレオ(元チュニジア代表)らが就いた。195センチを誇る18歳のGKマリリン(サシャーユ)を前線で起用するなど、転向も含めた柔軟な発想を発揮した。

キャンプで試された4231のフォーメーションを生かすためのサイドには経験豊かな選手が揃い、昨季までの守備的サッカーからの脱却を目指している。右MFにはベルッチ(サシャーユ)、左MFはクルマン(サシャーユ)と運動量の豊富な選手が張り、中央のファニーツィア(グアテマラ代表)も含めて内へ外へ、上へ下への動きが期待される。1トップのFW不足対策として、シュトップと新鋭MFウィルキンス(サシャーユ)が下がり気味にFWを務めるゼロトップ戦法もキャンプでは見られた。ニュースターの出現が、チームに良い影響を与えるだろう。

08年のユースカップでベスト8に入った世代の奮起にも期待だ。

キャンプでは高いユーティリティー性を選手に求めたことで、徐々に戦術に広がりが見られる。チークル監督が現役時代、ウドエシンク(イタリア)で経験した名将メリーニ監督(イタリア)に通じる「ポジションの変幻自在なサッカー」という方向性を実現することで、7年ぶりのAクラスを目指す。

CD ツーリオ・サルディ CD Tulio Soldis

 

5年ぶりに1部に復帰するツーリオ・サルディ。昨季は10連勝する破竹の勢いでライバルを蹴散らしたが、その勢いが続くか注目だ。名将フラッキオ監督(イタリア)のもとで着実に力をつけた名門が、台風の目になるかもしれない。

 

1970年代、代表選手を多く抱えた名門クラブも、90年代になると若手の育成に方向転換して多くの主力を放出。72年から77年の間で実に17人のレギュラーを失うと同時に若手育成も失敗し、下位に低迷。1998年にはチーム創立以来2度目の2部降格を経験した(1度目は193437年)。

直後にフラッキオ監督(チームOBで、かつてサシャーユを率いてリーグ優勝経験あり)を招へいし、堅実な強化に着手。効果的な補強と若手育成が功を奏し、0304年に2部で5位、0506年に4位と順位を上げてきた。そして昨季、フラッキオ体制8年目に念願の昇格決定の優勝を勝ち取ったのだ。

 

チームの基本戦術は、3バックにも変更する変則的な451。攻撃時にはバリエーションが多く、研究されるまでは苦労するチームが多いだろう。3人のボランチの前に2人が横に並んだ中盤は厚く、堅守速攻のカウンターで得点を狙う。2部でもこの戦術を徹底し、2部独走の状態でも変えなかった。昨季のチェストンファンがそうだったように、2部の絶対王者が攻撃的な姿勢のまま1部を戦うのは、危険が付きまとうからであり(5年ぶりに昇格した昨季は18位で降格。2部で爆発的な効果を上げた3133の超攻撃的スタイルを貫き、単調なシステムとレベルの差に泣いた)、1部でも継続するだろう。

 

中心となるのは、MFフランコ(スペイン)。U15U19で代表経験を持ち、豊富な運動量が持ち味。変則的な守備ラインでの的確なカバーリングや、両SBが極端に上がった際のSWなど、守備に貢献している。昨季は30試合でフル出場するなど、30歳にして衰えを見せない。今オフにはレンタルだったスペイン1部デッカリから完全移籍するなど、ますます中心選手としての期待がかかる。ドリブル突破や意外性のあるパスを供給して攻撃を司るトップ下のMFユーリー(サシャーユ)、ポストプレイの得意な1トップFWゼッキ(サシャーユ)を支える重要な役目だ。また、高い戦術理解能力でゲームのリズムを作ることを期待されて入団したのが、06W杯にも出場したMFカルニッチ(元クロアチア代表)。25歳と若いだけに、攻撃において今後の軸として期待されている。

FW1枠を充実させるため、ボックロース(サシャーユ)補強の噂もある。

 

降格するフェルナンドスから移籍した2人のFW、マリオ(サシャーユ)とションボリ(サシャーユ)にも注目だ。ともに34歳のベテランは、スーパーサブとしての起用が見込まれている。彼らは99年までツーリオ・サルディに所属しており、過去を知るキーマンとしての役割が期待される。開幕戦は昨季王者のサシャーユ。注目の一戦だ。

FCポンレッチェ・クリムセーラ FC Ponracha Cramsele

 

実に長い、1982年以来となる昇格を果たしたポンレッチェ。走力と柔軟性を兼ね備えた、久々にまとまりのあるチーム状態にあり、1部残留を目指すシーズンになる。

昨季、就任1年目の名将グラム監督(オランダ)は3133の攻撃サッカーを徹底し、見事に昇格を果たした。プレスの徹底ぶりによるセカンドボールの奪取能力は1部にも引けを取らない強さで、そこからの起点作りやサイド攻撃など、戦術の柔軟性に富んでいる。

 

1部での挑戦に向け、要となる中盤の底に昨季終盤までの不動のレギュラー、MFテルー(元サシャーユ代表、第31節のケガで全治9カ月)に代わり、「ロシアの闘犬」とも呼ばれたMFヤンベルスキ(元ロシア代表)を獲得。昨季までパラグアイリーグでプレイしていたが、ロシア代表監督経験もあるグラム監督自らが説得して入団させた選手だ。90年代のウダイセクタCC(イタリア)時代は、グラム監督の下で活躍し、リーグ優勝経験もある。激しいタックルとカバーリングに優れ、守備的位置はほとんどのポジションがこなせるため、流れの中からの飛び出し、前線やサイドに流れてゲームの動きを変える働きが期待される。

また、3年前までグラム監督が率いていたオランダのヘッテルセDVCからは、運動量の豊富なMFイ・ギョンボムとDFハン・ギヒョン(ともに韓国代表経験者)を獲得。即戦力として期待のかかる愛弟子たちの起用に注目だ。

 

しかし、新選手を獲得するばかりでなく、生え抜き選手の起用方法にも注目は集まっている。これまでCBとしては控えに甘んじていたDFメーラ(サシャーユ)をトップ下にコンバート。FWや前線のMFとして昨季7得点のミゲル(サシャーユ)をWBに下げ、逆にSBが本職だったDFホーミー(オランダ)をWGに起用している。

実際にキャンプでの練習試合ではメーラのポストプレイやミゲルの積極的な上りとミドルシュート、前線からの積極的なプレスが効果を挙げている。また、リベロのDFタリム・ヤドッケルス(サシャーユ)の積極的な攻撃参加も脅威となるだろう。

気がかりは、WBネレ(サシャーユ)が連戦の疲れで未だプレイの見通しが立たない所か。

 

レギュラーでCFを務めるFWアナン(サシャーユ)は昨季、2部で28得点を記録。3トップだけで合計53得点と、破壊力は高い。

また、唯一の代表経験者だったMFデルオカ(元サシャーユ代表)をレンタル移籍で放出して得た高額の資金があり、シーズン中での選手補強も考えられるだろう。

手薄なCMFを担うヤンベルスキのバックアップとして、00年シドニー五輪代表だったMFネキュメイラ(サシャーユ、ポルトガル2部でプレイ)との接触が報じられている。

 

昨季は就任1年目ながらも、既存の戦力で1部昇格を達成。今季はさらに新戦力を獲得し、緻密な戦術と的を射た交代策で、「魔術師」グラム監督の存在感がひと際目立っている。残留の第一目標以上に、上位進出も望めるかもしれない。

1888年、商業貿易で訪れたイングランド人らにより、サシャーユ西部のアントコールにサッカーが伝えられた。しかし、伝統的球技コルトの人気が圧倒的で、全国的に普及し始めたのは1890年代の終わりである。1891年、イングランド系移民やサシャーユ人通訳らにより、国内初のサッカークラブとしてアントコール・ナショナルFC(以下アントコールFC)が創立された。アントコールFCは確固たる組織ではなく、選手の多くが船乗りであった。人数がそろった時にだけ海外で試合を行っていたという。

 

1895年、イングランド帰りの銀行家ピーク・レックスグレマンにより、首都サシェリアに国内2つ目のクラブチーム、サシェリアFCが創立。その後はこの2クラブの非営利試合が細々と行われたものの、国民的人気獲得には至らなかった。

 

1900年、レックスグレマンが国内初となるトロフィーを賭けた営利目的の試合を開催(5-7でサシャーユFCが勝利)。すると、それを機に全国の都市を拠点にしたクラブが5つ相次いで誕生し、不定期に試合が開催されるようになる。1905年には国内初のカップ戦・デウィリス卿杯が行われた。その後、営利目的のカップ戦が定期的に開催されるようになり、競技人口は徐々に増加していった。

 

1907年、国内初となる政府公認のカップ戦・サシャーユ国王杯が参加10クラブで行われ、アントコールFCが優勝している。このカップ戦は観客の熱狂がすさまじく、コルト人気と相まって国民的スポーツの仲間入りを果たした。ギャンブル的要素の強かったコルトの規制強化に対する反発を避けたい政府がサッカーの普及に力を入れ始めたことが大きな要因である。

その後は、公式なカップ戦が活発に開催されるようになり、プロ化へ向けた機運が高まっていく。

 

1908年、ロンドン五輪のサッカー種目に国家代表を編成。しかし、すでにプロリーグの存在した各国には力及ばず、7位(8ヶ国中)に終わった。

 

そんな中、当時は領土拡張や植民地政策の好調もあって国家的な強化を望む声が急増。これを受け、1909年、サシャーユサッカーリーグはプロとしてスタートした。このとき参加していたのは7チームだった。

1911年にはサシェリアFCがイングランド、フランス遠征を行い、翌年には国家代表同士でも遠征している。

 

1915年ごろには、参加クラブが15に増加するものの、実力のある代表選手がアントコールFCとサシェリアFCに集中。2極化の時代を迎える。

1925年、ヨーロッパの各クラブが総当たりで戦うヨーロッパクラブカップが開催。アントコールFCとサシェリアFCが参加し、アントコールFCが準優勝。ヨーロッパでのサシャーユサッカーの地位を確立する。

1927年、国威発揚の意味合いを含め、フットボールクラブを意味する「FC」がサシャーユ語の「CD」へ変更するクラブが増加。

 

1930年代前半は、多くのクラブが国外遠征を行い、植民地化していた北アフリカの一部にも原住民も参加するクラブができるなど活発な交流が見られた。

1934年、

1936年には

 

この時代、国策に倣い環地中海各国による多国籍リーグ構想が出来上がる。

 

1940年、戦争の本格化により外国クラブとの対戦が中止。IFFAはサシャーユの無期限対外試合禁止処分を決める。

1941年、リーグ中断。

1945年、終戦。正確には、1946年の1月まで北部ではゲリラ戦闘が行われていた。

1946年、ゲリラの全面的終戦宣言を受け、IFFAはサシャーユの除名を決定。

1947年、復員した元選手たちがリーグ再開を申請するものの、占領していた連合軍は不認可。

1949年、粘り強い交渉にも関わらず再開の目途は立たず、イギリスやイタリアのクラブが遠征のためサシャーユの競技施設を使用するようになる。IFFAへは復帰。

1950年、占領はなおも続き、リーグ再開を待たずして多くの選手が国外リーグへ流出するようになっていった(あくまで国家・クラブの対外試合禁止であり、個人は拘束されていない)。この間、選手のほとんどは国外でプロ生活を目指した。

 

1952年、イタリアのパリムラーゼに入団したフレデリック・マンシーが、サシャーユ人として初めて国外リーグで優勝し、同時にヨーロッパクラブカップでも優勝を経験する。

 

1954年、IFFAはサシャーユの処分の終了を決める。同年、連合軍はリーグ再開を認める。

1955年に正式にシーズンを開幕させ、全国から16クラブが参加を表明。110クラブ、2部が6クラブで開始。

1957年には1部のクラブ数が15に、2部が10に増加。

 

しかし、50年代は多くの選手が国外で主力として活躍していたため、国内復帰する例は少なく、決して高いレベルとは言えなかった。1956年に17年ぶりに開催された代表選では、スペインに70で負けている。

55年にはEFA主催の大会に復帰したが、全クラブが予選敗退している。

1961年に、50年代のイタリアで活躍したケラー・ミラーズが国内復帰を表明。この時期から、全盛期を過ぎ始めた選手たちが国内へ積極的に復帰し始める。

 

2部所属18クラブ

 


[PR]
by remarkabler | 2010-02-17 03:14

自社概要 従業員:1名

このサイトの記事は全て「うそニュース」です。気楽に読んで笑ってください。

虚報タイムスについて
  【よくお読みください】

虚報タイムスtwitter
紙面版のご案内

展示記録:
2007-2010年
武蔵野美術大学芸術祭にて新聞紙面作品を展示

mail
news.lie.net(アット)gmail.com

何か問題やお気づきの点がありましたら、メールやコメントにてお知らせください。


ニュース系リンク

世界びっくりニュース
虚構新聞社
Museum of Hoaxes
偽嘘新聞
アソビ・コム
笛育新聞社
バーチャルネットほら吹き娘 燕17歳
Dの嘘
脳内新聞(ブログ版)
ほほえ味屋
テクトイックス・タブロイド
bogusnews
Unidentifier
やゆよ記念財団
毎嘘タイムズ

その他リンク

猫とあじさい
新・手品師の裏側
Eccentric World of Shanla
AVANTI
Magicboy
幻想標本博物館
海外ボツ!News
なんでも評点
ABC振興会
AZOZ BLOG
TrekEarth
X51.ORG
Pya!

人気ジャンル

以前の記事

2015年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 03月
2010年 02月
2009年 06月
2009年 01月
2008年 07月
2008年 05月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 04月
2005年 03月
2005年 02月
2005年 01月
2004年 12月
2001年 12月
2001年 04月
2001年 03月

お気に入りブログ

Mistery blog
読んだ海外ミステリ
100STORY
新月倶楽部
雲谷斎の「逢魔が時物語」...
rubytuesday ...
日々是読書
北イタリアの風景
政態観察ブログ版
キューブ水槽でアクアリウム
Jugemu - Magic
Creative Story
話すコトバをアタシは知らない
現代用語のクソ知識200...
蒼天     by 蒼唯 
地下唯我独走
わたしのとなりに誰かいる
foggyな読書
マジシャン南海子Diary
clear water
中国歴史小説と幻想的な恋の話
Tomp Stompの子育て記
コトバのタカラバコ
虹の螺旋
駿河木の家日記 sur...
F.A.Q.
GUYの日常
O V E R D O ...
Livre/Football
La noticia a...
~  想 奏 曲  ~
空の色
100年前のフランスの出来事
松田のネタ帳